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下村兼史写真展(2018年9月21−26日)へ向けて準備に全力投球するため
「Day By Day」は今月をもって休載とさせていただきます
長い間のご声援 心から有り難うございました

●●2017 June●●らくがき帖下町のビル街で和モノの味

東京柳橋といえば、一昔前なら知る人ぞ知る大川沿いの花街でした。私が30年ほど前に柳橋の外れの10階建てアパートに移り住んだころは、隣の料亭には、夜ともなれば“黒塗りの高級車”が狭い路地にずらりと駐車し、帰宅の通りすがりに門から中を覗くことすら、はばかられたものです。料亭内でなにが起きていようが俗人にはあずかり知れないのですが、しかし好奇心をそそられたのが記憶に残っています。
  年を追って料亭は次々に店終いして、門前での時代劇のロケ風景も過去のものとなりました。時代の流れとはいえ、昔の風情が消えていくのは、やはりもの寂しい限り。
  柳橋界隈が味気ない下町景色へと変わってしまった今日、一か所だけ昔を味わえるスポットがあります。神田川が隅田川に注ぐあたりにかかっている柳橋に、寄り添うように残っている佃煮屋さんです。
  周辺のビル群は目に入らないふりをして、視野を狭めてその小さな日本家屋だけを見るのです。昔ながらの佇まい。そのさらに懐かしい和の趣だけを切り撮ったのが、ご覧の写真です。
  窓辺に綺麗どころの影が浮かんでさえいれば、言うことはないのですが・・・。

時の流れに

「般若心経」に「世の中のすべては常に移り変わり、永遠な存在などない」と説かれているようです。ジャズで、タイトルが “Everything Must Change” をカミさんが歌っていたのを思い出します。その歌詞にも ”Nothing Stays the Same” とありました。洋の東西を問わず、単純明解な真実です。
  バード・フォト・アーカイブスのホームページも、変わるときが来ました。古いものにしがみつくことなく、今を変えると、新たな先が拓けてくると信じます。
  下村兼史写真展の一つの顔は、温故知新。それが、皆さまにとりましても、今を変える勇気と明日へ向かう知と行動のエネルギーとなることをも願っています。

●●2017 May●●らくがき帖戸隠三景

去年の今頃に次いで、今年も東京を一晩だけ抜けだし、長野県戸隠森林公園へ行ってきた。去年は終日小雨で山の影もなく、しっとりとした静寂はそれはそれで一つの世界を満足できたが、今年は抜けるような青空。戸隠の山並みが近くに迫って圧巻であった。去年に較べて春が遅い。
  用事のついでの自然散策ではあったが、私には“命の洗濯”であった。

ミズバショウ
  戸隠へ着いてみると、樹の枝いっぱいに咲かせたヤマザクラの紅やタムシバと教わった白がところどころで色鮮やかに目立つが、林全体としてはまだ春には早すぎる冬枯れ色の佇まい。ミズバショウの白が湿地で一早く輝いていた。リュウキンカの一群は金色に。林床ではカタクリの花。
  どこか寒々しい空気にも、クロツグミの朗らかなさえずりが響く。オオアカゲラとキバシリは、枯れ木の巣に餌を運んでいた。
  林越しに見える尾根は、戸隠連峰の前山。



  戸隠神社の参道を一直線に上り詰めたところの奥社に着いた。振り返ると、空に一本の虹が架かっている。弧を描いていないが、虹は虹。意外なものを見てしまったような気分。さては早起きして宿坊での朝のお勤めに参加し、心身を清めたせいであろうか。
  本殿で、二礼、気をいれて二拝、一礼。
  帰路見上げる空に、まだ色鮮やかな虹が残っていた。なにかを暗示するかのように。


鏡池の夕景
  視界で動くものは、雲とわずかな風とさざ波だけ。それに、対岸でオシドリとアオサギが望遠鏡の視野にサイレント映画のよう。静寂な時が過ぎる。
  都会を離れ、しばし自然に身を置くと、五感が息を吹きかえすようだ。なにものにも代え難い、ひととき。
  稜線の三角の塊が本院岳(2030m)、戸隠山(1904m)は、画面の右に外れて写っていない。

