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2012 Jan.BPA フォトグラファズ ティータイム高野伸二さん

 一番手のご登場は“バード・フォト・アーカイブス”なんて耳にもしたことのないお方である。「モノクロ写真を遺していこうなんて、洋ちゃんらしいことを始めたなぁ」と眼鏡の奥で笑いながら天国から声援を送ってくれているに違いない、高野伸二さん(1926−1984)。
 その高野さんが生涯で撮った総てのモノクロのネガと多くのプリントが、高野ツヤ子夫人のご厚意でBPAの貴重なコレクションの一部となっている。BPA自慢の一つである。
 私が中学生だったころから30年以上もの長いお付き合いであったから、高野さんは私の成長を弟分として見ていてくれた。私は高野さんにくっついて特にシギ・チドリ、ワシ・タカ、ガン・カモ類の識別を学び、鳥に限らず兄貴分の“人間高野”の影響をも多く受けて青春時代を過ごせた。感謝の気持ちに途切れることがない。
 高野さんの写真については好き勝手が言えた。どんなカメラであれ、カメラを持って写真を撮っていたという点では、私の方が先輩だったのである。

カミさんから
BPAフォトグラファーへ

 2006年から連載の「カミさんのティータイム」が2011年末で終了しました。私のコラムより明らかに“隠れファン”の反応がよく、私は内心ひがむことが多かったのです。ともあれ、カミさんも楽しませていただきました。この場をかりて「心からありがとう!」を皆さんに伝えてほしいと申しております。
 引き継いで新年から登場のティータイムII。 題して、「BPAフォトグラファーズ ティータイム」。
 ご想像のとおり、バード・フォト・アーカイブス(BPA) に写真をご提供くださったり、なにかとお世話になった方々の中から、私が今回はこの人と勝手に選ばせていただきます。そして、その方とBPAとの出会い、これまで発表しきれていない写真のご紹介、エピソードなどを気軽に書かせていただこうというページです。
 ほとんど一方通行のコミュニケーションではあれ、このページにご登場いただく方を通じてバード・フォト・アーカイブスの活動・考え方や時代時代のカメラ・生態写真・バードウオッチング事情などをお楽しみいただければ望外です。
 カミさんに代わって毎回元気よくいきたいと思います。(塚本洋三記)

 高野さんが初めてアサヒフレックスカメラに135mmの望遠レンズをつけて意気揚々と千葉県新浜の堤防に現れたのを、はっきり覚えている。1950年代半ば、探鳥会でも双眼鏡を持っていない人をみかけた頃。カメラはまだ貴重品で下げている人は稀であった。ましてや望遠レンズなんて「鳥を撮るのに要るものらしい」くらいの私の認識。後年の野鳥写真ブームで400mm や700mmとかのバズーカ砲のような超望遠レンズにくらべれば、はな垂れ小僧のような高野さんの135mmでも、スゴイものを眺めるようで羨ましかった。
 その135mm付きアサヒフレックスで撮られた手札サイズの写真が私のアルバムにある。新浜ではめったに見られなかったミサゴが、しかも飛翔中の写真。まずはじっと止まっている鳥が撮れればと願うのがその頃で、飛んでいる鳥を撮ろうものなら、結果はとにかく「お おっ!」ということになる。稀なチャンスをモノした高野さんは大得意。望遠レンズを持てない鳥仲間は、「よくぞ撮れたものだ、ミサゴってわかるじゃない。」と感心しきり。日本野鳥の会の『野鳥』誌 (通巻第182号 79頁) を飾ったのである。

アサヒフレックスを下げる高野伸二さん
撮影 塚本洋三
1955年11月20日
千葉県新浜

ミサゴ
撮影 ◆ 高野伸二
1955年10月12日
千葉県新浜

 後になって高野さんご自身、「なんだよ、こんなケチな写真・・・。ピントはアマイし、小さなミサゴ。あ〜イヤだイヤだぁ。載せなきゃよかったぁ。」その時の高野節が今でも耳に残る。野鳥生態写真史に一時代を築いた高野さんの生態写真歴にも、このような駆け出しのころがあったのである。

