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2006.12.30. カミさんのティータイム:ダチョウの卵
 ダチョウの卵を見た、そして食べた。人生お初である。
 先日、トリ屋(といったって焼き鳥やの寄り合いではない)のちょっとした集まりに出席した。その宴席に、女獣医(じょじゅうい? なんかスゴイひびき)さんが差し入れてくださったものだ。TVなどで見てはいたが、やはりでかい。ニワトリ25から30個分というから、赤ん坊の頭くらいはある。
 厨房から「うぉっ、うぉっ、こりゃー、割れねー」などと、格闘の雄たけびがとどろく。そうとう殻が頑丈らしい。しかる後、ふたつの大きなカニ玉となって登場した。ダチョウの卵のカニ玉である。味はふつうのニワトリの卵と変わりはない、と思う。黄身の色は山吹色かと想像していたが、家で食べているのより白っぽい。もっと野生的な味を期待していたたが、思いのほか淡白であった。少々、大味ってわけだ。

 すっかり中身をぬかれたダチョウの卵を手に持ってみる。胴回り38.5センチ(因みにCDの外周が38センチぐらい。どうでもいいが、痩せ型の私の太ももを測ってみたら42センチ。)、高さ14センチほど、美しいクリーム色をしている。殻、あくまでもしっかりしていて、厚さ2ミリ、プラスチックかとおもわれるほど人工的だ。中の膜もすごい。サランラップを3枚くらい張り合わせたくらいにしっかりしている。これじゃ大変だ。これから生まれようとしている雛にはかなりハードだ。しかしきっと内側からの力には、弱くなっているのだろう。じゃないと、ダチョウは生まれずしてダウンだ。私は殻をやぶろうとしてへとへとになってしまった雛の気持になってみた。悲しくなってカニ玉への意欲がおちた。

 ここで、知人のM氏よりダチョウ話のメールあり。アフリカでは「ダチョウの卵売り」というのがいて、少年が頭にのせて通過する車にセールスするのだそうな。“思わず買いたくなったと”メールにあったが、それは少年への愛か、単に卵への好奇心か・・・。しかし奥さんに叱責され思いはたせず、とあった。奥さんの気持、よーくわかる。旅先ででかい生卵買ってどうするっ!
 メールにダチョウの写真が添付されていた。雄雄しくサバンナに佇むそのお姿は、○○ファームあたりのダチョウと風格違うね。

 ダチョウといえば、オストリッチ、といえばバッグである。高級品の代名詞としてクロコダイルと並び称されている。幸いにしてどちらも持っていない。正直オストリッチのバッグのよさが分からない。あのブツブツがよろしいと思えないのだ。あそこから羽がはえて、まさに鳥肌なわけで、それを撫ぜてめでるのである。人は高価というだけで美しいと思えてしまうのだろうか。
 ともかくむやみに殺生してはならぬ。これ、御仏の教えである。しかしながらヘビ皮のサイフは金運によろしいと聞く。というわけで、ひとつここのところは目をつぶり、来年はヘビ皮の財布にしてみようか・・・と思ってしまう意思の弱い私であった。
 来年もよろしくごひいきのほどを。(塚本和江記)

2006.12.30. 気の長〜い夢
 バード・フォト・アーカイブスも大晦日を迎えようとしている。モノクロ写真の収集、保存、活用、継承を目指して早くも2年半。切りなく思える仕事の山を追いかけ、生きる意欲がわいて尽きることがない。今年も精一杯だ。
 これも、モノクロ写真やネガをご提供くださった方々をはじめ、多くの皆さまのお力添えあってのこと、感謝にたえません。この場を借りて、心からお礼申しあげます。

 会社設立の時に、いずれ実現させようと決めた夢があった。提供された写真を活用して得られた純益を、野鳥や自然の保護活動に寄付させていただくこと。ささやかでも社会還元する意気込みである。それで自然が守られ、そのことをもって、無償でモノクロをご提供くださった方々へのお礼にかえさせていただきたいのである。それにはまず純益を出さねばならない。
 実は、台所事情は純益どころではない、お察しの通り。これではいつまでたっても「公約」がはたせない。無謀にも私は普通預金口座を一つ増やした。それが普段は引きおろさない「BPA自然保護積立金口」である。ここに、純益ならぬ売上高の5%をまず積立てることにした。販売物のおつりはいらないよといった小金なども加えられる。
 なにごともゼロからのスタートとなれば、今年は、まずはそのスタートをきった年である。始めは小さくとも、夢は大きくだ。
 「オメデタイよ」と言われそうであるが、内心「今に見ていろ・・・。」

 バード・フォト・アーカイブスへのご寄付は、済みません、いくら高額でも寄付金控除の対象にならないのだが、それを承知でのご寄付は金額の多寡にかかわらずいつでも歓迎です。自然保護団体などへの寄付が実現の運びとなった際には、ホームページ上で寄付者のお名前を出させていただくので、几帳面に記録はとっている。
 因みに、企業がこの手の社会還元をいくらしても、税制上の優遇特典はないそうだ。日本は、欧米のシステムにかなり遅れをとっていることを、相談にいった税務署担当氏は認めていた。日本の社会も税制改革で企業の寄付が潤沢に自然環境保護活動にまわっていくのは、いつの日か。この手の税制改革のための市民運動をする余裕など私にはさらさら無いが、その日が早くくることを期待したい。(塚本洋三記)

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2006.11.22. カミさんのティータイム:鳥打帽

 ヒューヒューと木枯らし吹く初冬のある日。
 遅くに帰宅した夫は、両手で頭をなぜながら「ああ、寒っ」とつぶやいた。まったくだ・・・。おぐしがすっかり薄くなった後頭部はダイレクトに寒風にさらされ、ことのほか寒々しい。切ない。
 「そうだ、この感じ、どっかで見たわ。ああ“北の国から”の、海辺の崖っぷちで風にあおられていたタコの干物のシーンのようだわね。(ひょっとして、イカだったかもしれない)」などと心のなかでつぶやいた。口にだしてはいけない・・・。
 昔、円形脱毛症をわずらったことがあるので、毛髪の悲しみは少しは理解できる。胃のあたりから、ゆらゆらわきあがる寂しさは鼻を抜け、涙しそうだった。
 と言う訳で、一気に帽子屋へむかった。本日のミッション「おやじの似合う帽子をゲットせよ」なのだ。
 銀座トラヤは紳士ものの帽子が充実している。いわゆる銀座風のものから、おっちゃん風ニット帽、あぶない芸術家風ベレー帽まで充実している。そこで夫が心動かされたのは、“鳥打帽”つまりハンティング・キャップ。19世紀半ばイギリスの上流階級で狩猟用の帽子として生まれた。ときどき時代錯誤した銀座のおやじがパイプだの片手に、なにやら薀蓄(うんちく)をかたむける時に必要な小道具として使われるが、そんな恥ずかしい事はしてはいけないのよ。

 そのチャコールグレーの鳥打帽は、店の棚に無造作に重ねられていた。しかしかなりの存在感。ラベルをみれば、“Borsalino”とある。イタリアのボルサリーノ社のものであった。例のイタリアマフィアがかぶるような中折れ帽は、スタイル名になってしまっているほどだ。あれは実は会社名なのだ。
 ここの製品、特に紳士物はすばらしいと私は確信している。やっぱり・・・ね。素材、型、お値段さえ、どれもよろしい。使えば使うほどに身体になじみ、その人の一部になる。これ、紳士物の帽子の命。男の小道具の醍醐味である。
 ここで僭越ではありますが、どうも帽子は似合わないけど挑戦してみようというお方に、ちょとアドバイスなど。どうぞ根性だして高価でちゃんとしたものをお求めください。はっきり言って安物の帽子は人を選ぶ。かぶりこなすのが難しい。そこいくと、高価なものはラインが美しい。かぶるお顔のでき、不でき、さらに本人が醸し出すムードを超越して、帽子そのものの力で持ちこたえるのである。まずは良いものを選んで、頭にのせる。するとたいがいはイケてしまう。
 そのセオリーにのっとってか、夫はボルサリーノ社の上質な鳥打帽を握りしめていた。これで寒さと劣等感に打ち震えることなく、街を闊歩できる。ミッション完了。(塚本和江記)

2006.11.17 東京湾にガンがいた頃――鳥・ひと・干潟 どこへ――
            
(塚本洋三著、文一総合出版)

 私の本ができた。身近な方々からのさっそくの反応を二、三紹介させていただく。
 「なんで古本が置かれてるの?」出版では一、二歩先輩のNさん。と思って手にとってみたら、表紙も中もいぶし銀の味わい。色鮮やかなもろもろの新刊書のなかで、その「古本」が妙に主張していて、存在感さえある。「つかGさん、やるじゃん!」(いや、デザイナーさんのお蔭です。)

 「大変ムードのある表装ですね。しかしはっきり言って売れる分野の本ではないですが、どうしても世の中に残しておきたい本ですね。」執筆を後押ししてくれた親友T君から。(う〜ん、同感。どっこい、密かに業界ベストテンの売れ行きを・・・)

 「モノクロ写真の懐かしくも素敵な世界、そこから発せられるメッセージ…考えさせられることの多い本です。」一般書店販売に先立って、一早くFIELD ARTのホームページでPRしてくれたTさんご夫妻。(そう、「エピローグ」と「終わりに」の前半は、時間がなくとも読んでいただければ望外です。)

 「鳥の本は山ほどあるけど、古き良き時代のバードウォッチングを伝える本はありそうでないよな。それに50年前のどうでもいい・・・どうでもいいとは言わないけど、捨てられていそうな写真がでてて、これがまたいいねぇ。」カメラ好きのベテランバードウォッチャーHさん。(まったく、なぜか捨てられずに残されていたモノクロ写真は、62点がデザイナーさんのコダワリですべて二色分解され、風味を増して本文を飾ってくれてます。)

 なんと言おうと言われようと、とにかく私には満足のいくできなのだ。お一人でも多くの方に読まれ、明日の環境を考えるきっかけとなり、それが自然を守る行動につながることを願っています。