フィールドにいた時はそれほど多くの野鳥を見聞きしたとは思えなかったのですが、5月11日の夕方と12日の午前中に仲間3人とで識別し得た鳥をリストしてみたら、45種+アカゲラ?(声のみ)にもなっていた。種数の多さに改めて驚かされる。もっとも私は皆と一緒にいながら11種も聞きそびれ、若かりし頃の“耳自慢”はどこへやら、内心ちょっとショックを受けたのでした。
 長野への帰り道、なにを思ったのか真っ昼間に目の前の車道を横切るアナグマが見られたのは、喝采ものであった。

●●2017 Apr.●●らくがき帖さくら さくら


卯月の空は
曇り日の夕刻近く
近所へ花見にでかけた
来年に迫った下村兼史写眞展の準備作業をほったらかして

満開
気まぐれに吹く風に しばしの花吹雪
時の過ぎるのを忘れていた
心安らぐひととき

五年前だった
今年のお花見はムリかもねぇと言ってて
その通りに
さくらを見ずに逝ってしまったカミさん

あれから初めての花見だけど
一人ぼっちではない気がしていた
誰かが傍にいる
そう思えるのは幸せなこと

年に一度のこの時季 さくらと対話する
しなければしないで年を重ねていくけど
さくらあって
忘却がひっこみ 余命がまだまだと微笑む


●●2017 Mar.●●らくがき帖咲き続けるケイトウ


  台所の小窓で、小さなケイトウが三輪花を咲かせています。コップに水が少なくなっては足しているだけの面倒しかみていないのに。いつまでこうして楽しませてくれるのでしょうか。元気に咲きつつも生命の先を案じながら、そのあたりを我が身にてらして、日々を共に過ごしていることに感謝しています。
  実はこのケイトウ、去年の秋口から、ここでこうして咲いているのです。

  花が好きだったカミさんに仏壇前が華やぐようにと、近所の花屋でケイトウの一束を買い求めた時でした。花瓶に活けて、不要で切り落とした小枝が3本残ったのです。そのまま捨ててしまうのもなんだなぁ・・・。そんな気になってよく見ると、小さな鶏頭を華麗な紅むらさき色にしてお助け顔。1週間でも保ってくれれば私の気持ちも納得いくかと、コップに挿しておいたのでした。
  花瓶の大きなケイトウは、10日ほどでどれも枯れがきて頭が垂れてきました。ところがどうでしょう。コップの小さな3本は、ふと気がつくと、二三週間が過ぎても鮮やかな鶏頭を天にして元気なのです。それからさらに数週間、オヤヤと思ってよくよくみたら、コップの底に白く細いものが。根がでてきているではありませんか!

  それからもう半年以上が経っています。隣に置かれたショットグラスの前年のリンドウはドライフラワーになっていますが、ケイトウは3本が3本、そろって枯れるのを拒否しているようです。いつまでも咲いていてくれやと、毎日声をかけてはこのケイトウの生命力に感嘆しきり。今日のひと言は、「キミたち、ホームページに載ることになったぜぃ。」
  一人暮らしの良き相棒となっています。

●●2017 Feb.●●らくがき帖人生で最もコワイ目にあった話

人間の脳がAIに乗っ取られる時が来る! そんな暗示をしかねない近未来のSFのような悪夢?をみたのです。


下村兼史写真展用の重要画像ファイルが消えた

日頃世話になっているコンピューターに不具合が起きて、再インストール余儀なしと覚悟したのが、先月24日。即データのバックアップをとりました。不具合の犠牲になったものかどうか、なんとファイルのいくつかが消去されているではありませんか。その中には、来年秋に迫った下村兼史写真展に準備している最も重要な画像ファイルが含まれていたのですから、私はマッ青でした。
  デスクトップとノートパソコンの3台のモニターを使い、画像だけでも2万件を超える外付けハードディスクのファイルの突き合わせチェックで、単純ながら気の抜けない作業を、連日連夜延々と続けていたのでした。
  コンピューター音痴の私には、パソコンの再インストールなんて苦手で考えるのもいやでしたが、どのみちそれは二の次です。まずは、なんとか不具合以前と最も同じ内容のバックアップを整えて、復元に備えなければ、の一心。

対処しようのない恐さ

心身ともに消耗な日々。くたびれ果ててちょっと寝ようかと横になったときでした。今月5日の夜のこと。
  それこそ頭の中いっぱいに、フォルダとファイルがグルグル動きまわっているのです。それをマウスで追いかける私。連日の疲れのせいで、幻覚でもでたかと思う私でした。
  いつも寝付きがよく、その時もバッタンQと思いきや、増えていくファイルをフォルダに収納する作業が切りなく勝手に進行し、脳が満杯になって破裂するのではないかと感じられたほどです。気持ち悪くなるのを覚えました。どうしたものかとて打つ手はなく、とどめなく膨らむ恐怖心。
  そのあたりで私の脳の中に、もう一人の“私”が現れたのです。私の脳を見ているもう一人の“私”が、私には意識できました。その“私”が私に、「脳の中でコンピューターウイルスが増殖しているんじゃないの?!」 私には考えもおよばないギョッとすることを話かける。もしかして、ほんとにウイルス? どうしよう、どうなることか・・・。
  「オッカナイ、怖いよ、怖い〜」と感じて耐え難くなってきました。
  追っかけ、胃になにか詰まったような苦しさに気がつきました。なにが起きたのかと、すでにパニックしてる脳で、自問。したところで、恐怖心に加えて不安感もつのるばかり。
  そのうちに苦しい胸が痛むようで吐き気を感じたのです。たまらず吐いてしまいました。めったに吐くこともない私なので、それも異変でした。
  ゲンナリしてベッドに戻り横になったら、心なしか脳の騒ぎが治まっていくように感じ始めたころには、気が遠くなるように寝込んでいたようです。


一難は去った その後に続いた試練はご想像を

目を覚ましたのは、12時間後。爆睡でした。脳一杯のファイルが消えていたのを自覚して、ホッ。しかし、前夜の悪夢とは思えない恐怖体験は、脳裏にこびりついていました・・・。
  今思い出しても、アノ恐怖感はよみがえります。二度と起きて欲しくない脳の暴走でした。いや〜、怖かった〜。その時は、再インストールをする以前の復元用データ整理で、予想もしなかったさらなる苦難が待ち構えているとは知るよしもなく。

●●2017 Jan.●●らくがき帖パラオの倉田洋二さん

戦後70年の節目となる2015年、天皇皇后両陛下が4月9日にパラオ共和国を訪ねられました。激戦地ペリリュー島の最南端にある「西太平洋戦没者の碑」に立たれ、また紺碧の洋上はるかに浮かぶ玉砕の島アンガウル島に向かって鎮魂の祈りをささげられた両陛下。その報道は、今も深く私の記憶に残っています。というのも、私が昔パラオへバードウオッチングに行った時の、得難い思い出と重なるからです。
  私のパラオでは、倉田洋二さんという海洋生物学者のお世話になったのでした。

写真の左が倉田洋二さん [読売新聞 2015年4月10日(14版 37)より転載]