 単行本を著したことのない私はスタートでモタモタし、モノ静かで優しくみえる鬼エディターSさんにハッパをかけられること、しばしば。デザイナーのKさん・Tさんコンビに、この手のこととなると欠かせないカミさんとともにチームを組み、打ち合わせというか、一杯やって景気をつける方が主眼というか、そんなことを経て「オレが原稿書かないことにゃ何も始まらない」と理解した。
 やる気を起こしてからが、我ながらスゴカッタ。日に夜をつぎ、構成から原稿を一気にしあげていった。PCのディスプレイの向こうに、本を買って読んでくださる読者がおられることを意識しながら。
 そんなころ、すでに何冊も出版経験のある鳥友のMさん、いわく。「そりゃ塚本さん、ムリでしょ。ボクも同じころ本を出すんだけど、いま初稿ですよ。原稿まだ書いてるのっ? ムリじゃないのかなぁ。」
 ムリらしいけど、間に合うと信じていたのは、打ち合わせを口実?にグラスを傾ける我が出版チームだけであったようだ。
 Mさんから『カラスはなぜ東京が好きなのか』(平凡社)というアカ抜けした表紙の新刊本がドンと贈られてきたとき、不思議なものを見せつけられたような心地した。そのとき、私は目を三角にして初稿に取り組んでいたのだった。

 一心とはオソロシイ。見よ、ほぼ予定通り出版されたのだ。(塚本洋三記)

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2006.10.21. カミさんのティータイム:パブロ・カザルス「鳥の歌」

 秋の到来である。夏の暑さにやられた脳みそはナマコ状態を脱出し、その冷気を感じ引きしまりだした。ここ都心のど真ん中、いち早く秋の到来を感じるのは、悲しいかな自動販売機とコンビニだろう。缶コーヒーは“温か”モードにチェンジされ、コンビニの肉饅頭はガラスケースのなかで“ふくふく”と私を誘惑している。ああ、秋。

 チェロの天才パブロ・カザルスのライブ版を聴いている。1961年、時の大統領ケネディに招かれ、ホワイトハウスでの演奏会のものである。すでにもう何十回も聴いている。大天才バブロ・カザルスのチェロだ。故郷カタロニア地方の民謡「鳥の歌」。多くの人々が心ふるわせ、魂がゆさぶられたものだ。いろいろな書物や解説で、数々の賛辞がよせられ、私も幾度となくそういったものを読んでいる。感動しなくてはならない。
 しかし今回も駄目だった。「感動しなかった・・・」と言いたくはないのだが、やっぱり魂がうち震えてはこない。みんなが“すごいよ”というものを、“感動しなかった”というのは、“あたしって教養ないわ”と白状しているみたいなもので、けっこう勇気のいるものなのだ。ハリウッドの大金かけた娯楽映画や「スパイダーマン」に感動しなくても、どうってことはない。しかしこれは、20世紀最強の芸術とされているものなのだ。
 自慢にもならないが、音楽や絵画などにふれ心臓ワシ掴みされると、すぐにうるうるするタイプである。大好きなバイオリニストのある曲の、ある小節にくると、かなりの確率で泣く。七割くらいで涙する。その曲を聴く時は必ずティシュを用意しておくほどだ。
 なのに、である。いまだ「鳥の歌」には泣けないでいる。チェロ、バイオリンなどは好きな音色である。そのうえ音楽至上最強のチェロ奏者で、独裁者フランコに反し、平和のために心血をそそいだ筋金いりの人物である。魂がうち震えるには、完璧だ。
 なまじ知識が先行していたせいか・・・。力みすぎ、そして感動せねばならいという脅迫観念のために、根性が萎縮してしまったためだろうか。あるいは古い録音のため、いい音に慣れた耳には異物と認識してしまい、音楽として取り込めなかったのだろうか。いや単純に、この芸術を受け取れるだけの器量が私になかっただけかもしれない。
 はてしなく秋の夜長に自問自答はくりかえされる・・・。

 そういえば19の頃、おおいなる予備知識のもとに一曲の歌をきいた。ダミアの「暗い日曜日」。1933年ハンガリーで発売され、その後、販売・放送禁止になった。自殺するものが後を絶たなくなってしまったからだ。
 これにはまいった。暗くて、すべてをからめとるほど力強かった。その頃の私には、前評判どうりだったのだ。今の自分が聞くと何を感じるのだろうか。おっかないので、聞かないことにしよう。                                            (塚本和江記)

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2006.10.18.  BIRDER誌連載が本になる

 秋。雁、渡り来る。
 初雁のメールが、というよりここは「初雁の便り」といきたいが、佐渡の鳥友から届く。
 刈り取り後の稲田にいたマガン幼鳥2羽が飛び立ち、真野湾方向から飛来した18羽の本体に合流。鳴き交わしながら、カギになりサオになりして夕陽に輝く西空にシルエットとなって去り行く。収穫された黄金色の波、コンバインのエンジン音の軽やかな響き、稲わらの懐かしい香り・・・。
 想像するだに、完璧な絵になるメール。初雁の便りをうらやむばかりである。

現在

鳥居から右に目を転じた現在の景観。1964年からの埋め立て工事で
一変。千葉県設行徳鳥獣保護区
“沖”のガンも干潟も、消えた。
2003年9月30日

昭和35年

千葉県宮内庁新浜猟場の沖。漁師がベカ舟を滑らせてくぐる鳥居の上を、ゴマ粒をまいたような50羽ほどのマガンが雲間を過ぎる。1960年3月13日

 私は東京の下町は大川端にいて、ガンの渡りを気にすることもなくなっていた。
 4,50年ほど昔なら、
 「さぁ、もうそろそろマガンがやってくる頃だな」
 気もそぞろに、私のホームグラウンドだった千葉県新浜へと向かう。まだ、2−300羽のマガンが定期的に渡ってきていた頃だ。

 そんな昔、バードウォッチングにうつつを抜かしていた私の体験談が、来月初めには一冊にまとまって刊行される運びとなる。ずばり「東京湾にガンがいた頃――鳥・人・干潟 どこへ――」(文一総合出版)。
 詳しくは次回に。まずは明日あたりあがってくる最後の校正を急がねばならない。  (塚本洋三記)

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2006.9.29.  カミさんのティータイム:若冲の鶏
 若冲の描くニワトリは、闘鶏のように闘争本能むきだしだ。展覧会という文化的空間で、血圧があがってしまったかもしれない。気の小さい私にはこの絵は毒だ。しかし“尋常でない作品”はともかくよろしいとする癖(へき)にはぴったりなのだ。
 「紫陽花双鶏図」のニワトリでも毒々しいほどに派手だ。オスのトサカなど炎のようにそそりたち、あご下の真っ赤なびらびらは、もったりと重そうにたれさがっている。目をこらしてみると、その顔は赤で塗りつぶされているのではなく、毛細血管がつながったように細密に描かれている。一見大らかなニワトリは、実は、羽の一本一本までパラノイア的に描かれた、細かな表現の集積であることに気づく。
 ニワトリはリアルに描かれている風を装ってはいるが、じつはおおいに誇張されている。ニワトリはこんなポーズはとれない、ボデイの羽の固まりが不自然、紫陽花が大木のようだ、等々、ちいさなデフォルメのかたまりが、迫力のリアリティを生み出している。

 2000年に京都で展覧会が行われ、若冲ブームがおこった。それまで私は、若冲なるもの知らなかった。しかし、その時期にテレビの番組に取り上げられたのであろう。絢爛豪華なニワトリの絵だけは知っていた。そして2006年、「プライスコレクション――若冲と江戸絵画」の大ブレークで、はじめて本物を見てきたのである。
 「紫陽花双鶏図」に加えて「蝶獣花木図屏風」にも会えた。この絵は宇多田ヒカルちゃんの「SAKURAドロップス」のプロモーションビデオ(PV)で使用されていたので、映像ではすでに見ていた。このPVは、白いゾウが鼻をふって(動画処理して)、黒ヒョウやラクダらしき動物やその他もろもろの生きものが横に並んでいる。この、デザイン画のような、油絵のような、中近東のような日本のような、摩訶不思議な世界はいったいなんなのだろうと・・・。
 陳列された実際の屏風図は、あきれるほど大きな作品である。そのデカ物は小さな四角のモザイクで構成され、その数、一隻で約四万五千個。正直、絵としての感動よりも、手法の偏執的しぶとさに恐れ入ってしまった。
 「こりゃぁ、現代によみがえったビデオ作品のほうが、よろしいかもね」と思えてならない。本物をこえる場合も、時々は、ある。

 ある時、TVの美術番組で知った。ニワトリと白いゾウが同じ作者であることを。かなりの驚きだった。しかし、どの作品にも若冲の個性は発揮されている。アタリ作品にもハズレ作品であってもだ。私たちに「まっ、いいか」と思わせるパワー、それが鬼才の真骨頂なのだろう。

 この夏、あの衝撃のニワトリと白いゾウに、国立博物館で会えたのだ。  (塚本和江記)

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2006.9.16.  急転直下でコンバーター
 デジスコの道を選ぼうか、デジカメ一眼ならキャノン30Dにしようか。迷いはしばらくつづいた。ふと、浮き足だってヨドバシカメラへ走り、新発売のニコンD80を手にとってみたり。しかし猫に小判の感あり、いじけた。
 結末は意外にあっさりついた。
 手持ちのコンパクトデジカメ、ニコンクールピックス5700に、別の用事でシャッターレリーズが使えるものか、使えそうにもないなとか思いつつマニュアルを繰っていた時だった。ふと、目に飛び込んだ字が“コンバーターレンズ”。
 こんなものがあったのだ。私が手におえるのは、これだな。
 さっそくヨドバシへ。ああ、せっかく良さげに思えたコンバーターは、製造元でも品切れと知らされた。ネットでていねいに探せばみつかるかもとは、店員の話。ネットでまともに目的を達することのない私は、いきづまった。
 帰宅して、“押しかけ弟子”の私が、“隠れ師匠”の写友にメールでことの顛末をボヤいた。デジカメのスゴ腕で、じっくり構えて鳥心をねらう撮影姿勢に共感させられる関西のMさん、すばらしい画像を時々送ってくれて私を唸らせるMさんからは、かゆいところに手のとどくような情報が、即刻返ってきた。さすがのPCオンチの私でも、そのとおりにやってネットですぐさま希望のコンバーターがみつかり、購入を即決。
 数日後ケンコーのコンバーターとアダプターが届けられた。高級デジカメのレンズとは、見た目に、そして持った手に、カル〜イ感じは否めない。しかし、x1.7倍だ。生涯300mmレンズまでしか持ったことのない私には、野鳥撮影の“武器”になるに違いない。年甲斐もなくウキウキする。レンズの味がどうのとかウルサイことは言うまい。気づかいない機材とのつきあいの方が気楽でよろしい、と自分を納得させたものだ。

 手に入れて1週間ほど、撮るものもなくコンバーターは机の片隅で所在なげだった。
 仕事に追われる9月10日の午後、ひさびさにカラスの声がした。アパートの9階は台所の小窓からキョロキョロ探す。一軒おいたお隣のビルの屋上にいるものと思いきや、そのビルの壁にへばりつくようにとまっているのをみつけた。
 「おっ、絵になる!」
 胸がおどった。こんな感覚は、愛用のアサヒペンタックスSPとタクマー300mmをあきらめて以来、数10年ぶりのことだ。
 いそいでコンバーターをクールピックスにネジ込む。あせるとネジがうまくかみ合わない。おお、昔もチャンスを前に、このネジ式にあせらされた。バヨネット式では味わえない、もどかしくも懐かしいこの感覚。
 まずは、シャッターを押す。この人差し指の感触。忘れかけていた至福のひととき。
 二声目を鳴いたときに、「やったぁ!」のシャッターを切った。切ったところで、ハシブトガラスはファインダーから消えた。
 期待たがわず、私の好きなタイプの画像ができあがった。
 お礼の気持ちをこめて、Mさんに「出来立てのほやほや画像」をメール添付したことは言うまでもない。   (塚本洋三記)

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2006.8.17. カミさんのティータイム:ゆでたまご むきたまご

 八月である。こちら北半球は夏まっさかり。去年より暑さはマシ、というものの思考力ゼロの日がつづく。アルコールがだめな私はビールで暑気払いもできず、ひたすらぐずぐず言いながら時を過ごす。

 以前TV番組で、六本木の男性ダンサーのドキュメントをやっていた。狭い舞台で鍛えぬかれた肉体が踊っている。かぎりなくヌードにちかい。ダンスもボディもかなり、すごい。技術においても、セクシーさにおいても圧巻である。興奮した女性たちは、お気に入りのダンサーに、太ももとパンツの間に紙幣をはさんでいた。洋風おひねりというわけだ。
 かれらのりりしくも美しいボディを形成するのは、なにはなくても“ゆでたまご”という。それも栄養価の高い黄身の部分を捨て去り、高たんぱく低カロリーの白味だけを食するという。その美形な青年は、ワンパックのたまごをまとめてボイルし、黄身を捨て、白身のみを黙々とたべていた。それも塩なしで。他にはグレープフルーツとプロテインのみ。これを、ハードな運動をこなしながら6ヶ月つづける。そして耐えつづけて半年、完成した美しき肉体ができあがる。
 怠惰な食生活のおじさん、おばさん、少しは美意識をとりもどせ!なのだ。もっとも、根性で足なんか長くならないので、それなりの完成予想図を想定して取り組んでほしい。やっぱり、無理なものは無理なのよ。

 最近はAV全盛のおかげで、ポルノ映画館は斜陽の一途をたどっているらしい。しかし昔はどこの町にも、一軒くらいはピンク映画館がたたずんでいた。ひっそりと。そしてたいがい、ソレは名画座のそばにあったものだ。私が足繁くかよった名画座しかり。前を通るたびに、うつむいたまま黒目だけををきょろきょろさせ、すばやく看板をチェクするのであった。
 思えばピンク映画の題名もけっこうワンパターンな感じがする。どれもこれもそれらしい題名である。が、中でも傑作とおもえるタイトルがあった。
 ずばり「むきたまご」。なんじゃい、これは。この看板にめぐり合った時、立ち往生してしまった。なんと独創的、かつ想像力を刺激されるお題であろうか! 看板にエロっぽい絵がかいてあるから、そちら系とわかるものの、まるで料理番組のようだ。“みょーに”想像力がかきたてられるではないか。つるっとした柔肌を思うか、はたまた・・・。
 そういえば、先日読んだ岸本佐和子「気になる部分」というエッセイ集に記憶に残るポルノ映画の題名のことが書いてあった(この本、面白いです)。それには「腰元むきたまご」とあった。とする私の記憶違いか。しかし「むきたまご」はシリーズ化されているかもしれぬ。最初が単に「むきたまご」次が「大奥むきたまご」つぎが「腰元むきたまご」、かも。おおいにあり得る話ではないか。
 というわけで、暑さで脳みそがとろけているので、イメージはピンクのたまごにいってしまった。なんともエロくてかわいいじゃないか。これはもう、弊社で「ピンクむきたまご」の携帯ストラップでもつくるっきゃないか、と思う夏の日であった。 (塚本和江記)

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2006.8.8. デジスコに挑戦

 私ではない。
 私がデジスコに走らない理由は、機材調達に遅れをとったほかにもある。デジスコでとれた写真のおおくのものが、一見して「ウワッ!」とは驚く。だが、明日があるのに今を別れがたい恋人にみつめられているような、心奪われるほどの雰囲気のある画像になかなか出会えないからだ。
 確かに、あのドアップ、いや、ド・ドアップには、参る。くわえて、ピントのよさなんて、気持ち悪くなるほど。なるほど、デジスコは革新的だ。野鳥写真の新ジャンルが拓けたにはちがいない。
 現段階では、撮る側も鑑賞する側にも、デジスコならではの写真が撮れること自体に深く興味がひかれ、それで満足しているのではないだろうか。いつまでも、部分拡大のような単なるドアップの鳥では、飽きがこようというもの。できのよいカービングの鳥を撮ったような画像で気をゆるしていてはいけないのでは。写真図鑑むきのような画像だけでは、もったいない。一枚の作品として見ごたえのある内容を期待したいものである。
 デジスコファンの皆さん、勝手を申してごめんなさい。平にご容赦を。
 一方、よりよい画質で撮れる光学機材の開発が、メーカーさんの努力ですすんでいくにちがいない。デジスコ写真文化が着実に成熟していってほしいものだ。
 自ら試みもしないで、デジスコ写真が気にいらないもヘチマもないものだ、とは感じている。白状すれば、「デジスコで野鳥撮影が楽しめる本」(文一総合出版、2006)を手にいれたり、デジスコ経験もないのにデジスコクラブに入会したりもしている。
 心がゆれてきているのだ。乗りおくれたバスを追っかけようか・・・。

 と思っていたら、カミさんがメモ帖代わりにと、手のひらサイズの薄型デジカメ、カシオエクシリムEX-S600を購入した。レンズ口径は指の先ほど。これなら我が最旧式初代プロミナーの接眼部口径と大差はない。冗談半分、カミさんに、「デジスコしてみたら?」 プロミナーにセイタカシギを入れて促した。千葉県の谷津干潟自然観察センターから見える、通称「お立ち台」の上で3卵を抱卵中のセイタカシギだった。私には、半世紀もお世話になっている愛用の初代プロミナーで、なにが撮れるか試してみたかった、下心あり。
 喫茶店の椅子に腰かけ、ガラス越しにしばしモデルのセイタカシギをウォッチング。カミさんは、時々テーブルのアンミツを口にはこび、プロミナーの接眼部とデジカメのレンズをピタッと押さえたつもりで、液晶ディスプレイで画像のよさそうな位置を手探りしている。中間リンクなんかない。なんどかカメラとスコープの“光軸のズレを調整”し、さてシャッターを押すのかと思いきや、
 「アラッ?」とかつぶやいて撮影マニュアルをパラパラ・・・。
 「ったく、床の間の茶碗を撮ってんじゃないんだ。相手は野の鳥だよ、野鳥!」
 ようやくにして、フヌケるほどに緊張感もなく、パシャ。アンミツを一口、パシャ。
 「あっ、立ちあがった。卵がみえる。ホラッ、今、今!」気が気でない私に、やや遅れての反応、パシャ。なんとも怠慢な撮影ぶりというか、優雅なというべきか。セイタカシギの動きを実況中継しながらのシャッター指南の私、心中「ヘン、野鳥を撮るには、人知れぬ苦心と努力と忍耐が要るんだぞォ。」
 ところが、撮れてしまったのである。私などは、一生に一度でいいから見たいと憧れたほど、セイタカシギはかつて(1950年代以前)それこそ珍鳥だった世代。そのセイタカシギを、鳥もカメラもド素人のカミさんが、一昔前なら考えられなかった方法で、いとも簡単に撮ったのだ。デキ具合のウルサイことを言わなければ、とにかく写っていたのである。
 これは、エライこっちゃ。
 なにがエライかというと、初体験のカミさんでも、まがりなりにもデジスコできたことと、使ったスコープが最旧式初代プロミナーだったから。無欲の勝利とはいえ、カミさんとデジスコに脱帽。これだけ撮れるとは、50余年前からのコーワの高品質スコープに、改めて感服。
 けだし、デジカメの安易なる威力、目の当たりにしたり。これでは、デジカメファンが増えるのもむべなるかなと、心の底から感心したのだった。

 完璧に浮き足立った。気を取り直してちょっとデジカメに挑戦しようか、とマジ思ったことは確かである。 (塚本洋三記)

BPA
2006.7.15.    カミさんのティータイム:「たまご」

ある日、野の果てに忽然と現れた巨大な卵。
人に発見され、人が人を呼び、周りに街が生まれます。
やがて卵からは、巨大な雛がかえるのですが・・・。
この卵はいったいなにを象徴しているのか。
文字のない絵本。
「絵本作家 ガブリエル・バンサン」(BL出版)より抜粋

 気をつけて欲しい。たいていの人たちの「絵本」という概念でページをめくると、それはおおいにはぐらかされる。いや、横っ面をはりたおされる。絵本というよりストーリーのあるデッサン集といったほうが、より近いだろう。言葉は一切ない。木炭で描かれた線は黒々と激しい。大胆で力強い絵、メッセージ色の強いストーリー、ありていに言えば「とても女と思えない・・・」。
 ページを開く。度肝ぬかれた。すでにこの作家のものをいくつも目にしているのに。いや、いままでの作品を知っているからこそ、よけいに息をのむ。絵本コーナーにあるのに、「たまご」は甘くない。毒だらけである。人間の愚かさを揶揄しているのか、人類が何者かにのっとられるか。本の中のたまごは、まるでエイリアンのたまごのようだ。あるいはこのたまご、核弾頭にもみえる。おそろしい話である。
 この言葉なきストーリーどう読むか? 結論は読者ひとり一人にゆだねられている。であるからして、自分の知能レベルを試されているようで、ますますおっかない。そういう訳で、あまり多くを語りたくない・・・。
 絵本作家としての彼女の作品は、せつなく優しく、静謐である。私はその絵本の世界を愛している。クマのおじさんとネズミの女の子の、胸がキュンキュンなりそうなシリーズなんか、こっぱずかしくて言いたくないほど好きである。「あのネズミの女の子のように、完全無欠に、まるごと愛につつまれたなら、ああステキ」などと、いい年してかなり不気味な空想をし、夢見るオバサンのひと時に酔う。