後に電話で知った戦友の墓守のこと

倉田洋二さんが、親類を頼ってパラオへ移住したのは1941年。南洋庁水産試験場で勤務中の1944年に旧日本軍から現地招集を受け、アンガウル島に配属。そこに米軍が上陸したのが同年9月17日。約2万人の米軍に対した1200人ほどの日本軍の守備隊は、一ヶ月ほどで玉砕でした。
  砲弾を受けて左半身に重傷を負った倉田さんは、動けないままに最後の攻撃に参加できず、パパイアの根っこ、ヤシガニ、オカガニ、稀には見つけた米軍の食料などで飢えをしのぎ、慢性的な栄養失調ながら一日一日を生き延び、また島から脱出しようと泳ぎだしたものの潮に戻され疲労困憊して逆上陸を余儀なくされたことも。ジャングルを転々とし、1945年春に米軍の捕虜となって生き残ったのでした。
  玉砕した戦友にはどこか後ろめたい気持ちが胸にあったということは、想像できます。倉田さんには想像を絶するその先がありました。東京都水産試験場を定年退職後の1996年に再度パラオに移り、せめてもと戦友の墓守を続けてこられたのです。大小20数基に増えた慰霊碑は放っておくとジャングルに埋もれてしまうので、手入れなどの管理が欠かせないからです。
  2008年になって難題がふりかかったとのこと。地権者から碑の移転を求められた倉田さんは、日本で移転費の寄附を募る一方、地元政府に掛け合って国有地を確保し、永久に供養の可能な移転先で碑が守り続けられる段取りを一人でつけられたのでした。
  「ひとまずホッとしました」と言われた電話のお声に、他人にはできないことを黙々とやっておられる方なのだと、私ははるかパラオの倉田さんに想いを馳せていたのでした。

一難去ってまた一難

ところが2012年のこと。超大型台風ボッファがパラオを直撃したのでした。通常、台風はパラオの北東の海上で発生し、勢力を増しながら移動し北西のフィリピン、台湾、沖縄などへ向かうので、パラオは影響を受けるとしてもその余波程度。それが半世紀以上ぶりの襲来だったそうです。
  私がその昔 訪ねたパラオの最北端の小さくて平らなカヤンゲル島などは、全島避難命令がでたほどだったとは。当時の島の様子を思い出して台風の猛威を想像するだけでも、私は目眩がしそうでした。
  アンガウル島の慰霊碑はというと、壊滅的なダメージを受けたのでした。海からの距離が充分でなかったのと北東の風が吹く乾季であったのが災いして、東北に位置する慰霊碑公園が台風の高波にさらされ、ほとんどの慰霊碑はジャングルの中に押し流され、小さいもののいくつかは引き浪で海の底へ。
  見るも無惨になってしまったことのショックを乗り越えて、倉田さんはまた親しい友人たちの協力の下、慰霊碑公園の再建に乗り出したのでした。パラオ人の友人の息子の所有地を借り、後世にわたりさらなる移転を強要されないように書類を整え、再度ジャングルに散った慰霊碑を集めて作り直したのでした。

再建された慰霊碑公園 [写真提供 ◆ 諸川由実代 c 2016 Y. Morokawa]

ご苦労の末の嬉しいタイミングとは、慰霊碑公園の完成直後に両陛下のパラオご訪問のニュース。至誠天に通じる倉田さんのお気持ちを察するに、余りあったのでした。

テレビで"再会"の倉田さん

両陛下の行幸の日、その場に必ずや倉田さんのお姿があるに違いないと、私はテレビに釘づけになっていたのでした。数十年ぶりにテレビで拝見した倉田さんは、お元気そうでなによりでした。両陛下がアンガウル島に向け黙祷してくださったことは、慰霊碑公園の再建が間にあった倉田さんにとっては、さらになによりのことでした。アンガウル島で戦死した仲間の名簿を手に握り、戦友への絶えぬお気持ちを胸にここまで来られた倉田さんに、つい胸の熱くなるのを覚えたものです。倉田さんの心身に傷を負わせた“戦争”と実際に時が過ぎるよりも長かった“戦後”とに、一つの区切りがついたのではなかろうかと。

  パラオでは、図らずも倉田さんにご案内いただいたジャングルの中の旧日本兵が使った飯盒などが散乱するかつての戦場は、私の一番身に迫る「戦争体験」として五感にしみ込んでいたのでした。パラオで見た野鳥の記憶は薄れても、そのときの木漏れ日の薄暗いジャングルの空気ごと私には今もその場の光景が忘れ得ません。
  倉田先生はご自身の戦争体験を語られませんでしたが、後に知った戦友の墓守をするためにパラオに戻られた先生のお気持ちが、それだけ余計に私の心に深く刻まれているのでした。