 二面性をもつ彼女は、絵本作家としてはガブリエルの名前をつかい、「たまご」や「アンジュール」等のアート系の作品は本名で発表している。(日本はすべてガブリエル・バンサンの名前で出版している)彼女のシリアスな世界と、優しく繊細な世界、どちらも魅力的である。
 写真のバンサンは笑えんでいる。相反する二つの世界を描くバンサン。彼女は心のどこかで折り合いをつけながら生きていたのだろう。写真の表情を見る限り、それは結構うまいこといったのではと、私には思えるのだ。                                 (塚本和江記)

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2006.7.7.   最旧式プロミナーでデジスコ?
 1957年。バードウォッチングの神器として登場したコーワのPROMINARに、私が最初に出会った年だ。「うお、これは・・・」20倍なのに、野鳥識別に威力を発揮し、その性能にタマゲタものだ。なにぶん高価なもので、数少ない持てる仲間のこのレアモノを覗かせてもらったものだ。
 1978年。アメリカから帰国しての探鳥会。堤防にズラーッと砲列の“プロミナー群”。この様変わり。カルチャーショックだった。
 “望遠鏡”と呼ばれる代わりに、一時は“プロミナー”と通称されていたが、追っかけ、他社の製品が出揃ってきた。どこ製であろうと、「あっ、あの鳥、プロミナーにいれてみて!」と叫んでしまうのは、台頭プロミナー世代の私。
 望遠鏡(フィールドスコープ;スポッティングスコープ)があれば、確かに心強いバードウォッチングの友ではある。それが、時経ずして、バードウォッチングの必携品のようになってしまった。ああ、「バードウォッチャー1人にスコープ1台」時代の到来である。

 1990年代中ごろ、写真撮影にも異変が起きた。伝統的なカメラに代わるデジタルカメラの登場である。コンパクトデジカメは、カメラのメカ音痴にでも簡便この上なく扱える。とにかく撮れる。というか、撮れてしまう。すべてオート設定のデジカメ任せ、ONにして被写体を定め、シャッターを押すだけである。手振れ、ピンボケ、露出不足、二重撮り、フィルム交換・・・そんな単語知ってるだけで笑われてしまうぜぃ、いずれも死語同然だ。しかもデジカメなら、瞬時に結果が確認できる有難さ。便利さには勝てない。あっさり、銀塩フィルムのカメラを凌駕した。

 21世紀へと移るころ、そのコンパクトデジカメをフィールドスコープと合体させた超望遠効果の野鳥撮影方法が試行錯誤され始めた。誰が予想しえただろう、あっという間にデジスコ時代の夜明けを迎えたことを。

 本当にビックリさせられる。なんとも容易に誰でもが野鳥の撮影を楽しめるのだ。野鳥写真の新たな時代がやってきた♪
 フィルムカメラ世代の私には、わかっちゃいるが未だにどこか納得しにくい、デジスコ文化。第一、やすやすと野鳥を撮られては、私しゃ、やってられないのだ。簡単に楽しく撮れてどこが悪い。心の整理がつかないそばから、デジスコ画像をみせつけられる。やり場のないクヤシサ。
 私は、メカ的にも気分的にも完全に乗り遅れた。

 いや、デジスコのデジ部分は、なんとか1台、ニコンのクールピクス5700を予期せず手に入れた。記録写真に便利に使っている。それが9700だったならデジスコ向きなのに、と知らされたときは、かなり後の祭り・・・。
 スコ部分は、これがやや問題か。私のスコープは、アノ歴史的なプロミナーなのだ。冷やかし気分で覗いた人が、噂の初代プロミナーとはこれかと驚くほど、いまだに結構よく見える。いかに現役とはいえだ、光学機器の躍進目覚しいこの半世紀を生き抜いてきた初代プロミナーで、デ・ジ・ス・コ?
 そうなんです、最新式のデジ+最旧式のスコでデジスコる試みが、私の手持ち機材での限界なのだ。これでは、シロウト目にもレンズ口径が違いすぎる。一時は完全にあきらめた。
 中間リングの存在とそれに合致するスコープを、コーワのMさんに懇切丁寧に教えてもらった。お蔭で、私の5700でもデジスコできることがわかった。よよ、乗り遅れをとりもどす第1歩か?・・・。問題は、思い出深い愛用の最旧式を最新式に替える勇気もなければ、懐の余裕もないのだ。

 かくして、デジスコには縁がありそうでないあたりに、私は存在している。                              (塚本洋三記)

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2006.6.25.  カミさんのティータイム:鳥越まつり

 「火事とけんかは江戸の華」というけれど、もうひとつ忘れちゃならねぇものがある。まつり、そう、江戸の祭り。
 ここ墨田川沿いの拙宅は、右に「浅草三社まつり」を、左に神田明神の「神田まつり」を望むお祭り激戦区である。5月の神田まつりを皮切りに、三社様、6月上旬には地元「鳥越まつり」と続く。

 こんなに狭いところに有名どころの祭りがひしめけば、血の気の多い江戸っ子、いやがおうにも競争心は燃える。となりの浅草三社まつりに負けちゃならねえ。と言う訳で、ここ鳥越神社は巨大なみこしをつくった。あっちのみこしが三基なら、こっちは一つでどでかいのを。千貫御輿(せんがんみこし)である。一貫は3.75kg、つまり3750kg。これが御輿として重いのか軽いのか、はたまた、ウソかホントか想像の域を脱しないが、実際目にすると、ともかくでかい。
 屋根は黒々とぶあつく、ゆったりとひろがる。社の部分もたっぷりと太い。大抵のみこしは中央で細くしまる感じなのだが、ドーンとそのまま担ぎ棒へとなだれこむ。勿論、鳥居も大きい。屋根の中央の鳳凰もひたすら大きい。鳳凰の足元から四方に流れる純白のしめ縄。そのスケールと重量感は圧巻である。
 日もとっぷりと暮れれば、宮入の刻、祭りの見せ場となる。みこしぐるりの提灯に火がはいり、金色の光をまとう。祭り囃子の太鼓、横笛などをのせた山車(だし)が先頭を切り、高張提灯に木遣りを唄う頭(かしら)がつづく。そして、綺麗どころが横一文字に彩りをそえ、つづいて天狗が闊歩する。しばらくして夕闇のなかから、荘厳なほどに美しいみこしがやってくる。
 最終の担ぎ手は祭りのエキスパートたちである。きのう今日かつぎはじめたのと、年季の入った年寄衆とでは、みこしの動きが違う。みこしが暴れない。金のかざりがしゃんしゃんと一定のリズムを刻む。
 最後に馬に乗った宮司が締める。
 この世あらざるところよりやってきたような行列。なんと神々しい。

 若かりし頃、三社のみこしを担いだことがある。みこしの魅力が少しばかり分かったような気がした。コレはワイワイと人と群れる喜びではない、と直感した。「せや、せやっ」と掛け声をかけながら、自分の中に入っていく。どんどんはいっていく。魂の内へ、内へ。そして恍惚。
 エネルギーは担ぎ手の個々に存在している。各人がエクスタシーを感じ、あるいは神との会話を試みているのだ。それは集団としてのつながりではない。あくまでも個の集りなのだ。
 盆踊りでも、バリ島のケチャでも、南無阿弥陀仏でも、求めるものはひとつ。すべてから開放され、真の喜びの世界に到達したいのだ。みこしかつぎも、簡単にいえば“いっちゃう”のだ。

 祭りといえば、縁日ははずせない。毎年似たような出店ばかりなのだが、なんだかやっぱり、行かねばならぬのだ。子供の頃から、近所の寂しい縁日ですら行きたかった。雨の中、たった一人で金魚すくいをするようなガキだった。まずは神社うらの飴細工屋をひやかし、やっぱり精密さに感心する。とうもろこしを買い食いし、金魚すくいの店をのぞく。うなぎ釣りもあるし、ミドリガメすくいもある。
 なかに、現金をしょって泳いでいるミドリガメがいた。つまり千円札を四角く折り、カメの背中に輪ゴムでくくってあるのだ。2,3匹いた。聞くと、そのカメをすくえば千円はいただきなのだ。燃えた。回りの客もそのカメを狙っている。緊張感がただよう。結局みんなしくじった。以来、縁日に出向くたび、あの泳ぐゼニガメの店をさがしてリベンジのチャンスを狙っている。

 備考:鳥越と浅草のみこし争いは、ご近所の伝承である。神社さんにウラをとってはいないので、そのへん、一つよろしく。
 文句:鳥越の夜祭は、すばらしい! しかし、あの警備はなんだ! 拡声器とサーチライトをつかって興ざめだっ。警察と機動隊に、住民は本気で怒っている。
 おまけ:「鳥越」の由来は、八幡太郎義家公が奥州征伐の折、白い鳥に大川の浅瀬を教えられ、軍勢をやすやすと渡すことができた。義家公これ白鳥大明神の御加護と称え、この地名が起きたとのこと。                                          (塚本和江記)

 すべからく玉子料理は好き。甘いのも辛いのも、洋の東西を問わずなんでもウェルカムである。思う存分いただきたいのだが、コルステロール値が高いのでそれなりに気にしながら食べている。
 朝ご飯の王道、貧しい者たちの救世主、玉子かけご飯について少々語りたい。
 この単純明快な料理にも、プロセスにおいて二通りある。炊きたてのご飯にじかに玉子を落としいれ、醤油をたらし、がーっとかき混ぜかっこむ派と、一度小鉢に玉子を割りいれ、そこに醤油をたらし箸で攪拌し、ご飯にかける上品小鉢派とがある。私は前者を支持している。食器が一つ少なくてすむのが大きな理由であるが、それより白いご飯にのせられた玉子は美しい。つやつやした黄身にすいよせられ、愛を交わすかのようにじっとみつめあってしまう。

 この玉子かけご飯、ちかごろ巷で静かなブームになっていることをご存知だろうか。なんたって玉子かけご飯用の醤油が発売されているぐらいだ。その味をためすべく、私はデパ地下へと走った。
 なにかの雑誌でちらりと目にしたこの醤油。実際に売っているのをみると結構おどろくものがある。刺身用の醤油が発売された時は、すんなり受け入れたのだが、玉子かけご飯の醤油はなんだか笑ってしまった。刺身は特別扱いを許すが、玉子は並みでよろしいという、庶民の悲しい思考パターンなのだろう。
 さっそくご飯を炊く。茶碗に盛り玉子を割りいれる。ノンブランドだが赤玉だ。そして今買ってきた玉子かけご飯用醤油をたらし、食べた。
 違う、違う、好みと違った。だしが効きすぎている。それに少し甘いのだ。何故、玉子かけご飯に甘みをださねばならんのよ。われわれ関東人には甘い醤油は醤油にあらず、だしは賛成だが甘いのは納得できない。親子丼の玉子とじではないのだから、切れのイイ方がよかろうと思うのだ。(製造元のみなさん、すみません、嗜好は人それぞれなので。)
 もしこの醤油のうま味を活用するなら、コレを3、生醤油を7ぐらいの割合で使うとよろしいかと。甘めがお好きな方はそのままでお試しあれ。(取り急ぎフォローしたりして。)

 外人さんは玉子かけご飯は食べられるのだろうか。聞く話によると、生玉子はいかんらしい。すき焼きはGOODだが、生卵をからめて食べるのはNO GOOD なのだそうだ。もっとも時代は進んでいる。ニューヨークの片隅で、マッチョめざして生玉子をパックほどペロリと飲んでいる奴が、ざらざらいそうな気もするが。
 おりしもアメリカ、ヨーッロパなどで和食ブームは続いている。納豆、こんにゃく、玉子かけご飯、いずれ遠からず世界制覇も可能と信じている。               (塚本和江記)

2006.5.24.  カミさんのティータイム:玉子かけご飯

2006.6.17   「歩く男」

 誰しも心に残る写真がある。あれもそうだったのか・・・。私の記憶にある何枚かのモノクロ作品が、アンリ カルティエ=ブレッソン(1908-2004)のものと分ったのは最近のこと。
 テレビでみたカルティエ=ブレッソンは、パリの街を飄々と歩きながら、街角の日常を素早く35mmカメラに写し撮っていく。その姿に、あれで傑作がうまれるものかと私は怪しんだ。ところが、カルティエ=ブレッソンは、光と影の中のなにげない人物を、抜群の構図と物語を内に秘めた作品にするのである。
 デジタルカメラの連写でとにかく撮っておいて、後でどれか良さそうな1枚を選ぶカメラマン不在の「写選」と、撮影者の思考哲学を被写体に託し瞬時のシャッターチャンスで真を写しだす「写真」と。カルティエ=ブレッソンは後者に属する。撮影対象を読み取る感性、ファインダーの隅々まで及ぶに違いない集中力、そして“決定的瞬間”を捉える指先の反応に、人間カルティエ=ブレッソンのすべてが傾注され、芸術写真に昇華されるのだ。
 かくして時代を超えて人々の記憶に残る名作を遺したカルティエ=ブレッソン。

 なんと、そのカルティエ=ブレッソンが、かのジャコメッティを撮っていたのだ。

 アルベルト ジャコメッティ(1901-1966)、偉大なる芸術家。生涯のテーマは、「見えるものを見えるままに表わす」こと。無学にもそんなことを、先日ジャコメッティの企画展を観にいって私は初めて知ったのであるが。
 ジャコメッティの作品は、対象となる人物を削ぎに削いで己のテーマに近づこうと表現される。そこまでするかねと思うほど「見えるまま」への追求が凄まじい。マッチ棒くらいのちっぽけそうに見える男の鋳造であれ、恐ろしいほどのエネルギーとある種人臭い温かみを秘めて私に訴えかけるのだ。
 魅せられ、その作品を前にして、ついヤボが口をついた。
 「『見えるもの』の一体どこを見て創作すると、こんな作品になるもんなんかねぇ?」
 「モノの本質じゃないの。」
 青春のころからジャコメッティに入れこんでいるカミさんが一言で返し、私は静かになった。

 カルティエ=ブレッソンが撮ったジャコメッティの写真の中でも、私を魅了した一枚とは――
 展示の準備中なのか、床に置かれた作品に囲まれるように、ジャコメッティが自身の鋳造を持って歩いている姿が中央にある。そのジャコメッティにモノ言いたげな、そして歩調を合わせるかのように、左傍らにブロンズ像。
 被写体が被写体なら、写真も写真。ジャコメッティだけが微妙にブレている。右足の靴先を床からちょっとだけ浮かして。黒の色調でひきしまる主題。息をのむスキのない構図。にくったらしいばかりのカルティエ=ブレッソン作品である。
 この写真には度肝を抜かれたものだ。

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カルティエ=ブレッソン vs. 「歩く男」
 写真は1961年の作である。果たしてカルティエ=ブレッソンは、ジャコメッティの素描画「歩く男」を意識していたものかどうか?
 素描画は、ジャコメッティのジャコメッティたる“歩く”ブロンズ像のいくつもの作品の原点かとみなされている。その素描画こそ、企画展で私を釘づけにしたものなのだ。ナナフシ(やせっぽちな、脚も体も針金のような昆虫)を立てに置いたような、よく見れば右に人が歩いているような、リトクレヨンで描かれた「歩く男」。それは、制作年不詳とある。
 考えるに、カルティエ=ブレッソンは、ジャコメッティ本人とそのジャコメッティが創ったブロンズ像を同じ重みの被写体として捉え、存在の本質をそれぞれの被写体で追求し、かつ関連づけてみる。そして「“見えないもの”を見えるままに」レンズを通して印画紙に創出してみよう。そんなカルティエ=ブレッソンなりの深遠な意図があったのではないだろうか。
 存在そのものを「見えないもの」と捉えるか、「見えるもの」ととるか。本質への根源的な視点は、カルティエ=ブレッソンとジャコメッティでは異なるように私には思える。真摯な探究は二人の共通点だ。では、「見えないもの」あるいは「見えるもの」を「見えるままに表わす」とは? この不到達の命題に、カルティエ=ブレッソンは、同じ芸術でも彫刻に代わる写真を手段として勝負する無言の挑戦状をジャコメッティに突きつけたのではないのか。
 さらに推測を遊ばせれば、その写真作品をジャコメッティに示し、「どうだっ」と言いたかったかどうかは別にして、ジャコメッティの生涯のテーマ「見えるものを見えるままに表わす」の達成度をジャコメッティ自身が確認できるよう、その手段を写真が担えることを示唆する含みがカルティエ=ブレッソンにあったのではあるまいか。
 「歩く男」絡みの、巨匠と巨匠の洞察が激しく交錯する作品中の作品。一枚のデッサンと、それを意識して構図したに違いない一枚のモノクロ写真に思いを致して、私は言い知れぬ緊張感にしびれたのだった。

 なにごとによらず、ホンモノに接するは至福だ。私は心地よい興奮を覚え、神奈川県立近代美術館を出た。中空に、東京都内ではすっかり見られなくなったトビが1羽、ゆっくりと輪を描く。その軌跡を凝視して、なにか哲学しなければいけないような気分だった。
 帰り着いたわが家に、カミさんが大切にしているジャコメッティのデッサンが待っていた。私とて長年眺めてはいたものだ。その日、ジャコメッティに傾倒した私、「いくらサインが無いからといって、もちょっと上等の額にいれたらどうかなぁ。」 それにはカミさんも、二つ返事。(塚本洋三記)

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2006.5.20.  ちょっとピンボケな話

 モノクロ写真が全盛であったころのカメラ機材では、ピンボケ写真がよく撮れた。親父自慢のローライフレックス4x4を持ち出してみても、たしかにファインダーはうす暗い。ピントをあわせること自体が大変であった。付属のルーペで、まあ、ここいらでピンがきてるかな、などと思い、ままよとシャッターを押す。押せばオートでピントがあってしまう今のデジタルカメラとは、ワケが違う。ウデと経験を磨くほかなかった。
 ピントの良し悪しは、レンズの質にもよったのだろう。ダルメヤーダロン9インチの望遠レンズなどは、借りて撮ってはみたが、ピントがあっているハズなのに、それとなくボーッとしていた。「腐ってもテッサー」といわれた名レンズ、テレテッサーは、品のよいやわらかなピントで目を和ませてくれた。それぞれに「レンズの味」なのだ。
 そういえば最近の高性能レンズは、メーカーによる「レンズの個性」が薄らいではいまいか。時代とはいえ、「隠し味」のないレンズは、どこか味気ない。

撮影(というのもおこがましいが)◆塚本洋三
1953年5月31日
私の鳥ネガ第1号:コサメビタキの巣
静岡県須走
富士山麓須走探鳥会の常宿、米山館の庭で、
コサメビタキの巣を教わる。
野鳥をファインダーで覗く初体験。胸が高鳴った。
頭のなかには、親鳥が抱卵する傑作写真ができていた。
1週間ほどして現像があがってみたら、
親鳥? どこに?(矢印の先らしい)。
実にこんなハズではなかったのだ。
引伸ばせばなんとかなるものかと、
赤でトリミング指定の跡もいじらしいブローニー版のベタ焼き。
それが半世紀を経て見つかった。
ネガケースに「シャッター50分の1、絞りF5.6、距離8フィート、薄曇」の鉛筆書き。
カメラは、確かスプリングカメラと記憶している。
標準カメラで野鳥を撮ろうと、
無謀な努力を繰り返していた、あのころ。
中学生の夢が、よぎる。

 標準カメラで撮れるネガ上の鳥は、どれもが小さい。小さ過ぎる。それならばと伸ばして大きくすると、ボケてくる。種類が判りようもないほど、文字通りボケボケの鳥影でしかない。そんな写真が増えた。それでも私には、野鳥を撮ったのだ!との新鮮な思い。これは歴史だ。
 どこまでボケた写真を人に見せるかは、ご本人のセンスとお人柄によった。
 ついぞ双眼鏡を持ってこないが、熱心に探鳥会に参加されるMさん。ある日、いわゆる高級カメラを手にして現れた。鳥を見る人はどっちかというと双眼鏡が先なのではと、仲間は言葉を失い、ただ一言「スゴイですね〜。」「いやぁ、なんでもよく撮れますだぁ。」「それはスゴイですね〜。」右手の先を右頬にあてる独特のMさんポーズに、次の言葉を察知する。はたして、「なんでも写っていくらでも伸びますだが、はぁ、どれもボケてしまいますでなぁ。」
 野鳥の生態写真でも有名な鳥学者のKさん。職業柄かたっぱしからシャッターを切る。じっくりねばって野鳥を撮るよりは、パパーッとシャッターを切ってもう次の被写体を追っている。早撮りの技にたけていたのだ。ボケでも伸ばし過ぎでも、さっさと発表する神経はナミではない。それほど撮りまくっているのに、「野鳥生態写真集」というものをついぞ出版されなかった。作品としてのご自身の写真に対する評価は、キチンとされていたに違いない。お見事である。
 誰もがうらやむシャープなピントでアップの鳥を撮り始めたTさん。私より後からシャッターを押し始めたのに、野鳥生態写真でも第一人者と目されるようになった。ピントへのこだわりには、呆れたことがあった。四つ切(約25x30cm)に伸ばしたシロチドリの写真を、ルーペで覗いていたのだ。あげくに「う〜ん、ちょっとピンが甘いかなぁ。」