  ひとことお声をおかけしたくて、テレビ報道の後すぐにパラオへ電話をいれてみたのです。しばらくぶりのメールも何故か届かなかったのでした。ま、いいか・・・と、それっきりになっていました。

まったく思いがけない電話

それからほぼ1年半経った2016年10月25日、拙宅の電話が鳴りました。
  「下村さんですか?」(ムグッ)一瞬、面食らったのです。2018年に予定される下村兼史の野鳥生態写真展に関する電話かな、とも思いつつ、
  「下村兼史さんに関心はありますが、私は塚本です、が。」次に聞こえたひと言、
  「パラオの倉田です。」(・・・!) 絶句。正直、生きておられるのかどうかと時々に思っていただけ余計に、聞き覚えのあるお声につい大声をあげてしまったのです。
  「倉田先生?! お変わりありませんか!」

  私ごときに電話をくださるとはなにごとが起きたのかと、頭の中は纏まらない考えがしばし忙しくグルグル。なんと7年前の2009年9月20日の電話でお願いしておいた、私の質問の答えを伝えてくれたのでした。
  質問とは、下村兼史自身が撮ったアホウドリの写真とまったく同じものが、倉田先生が編者の「写真帳 小笠原 発見から戦前まで」(1983年 アボック社)に載っているのを見つけたので、もしや、その写真の撮影データに関する情報がありはしまいか。さらには、元小笠原営林署長豐島恕清なる人物がそのアホウドリを撮影した可能性もあるのではと推察しているので、その所長の情報があれば知らせていただきたい、と。
  倉田先生はかつて小笠原島にお住まいだったので、もしやなにかご存知ないかと藁をも掴む思いだったのです。「小笠原営林署のアサヌマに聞いてみるか。生きていればだけど。捜してみましょう。」
  それから7年経って、結果的には写真データともどもなんらの新情報は得られなかったのですが、それ以上の小笠原島での情報収集は倉田先生でもムリな話だったということを、わざわざ電話してくださったのでした。

  お元気なお声でしたが、身体は思うように動かなくなったと言われてお訊きすれば、89歳とは。恐れ入りました。7年も昔の私の質問を覚えていてくださってご返事くださったことに、私は目頭が熱くなるのを覚えたのでした。そのときは、倉田先生のお気持ちに感謝するあまり、アホウドリの写真が誰によって撮られたのかは、どうでもよいように思われたくらいです。
  できそうでできないことをする人とは、まさに今回の国際電話をかけてくださった倉田先生のことです。

またお会いできる日まで

その昔、私が日本野鳥の会にいたころ、たしか環境庁委託調査で小笠原島の野鳥生息調査をしたときに、当時東京都小笠原水産センター所長の倉田先生にご指導いただいたのでした。1973年から小笠原島に住んでおられたのは存じていたので、小笠原のことなら倉田先生だと決めつけて、面識もないのに島へ押しかけていったのでした。
  さらには、パラオが1994年に独立した後だったとうる覚えしていますが、私がバードウオッチングツアーの隊長でパラオを訪れた際に、倉田先生に全行程ご案内いただいてすっかりお世話になったのでした。
  実は、お会いしたのは人生でこの2回だけなのです。

  たった2回しかお会いしていないのに、たまさかの電話でお声を聞いただけなのに、倉田先生とはどこか見えない糸で心が繋がっているような感じがするのは何故なのでしょう。不思議に思うことがあります。きっと倉田先生のお人柄に惹きつけるものがあるのだろうと勝手に決めて、有り難く思っています。私には、友人と呼ぶにも異なる希有な間柄の大先輩が、はるか南の島パラオにおられるのです。素敵なことです。
  いまごろ倉田先生は、心おきなくライフワークのウミガメの研究を続けられておられることでしょう。またパラオでお目にかかれる夢を、大切にしています。

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