 Tさんまでとは言わないまでも、できるだけピントがあって、少しでも大きく撮る、というのが私にはとても難儀(技)だった。ところが、ある日、鬼の首をとったのだ。ピントのよい写真、必ずしも傑作ならず、と。Tさんのことを言っているわけではない。ピンの甘い写真が即凡作とは限らない、と気づいたのである。ピントを超越した「写真の味」が醸し出されている写真こそ、写真らしい写真ではないか。
 ピンボケを活かした作品の魅力。これは挑戦である。あれほど悩まされるピントだが、ピンボケを恐れず、写真はセンスで撮ろう。それなら私にもチャンスはある。デジカメさん、よく聞けよ。なんでもピン良く撮れてしまうデジカメには真似ができまい。ピンボケ写真にはピンボケの愉しみが溢れているのですぞ。                                (塚本洋三記)                                                                                               

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 Tさんが遠路訪ねてきてくれた。挨拶もそこそこにビールがつがれるや、二人の出会いの話を持ち出してきた。私は忘れていた。もう40余年前のこと。野鳥業界で互いを知っていながら、ゆっくり飲んで語るのは、実は初めてである。

 自分はビジュアル人間だから、という。心で見たことは覚えている。聞いたこと、言われたことは、右から左だそうだ。それが奥さんのひんしゅくを買う所以とか。結婚記念日だけはご自身の誕生日と同じなので、忘れようがない。コト無きを得ている。
 確かに視感覚はナミでないことが伺えた。私との出会いも心に印画されているから、いつでも呼び起こすことができる、と。なるほど。
 拙宅を訪れた鳥仲間がついぞ一人として反応を示したことのなかった抽象画に目をとめたTさん。「飽きないですね、見ててこれは。誰のものだかわからないけど。いいものはいいですね。隣のデッサンもいいなぁ。」ランスコーとジャコメッティの画が、Tさんの心眼にふれた。さすがビジュアル系だ。
 会話がはずむにつれ、気がついた。私なら2、3分説明してもよく通じないような話を、Tさんは的確なボキャで決める。話上手だ。
 素直な眼をもって心で捉え、それを生き生きと表現する。気持ちが若い。恐れ入った。お主、なかなかやるなぁ。

 噂にとどろく呑み手のTさん。ご本人に言わせると、酒を飲む間も頭の中は考えている、書くべき本の構想も練っている、と。毎晩飲んで考えたなら、定年退職後の今日までに本の1-2冊は書けているハズだ。奥さんの採点は、こと呑み助Tさんに関しては、すこぶる辛い。
 大目にみてやるか・・・。その昔、鳥好きW大卒のTさんが、絶滅しそうなトキを守るという重責を担い、離れ島に東京から赴任した。地元の人々と日々苦労する半生に、心の内を酒に託さずして精神の安定が得られようか。
 かといって飲みすぎは絶対よくないよな! Tさん、などと、説教をたれる。気づいてみれば、どうも私の方がグラスを重ねていた。ありゃ、Tさん、ずいぶんと遠慮してるね。
 調子に乗って、私のお宝をご披露した。日本の野鳥生態写真の草分け、下村兼史のオリジナルプリントの何枚かである。「裏にあるメモ書きがまたスゴイですね。」嬉しいことを言ってくれるじゃないか。これがTさんなのだ。

 最後は私お薦めのジン、BEEFEATERの登場である。松ヤニみたいな匂いをうけつけない人もいるからムリしないでと、言ってるそばから一口。
 そのとき、その瞬間である。Tさんの酒心が振動した。テーブルをはさんで完璧にそれを感じた。瞬時にTさんの表情が違った。「うわあぁ〜、なんだ、これ?! 針葉樹の香りだっ! タイガの針葉樹に触れた霧の雫をあつめてつくったようだよ、コレ!!」Tさんには、ジンの向こうが見えたに違いない。私もカミさんも、そんなTさんに感動した。
 時としておっかなく、実はTさんを思い遣る奥さんに、そのときのTさんの相好を見てもらいたかった。深酒Tさんがニックイに違いない奥さんの思いが、マジ変ったかもしれないほど。
 ほんと、酒は楽しく飲むものだ。それには、飲みたいときに、飲みたい酒を、気のあう人と、飲みたいだけ飲むに限る。しかもできるだけ上物を嗜む。楽しい酒は量ではない、質で飲む。そんな稀有なひとときを、その日、Tさんは私にひっさげてきてくれた。
 次回は奥さんとご一緒に。飲めない同志は甘いもので、飲める同志は、酒だ、楽しい酒!                            (塚本洋三記)                                           

                                                                                        ▲2006目次
2006.4.18.  カミさんのティータイム:ひよ子

 生きものの形をした菓子を食べる時、たいていの人は一瞬躊躇し、軽く悩む。「さて頭からパクリといくか、尻からにするか」。私の場合は頭からいく。形あるものは頭からいかねばならない、それが正しい食べ方と信ずる。
 ごく稀にタイ焼きを真ん中から二つにわり、その身を小さくして食べることもあるが。人目があって少し上品ぶりたい時。まったく愚行であると承知している。時として、オバサンも女性になるのだよ。

 先日“ひよ子”を食べた。そのとき、久ぶりにそのお姿をじっとみつめた。記憶にある“ひよ子”よりずっと「カワイイ」(癪だが、便利な言葉だ)。丸くて、ほっこりしている。愛らしい。見る角度をかえると、寸づまりのオットセイに見えなくもないが、顔に鼻のような嘴がついているので、やっぱり哺乳類ではない。カワイイねー、といいながら、二口でいただいた。
 この“ひよ子”に似た菓子で、“ぽんぽこ”なるものがあった。そう、タヌキの形をしたまんじゅうである。最近はとんとみかけないが、今でもあるのだろうか。これはあんまりカワイクなかった。なめた目つきをしていたような。味もパサついていたような。
 中学生のころ、“ひよこ”が食べたくていつも通るターミナルのショピングセンターを探した。結局見つからず“ぽんぽこ”を買って帰った。そして薄紙を剥き、じっと見た。その時の言いようのない悲しみを、私は今も覚えている。
 昔から東京みやげは“ひよ子”と決まっていたが(どうも昔のTVコマーシャルが刷り込まれているらしい)“東京ばな奈”の出現により、うかうかしてはいられなくなった。ただリサーチすると、“東京ばな奈”は若い人、“ひよ子”は中高年に人気があるらしい。無論私は後者である。

 この手の、生きもの具象菓子を口にするとき、人は欲望と謝罪の気持の中でその腹におさめる。「ゴメン、だけど、美味い」などとつぶやきながら。そしてどこかでうごめくサディスティックな感情を認め、いたいけな小動物を食ってやるのだ。それは弱肉強食という生物に普遍の論理を、我々に想起させているのではないだろうか。
 んなっ、馬鹿な!           (塚本和江記)  
                          

2006.4.1.                   タイガの雫 (しずく)
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2006.3.24.  カミさんのティータイム:「鷺娘」礼賛
 坂東玉三郎の「鷺娘」を観てきた。
 真白き鷺の化身が、傘の中に佇む。恋に身をやつした鷺娘は、次に町むすめに変化し、最後にまた鷺の化身となって、雪のふりしきる中、悶絶し地獄の苦しみのうちに、息たえる。
 江戸時代には、恋に執着すると死後地獄の責め苦にあうという思想があったという。今に生きる私には、恋をしたくらいで、なぜそんな目にあわされるのかさっぱり理解できないが、ともかく羽をふるわせながら、鷺娘は逝ってしまうのだ。
 この舞踊作品は、いわば日本の美意識のかたまりのようなものである。人界を越えた美しき者が薄夕闇のなか、果てる。やはり日本人の美学は、死によって完結されるのか。
 隅からすみまで日本的、ぬかりはない。わかっているが、すっかり情緒にやられてしまう。嗚呼、せつない!

 玉三郎は、壮大な美のオーラを持つ芸術家と拝察している。玉三郎の美しさは、あきらかに他と種類が違っている。すばらしい芸をもった歌舞伎役者や、卓越した技術をもつ舞踏家はたくさんいらっしゃる。しかし彼の場合、美しさの位置が尋常ではないのだ。あの世とこの世の間に存在しているのだ。その危うい位置は、技術とは別次元の、つまり訓練ではどうにもならぬ類である。まさに美の天才なのだ。嗚呼、なんと崇高な!
 勿論、肉体への鍛錬は凄まじいに違いない。それをやりとげられることも、天才の条件なのだ。日ごろの研鑽と、天から授かったものがぶつかったとき、奇跡的な美しさがうまれる。
 舞踏家として天才というより、美のオーラの天才と言った方が的確な気がする。踊りは一つの表現手段なのだ。
 昇華され、生々しさがそぎ落とされた、美。ゆえに、鳥の精、花の精、幽霊系、泉鏡花系など、まさにはまり役である。あたり前だ。もともとこの世にあらざる美なのだから。
 その上、あの芸術品は動く。動きながら、一部の隙もなく美の空間を創る。恐ろしいことに、生身の人間が演じているのだ。舞台を降りれば、ご飯を食べたり、トイレにいったり、時々は「バカッ」とどなったりもするはずである。なんというか、こう、基本的には私と同じ人間なのである。嗚呼、なんという差別!

 なぜサギなのだろう。日本で美しい鳥といえば、まずタンチョウであろうに。しかしサギなのだ。江戸時代は両者とも身近に見られたという。どちらをえらんでもよい訳なのだが、ツル娘とはならなかった。
 比べるとツルはしっかりした体つきで、力強い。昔、タンチョウの禽舎にいれてもらったことがある。結構こわかった。力強くエサをついばんでいた。そのうち啼いた。そばで聞くとツルの一声はソートーうるさい。
 繊細ではかないのはサギなのだ。たよやかで色っぽい。全体の美しさではやはりこちらであろう。ただ、サギは目つきがよろしくない。ゴイサギにいたっては、かなり険悪な感じがする(が、私はゴイサギのファンである)。大、中、小のいずれのサギも少々根性悪の顔をしているが、まっ、お顔のことは追求しまい。それをいわれては、みんなちょと困る。
 ツルは千年生きてもらって、またツルの恩返しとして、めでたさとありがたさの象徴となってもらおう。そう、美のジャンルはサギにまかせるのがよろしかろう。

 鷺娘といっても、美しくないサギでは困る。美しいから切ないのだ。子供のころから日本舞踊をならっていたので、そこそこ舞踊は観ている。この繊細な作品も、どうしようもない踊り手が演じると、とんでもないことになる。サギにあらず、白色レグホンが今まさに絞められ、断末魔の苦しみでのたうっているかのごとき有様となる。「ったく騒々しいヤツだなぁ」と腹の中でつぶやく。

 玉三郎はニューヨーク、ロンドンでも大絶賛と聞く。さて、アングロサクソンにこの美しさが理解できるのかと毒づいてみたりもするが、実はかなり嬉しい。
 日本の、玉三郎の幻想美よ、礼賛!                     (塚本和江記)

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2006.3.17.  厠(かわや)でソデグロヅル――中国体験旧聞

 私はソデグロヅルについている。
 1959年鹿児島県荒崎で、野生のソデグロヅルを日本で初めて見たバードウォッチャーの一人だった(The Photo 今月の一枚:「世紀の珍鳥ソデグロヅル」参照)。中国では、ソデグロヅルの主要な越冬地、江西省の"は陽湖"(はようこ)を、外国人として初めて訪れた一人だった。

 1984年12月、日中渡り鳥等保護協定に基づく政府間会議で北京へ。席上、耳を疑う話が飛び出した。白鶴(バイフゥ)が800羽ほどいる、という。白鶴とは、地上での成長が真っ白にみえることに因るソデグロヅルの中国名。絶滅が心配されるほどの珍ツルが、1,000に近い数で越冬しているなんて・・・?息を飲んだ。ビデオに映し出された列をなす白鶴。どうしてこんなに、どこにいるのだ?!

 会議のエクスカーションで、12月15日、南昌からマイクロバスと汽船を乗り継いで着いた陸の孤島、呉城の寒村。設立されて間もない"は陽湖"(ポーヤンフゥ)候鳥保護区の拠点だ。
 まだ受け入れの整っていない施設。宿舎の一人部屋は隙間風がこたえる。ダウンジャケットのまま凹んだベッドへもぐり込んだものだ。山海の珍味は忘れがたい。滞在中のいちいちに、好奇心と充足感がくすぐられた。
 トイレは、というより厠のイメージがぴったりだったが、それは別棟にあった。一歩、「え、ここで?」と一瞬たじろぐ。板敷き土間と直角に四、五列の腰くらいまでの黒板の間仕切り。どこを選ぼうと丸見えのおおらかさ。四本柱に屋根。座った背後に目隠しはある。左右前方が思い切り開放された絶景状態なのだ。やや深みに落としたモノは、流したバケツの水でどこかに集められる仕組みのよう。頭を衿に沈めるようにして用を足す。
 その時。ツルの声では?!・・・ そのまま飛び出してはマズイ。と、目線の先を飛びゆくのは、25羽ほどのツートーンの一群、ソデグロだっ!
 僻地ならではの厠で目を疑う壮観を独り占めにした。次からは、厠に双眼鏡は当然のことでした。

 翌12月16日、話にならないほどだだっ広い保護区(224,000ha)を案内される。小雨の朱市湖を徒歩で過ぎた。はるか行く手の小丘に登って眼前に開けたのが、一望の大湖池。促されて気がつけば、広大な湖畔に点々と散った白点は、全てがソデグロヅルとは! 薄茶の若鳥31羽を含めた570羽ほどが、まるで「桃源郷に遊ぶ白鶴の図」のようであった。北京のビデオはコレだったのだ。
 大湖池は主要な採餌場で、塒は中湖池らしい。朝夕行き来するルート上に宿舎があると聞いて、厠の一件も納得。

 ソデグロヅルは、"は陽湖"で1980年に91羽が発見され、1988〜1997年は2,500羽前後が記録された。実に、世界中の95%が越冬する重要な自然保護区。現在、恐らく3,000羽ほどが地球上の全てである。中国での世紀の巨大ダム事業、三峡ダムの建設で冬期の"は陽湖"の水位が影響されると、ソデグロヅルの採餌場はどうなってしまうものか。
 ガン、ツル、ハクチョウ類、さらにノガン、ヘラサギ、ナベコウなど大型水禽の宝庫、"は陽湖"は、近年日本からのバードウォッチングツアーの人気スポット。宿泊施設も整備された。
 当時の厠はそのまま残されてはいないのだろうなぁ。             (塚本洋三記)

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2006.2.27.    カミさんのティータイム:Ernie
 多分このサイトを覗いて下さる方は、鳥を愛している方がほとんどだろう。が、しかし、今回は猫へのオマージュを語りたい。挑戦的だ、オキテ破りだなんて思うことなかれ。そして、猫は鳥を襲う、敵だ、なんて了見の狭いことおっしゃるな。両方愛せばよろしい。汝の敵も愛せよ・・・なのだ。
 猫を偏愛する私は、本屋の写真コーナーに行ってもまずはネコ写真なのだ。スミマセン、鳥の写真より優先順位が高いのである。
 日本の猫写真は赤ちゃん系が圧倒的に多い。イノセントな子猫ちゃんなのだ。犬もネコもつぶらな瞳をこちらにむけるか、バスケットで眠っているか、毛糸玉でじゃれて遊ぶかがお決まりのタイプである。「カワイイー」に代表されるようなネコ写真は、はっきり言って、程度が低い。日本はなにかと未成熟な文化がはびこる。最近は岩合光昭のネコ写真集がバリバリ売れているので、少しは安堵しているが。
 ネコは個性的でなければならぬ、と私の持論。ふてぶてしい存在感、人生いや、ネコ生をその眉間の傷にのせているようなヤツがよろしい。美系ならば、頭くるくらい気位の高いネコがよろしい。あるいは心底ボーッとしたヤツ、お前大丈夫か?と言ってやりたくなるほどのネコもよろしい。
 この猫本「Ernie」(日本版もでている・河出書房新書 2003)は本の帯によれば、悪ガキ猫とある。ホント、おちゃめで、生意気で、イイヤツなのだ。一度絶版になったものをカンバックコールのため、ここ最近、あらたに出版されたという。世界で一番有名なネコらしい。
 鳥の写真をじっと見つめ、「これは○○○の亜種か・・・」などと考察に疲れたら、この手の写真で頭ほぐすのも良いかもと思うのである。鳥の天敵、ネコであっても。   (塚本和江記)
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2006.2.14‐15.   荒崎の今と昔、又野さんのことども

 7,8年ぶりに鹿児島県荒崎を訪ねる機会に恵まれた。「お〜、いる、いる!」1万羽を越えるナベヅルやマナヅルの壮観。その背景に見覚えの蕨島(わらびじま)。ツル保護監視員を長いことつとめた又野末春さんとご家族にも再会。お世話になった地元のバードウォッチャーともお会いできた。東京で鶴の里を思う距離が、一気に縮まる。ひとしおの感慨であった。

 私が大学に入るころは、ツルを見にいきたいと思っても探鳥情報はきわめて乏しかった。「鹿児島県のツルおよびその渡来地」として1952年に国の特別天然記念物に指定されているからには、鹿児島県へいけばツルが見られるにちがいない、くらい。話しにならない。行ったことがあるかと聞いて答える鳥仲間もいないのだから。5万分の1の地図に「荒崎」の2字を見つけて、「ここだな、渡来地ってとこは。」
 東京からはるばる出かけてツルに出会えなかったらとの思いが先で、つい二の足を踏む。そのころ、空の便なんてない。一番早い国鉄の急行で東京駅を出発し、関門トンネルを抜けて九州を縦断し、鹿児島県出水駅で1日何本かのバスに乗り換え、荒崎へ。その間、17時間ちょっと。覚悟がいったのだ。
 それでも荒崎への憧れを強くしたのが、下村兼史の本。「鳥類生態写真集」(三省堂 1930:第1輯、1931:第2輯)と「カメラ野鳥記」(誠文堂新光社、1952)の2冊だった。荒崎の湿潤な干拓地に遊ぶナベヅル、マナヅル(Archives Galleryの最初の写真参照)、オオハクチョウ、ヒシクイ、クロツラヘラサギ、ナベコウなどモノクロ写真に残されたワクワクさせられる水鳥たち。地元で知りあったカネ爺、カモ取り名手のキジ猫などの飾り気のない著述。それらと、地図から想像する荒崎をダブらせ、思いをつのらせるのであった。

 1958年の冬、ついに私は憧れの荒崎田んぼをみわたす農道の端に立っていた。ひとり途方に暮れて。
 広い田んぼのどこにツルがいるというのだ。いるハズのツルが見当たらない・・・。おりしもあいにくの雨。南国鹿児島なら冬でもそこそこ暖かいだろうと高をくくってきてみたら、身にしみる潮風の寒さ。宿屋なんてない。な〜に、畑の縁にでも野宿すればよいさとの軽い気持ちが、一気にしぼんでしまった。
 田んぼの真ん中に、農家が一軒ポツンと見える。招かれているような気を起こし、雨がしのげる軒先を借りようと決めた。玄関戸を引いて許しを乞う。「東京からわざわざ鶴ぅ見にきゃったんなぁ?!」どうも驚かれたようだ。私がエッと驚いたのは、続いて耳に飛びこんだ一語。「おやツル保護監視員をしとったっどんなぁ。」う、初めて聞く鹿児島弁、やや推測を必要としたが、確かツル保護監視員と聞こえた・・・。なんと幸運な!
 軒先じゃ困るじゃけん、まぁ上がんなさい、夕飯は食べなさったか、五右衛門風呂だが・・・ふとん敷いとったとですよ。ざっとこんな順序でズルズルと有難くコトが運ばれた。ご親切の総てに甘え、又野家にお世話になることとなった。
 余談であるが、又野さんは私にはかなり標準語で話してくれて、ほとんどの会話が成立した、と思う。だが、玄関先でご近所と話しているのを聞いたら、一語はおろか一字も聞きとれなかった。鹿児島弁は日本の外国語だと、新鮮な驚きを味わったのである。
 早朝ふとんの中にいて、ツルの声が天井から落ちてくる予想もできなかった豪華さ。ナベヅルは、一面ドロドロ干潟の西干拓の塒を飛び立って飛行場の方に出かけていくのだそうだ。夕方またあちこちから戻ってくるというから、昼間の荒崎にナベヅルがほとんどいないのだ。総数わずかに350羽ほど。
 家族単位か数家族で田んぼに残っているのが、マナヅル。田の中を流れる小川にはいって餌をとっていると、ほとんど見つけにくいこともわかった。丹念に数えても全域で30数羽。
 これではちょっと見渡したところ、「ツルは田んぼのどこにいるんや?」であったわけだ。又野さんからツルの居場所や行動を教えていただいたお蔭で、次第に荒崎が見えてきた。
 「こぃよ使えばよがぁ。」借りて使ってもよさそうな雰囲気を察知。太腿までの長靴をお借りして、これにどれほど助けられたことか。小川、アシ原、草つきが田んぼ続きに点在する自然っぽい湿潤地を自由に歩けたのだ。荒崎周辺には野鳥の影が濃かった。土地の人にもほとんど会わない鶴の里を独り占めにする私。ヘラサギの20羽ほどが居る地続きにわが身のある贅沢さをほしいままに、日がな一日探鳥三昧をつづけたのだった。
 又野さんにお会いしてなかったら、その翌1959年と1960年に世紀の珍鳥ソデグロヅルにはめぐり合えなかったに違いない。

 それから50年近くが過ぎた。この間、調査や保護の仕事で、また個人的に、断続的に荒崎行を重ねた。
 農作物への被害を防ぐための毎朝の餌まきが1950年からはじまり、又野さんをちょっとだけ手伝ってみて餌まき作業が大変なことであることを身を持って知った。1960年に、ツルの保護と農業との問題を扱う「鹿児島県ツル保護会」が結成された。かつて私が初めて数えた数百羽のナベヅルは、今や10,000羽を越えたという。30数羽だったマナヅルは2,500羽ほどに増えた。荒崎へ来てツルが見つからないなんて、誰が言ったことか。
 ツルは増えたが、荒崎周辺は人家も増え、耕地整備された田んぼに自然な感じが失われていた。鳥影は少なくなったようだ。ツルは人間の立入禁止区域で悠々としている。昔のようにツルのいる田んぼを気ままに歩くことなど、もってのほか。
 西干拓と境する昔の潮止め堤防にあった1列の黒松は姿を消し、ツルの居る一幅の絵のようだった眺めが、今は歯の抜けたような寂しさ。かつてトボトボ歩いて遠く思えた東干拓へは近道の立派な橋がかかり、舗装道路がつづいて、車でアッという間に行ける。そこで探すまでもない、カナダヅルの1羽がいると教えてもらえた。昔は一人で探したものだ。
 又野家の隣の2階建てツル観察センターの屋上からは、いやでもツルの大群が見られる。世界中のほとんどのナベヅルがこれほど狭い一地域に集中しては、万一伝染病など起きたら・・・との心配をよそに、鶴見客は後を絶たない。私もその一人とはなったが、半世紀ほど昔の荒崎を知る者として、なんとも複雑な気持ちであった。
環境は変わるべくして変わっていくのが現実・・・と認めていいのだろうか?

撮影◆高野伸二
思い出の写真――又野家の縁側にて
1960年11月25日
鹿児島県荒崎

 83才になられた又野さんは、長年ツルの越冬期間中は毎日欠かさずに続けたツルの餌まきを引退されていた。ちょっと目をご不自由されているほかは、奥様の早苗さんとともにすこぶるお元気で私を喜ばせた。又野さんにとっては子孫のようなツルたちを背景に、その日荒崎をバードウォッチングに訪れた高円宮妃殿下とともにカメラに納まっていただいた。私の腕ではスーパーショットといいたいが、引伸ばしてみれば誰の目にも無難な仕上がりにホッとした。長年お世話になりっぱなしの又野さんに、鶴の恩返しどころかなにも出来ない私には、記念写真がせめてもの「親孝行」となったかどうか。
 その数日後が又野さんご夫妻の結婚記念日。記念に額を用意してお持ちした。中に何もなくては淋しいと、又野家の思い出の写真を捜し出して入れたものだ。懐かしさでしばし盛り上がる。お母さんの隣に写っているのが当時3歳のチヅルちゃん。立派に成長された千鶴さんは、ご両親を助けて甲斐甲斐しく民宿「鶴見亭」を切り盛りしている。私も年をとったわけだ。さても、写真の右端にいるのは、若き日の私なのでは?!                             (塚本洋三記)

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2006.1.20.      カミさんのティータイム:エルナンデスの月の出

 ガラガラの映画館で、その写真に出会った。スクリーンいっぱいに映し出された巨匠アンセル・アダムスの「エルナンデスの月の出」という作品である。今をさかのぼること30年以上前のことだ。
 当時私は映画演劇、音楽と、はしごの日々をすごしていた。新宿か池袋の場末の映画館であったろう。そこらに生息していたから。甘ったるいコーヒーとおしっこの臭いがただよう薄暗い小屋の角に腰かければ、いつものように、「さあ、芸術」なのだ。
 アングラ映画「田園に死す」あるいは「草迷宮」であったか。その写真はつなぎとして使われていたように記憶している。なんだか無意味に、唐突に、シーンとシーンの間にあらわれ出た。

 もったりとした黒い空に少し欠けた月が浮かび、雲が輝きながら流れ、手前におもちゃのような十字架が立ち並ぶ。きっと写真にさほど興味がなくても、多くの人が目にしているであろう。かなり有名な一枚。衝撃のモノクロ写真との出会いである。初体験はなにかと人生ひきずる。いろいろと。
 それは普通目にする写真の大きさではなく、映画のスクリーンという異常なスケールだった。また、無知なために、写真史に残るその傑作を知らなかった。そしてその頃私は、青春の苦悩の真っただなかにいた。つまり、なんにでも感動できる体制はできていた。数々の条件がかさなり、まれにみる感動の一瞬となった訳だ。
 いまだ堂々の、写真部門感動ベスト1なのだ。

 その後「エルナンデスの月の出」はなんとなく脳のかたすみにおいやられていた。時々アート系ポストカードの店をのぞいた折に、アノ写真は?と、物色する程度であった。しかしその写真は「あらまっ」の形でふたたび私の前に登場した。そのころのカレシがプレゼンしてくれたのだ。バースデーカードとして。「あっ、これっ」と息をのんだ。映画館から2度目のめぐりあいであった。ざっと十年以上の時が流れていた。
 そのモノクロ写真のカードは今も我が家のTVの上にある。要するに、そのままカミさんになった。あっけなく。
 まっこと、アンセル・アダムスは私の人生を動かした。写真の持つオーラは人生すらも変えうる、と、そのへんが言いたかったわけである。

 思うにシロウトの私には、暗いわりには墓場の十字架がやけに白いじゃないか。
 そのスジの人がいうには、露出をかけているだろうに、月が静止しているのはナゾだね、と。                           (塚本和江記)

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2005.12. 4 .    書初め:モノクロの記

  人間の目には総てが総天然色に映る。カラー写真、然り。なのに、なんで好き好んで、私は、いわば虚偽のモノクロ写真の世界を追い求めるのだろう。
 親父のカメラを持ち出して遊びはじめたころは、モノクロフィルムしかなかった。カラーフィルムもあったのだろうが、店頭で見たのは覚えていない。どうせ高嶺の花。駆け出しはモノクロで十分だった。フィルムは、ネオパンS, ASA32・・・(なんと、懐かしい!)。
 撮っているうちに、上野動物園の動物写真コンクールで、「紳士」と題したフンボルトペンギンの写真が、中学生の部で1等をとってしまった。これで病みつきは決まったも同然。
 余談ながら、副賞として下町の自宅に上野からつれて帰ったのが、バリケン(タイワンアヒル)本モノ2羽。これには当惑というか迷惑というか。正直、見た目が美しくない。顔つきなど、むしろ目をそらしたくなる。池のない小さな庭に放してホースで水をかけてやりながら、それでも1年ほど一緒に過ごした。その後どうしたかは、覚えがない。
玄関先を散歩するバリケン2羽
1952 年 東京都浅草橋

 バードウォッチングと野鳥の写真への興味は、二人三脚だった。鳥を見つけ、シャッターを切る。1週間後に現像が出来上がるのを楽しみに待ち、楽しみはそこまでが常であったが、ネガに浮かびあがった鳥らしい数ミリのピンボケた点を、気落ちしながらもルーペで覗いたものだ。標準レンズでそんなことを凝りもせずに続けた私は、野鳥の写真を撮りたいという根性だけは持ち合わせていたようだ。
 野鳥のモノクロ写真との決定的な出会いは、東大赤門前の古本屋さんでなにげなく手にとった2冊の写真集。「鳥類生態写真集」(内田清之助・下村兼二共著 三省堂 昭和5年:第一輯、昭和6年:第二輯)だった。中学生の私には高い買いものだが、なにごとによらず一目ぼれに躊躇は無用というもの。
 下村兼二。その手によるモノクロ写真には、詩情が漂う。野鳥の姿がやわらかなトーンで写し描かれ、なんとも魅せられてしまうのだ。確かにピントはよくない。しかし、味がある。自然の唄が聞こえる。モノクロへの想いを、強く私のフォト感覚に刻みこんだことは確かだった。
 50余年を経た今も、背表紙のとれかかった2冊を時に書棚からとりだしては、作品に目をやる。今の生態写真家の評価が低いことはあっても、そのジャンルの日本での先達、下村兼史(改名)の作品には、よく咀嚼してみる価値のあるものが多いと私は考える。下村調の写真を、現代風の解釈と進歩した光学機材とで表現するにはどうしたらよいものかと。そこが感知できれば、野鳥芸術生態写真への道が見えてくる。そんな夢想をさせてくれるのが、下村写真であり、モノクロの世界なのだ。
 カラー写真を撮らなかったわけではない。大学卒業後のアメリカ滞在中に撮った数千枚のカラースライドは、箱に詰まったまま。カラーで気に入った色調の写真が撮れたためしがない。白と黒の間の微妙なトーンに限りない魅力を感じて、モノクロ写真にますますのめりこんでしまったのである。
 人生、わからないものである。カラー写真全盛のおありで、モノクロ写真文化が埋没してはいけないと思い立ったのである。ほとんど衝動的に。有限会社バード・フォト・アーカイブスを設立して1年半が過ぎた。そろそろホームページを立ち上げねばと・・・。ご覧のようなことになった。
 もとより無給のカミさん(参与)の気まぐれな働きは、欠かせない。そして、なにより皆さまのお力添えがなければ、とてもやっていけないことは百も承知している。
 くれぐれもよろしくお願いいたします。                   (塚本洋三記)                                               ▲2006目次

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