 高野さんはいつの間にかめきめき写真の腕をあげていった。カメラのオバケのような重くて大きなオートグラフレックスを確か鳥学者の蝋山朋雄さんから譲ってもらったあたり、1957年頃からのことだと思う。愛称“グラ”の固い革製の四角なカメラケースは椅子の代わりになったそうだ。夜行列車で席がとれなかった時、ツヤ子夫人が腰掛けて夜を過ごしたと聞いた。そんなスゴイしろもの、時代ものを、高野さんはすこぶる愛用していた。バシャッという独特のシャッター音がお気に入りでもあった。

グラフレックスを構える高野伸二さん
撮影 ◆塚本洋三
1957年夏
千葉県新浜
 日本の野鳥生態写真の先駆者、かの下村兼史 (1903−1967) が1920〜30年代に使っていたそのグラフレックスであるが、私が現役で使っている人をみたのは、高野さんが最初で最後である。コンゴー300mmの望遠レンズがついたその“グラ”で、6×6判に、少しでもアップで、よりピント良く、をめざした高野さん。高野流生態写真が開眼していった。
 想像を絶するのは、機械のように重いグラフレックスと、後に手に入れた同じく重い500mm望遠レンズつきのアサヒペンタックスの両方をかついで撮っていた頃があったことである。マイカーのない時代。重い三脚も含めて機材一式、どれほどの重量だったのだろう。

 年来撮りだめた写真は『野の鳥の四季 高野伸二写真集』(1974年12月 小学館)となって上梓された。高野さんは、アメリカに留学中の私にサイン入りでその本を送ってくださり、代わって私は翌1975年1月19日付けで12枚もの遠慮のない感想文を送り返したのであった。そのコピーが、久々に手にした写真集の中から出てきた。大学出たてでナマ意気なことを言っているのが可笑しいので拾ってみる。
 「釈迦に説法の愚を犯すなら、戦争報道写真で勇名をはせたロバート・キャパは、よい戦場写真が撮りたければもう一歩対象に肉迫することだ、というようなことを確か述懐したハズですが、高野さんの場合は、アップの鳥を撮ったら、もう一歩二歩退いてもう一度狙え、とお薦めしたいです。対象の鳥から一歩一歩退くのは、少しでも近づいて撮ろうと鳥と駆け引きしながらにじり寄りたい高野さんのお気持ちに反することで、多分実際にもかなり難しいことです。ファインダーに見える鳥は小さくなっていく、邪魔な枝や草やらが画面に入ってきて、背景もうるさくなる、アップならさほど気にしない構図が格段に決めにくくなる・・・ しかし、これらを克服した時、高野さんの写真にまた別の世界が開けるような気がします。」

トキワサンザシの実をくわえたツグミ
撮影 高野伸二
2月
東京都日野

 35年以上も昔に書いた手紙とはいえ、なんとムリな注文をつけたことか。写真集を開いて最初にドカッと目にはいる「トキワサンザシの実をくわえたツグミ」。見開き一杯である。どうも、この写真をドアップの代表として、それが私の想定した高野さんらしい写真ではないのでやり玉にあげたコメントに違いない。なにもそんなに大きく撮ることもあるまい・・・ 6×6判で左右トリミングなしがご覧の写真であるから、原板でのツグミがいかに大きいかがお分かりでしょう。(上下は、写真集に載っているのよりも、微妙な違いですが私の気の済むトリミングにしてしまっています。)画面一杯のツグミはそれはそれで見応えがありスゴイのですが、長いレンズを持てば誰にでも撮れそうな写真にも思えるのです。それより、主役の棲む周辺環境をも写し込んだ私好みの生態写真を高野さんに勝手に期待した私のアメリカからの言い草ではあった。
 私の願いは届かず高野さんの“別の世界”は開かれず終いであった。

 高野さんの時代は、撮影機材、フィールド事情、撮影状況など、どれをとっても生態写真を撮るのが近年とくらべて格段に難しかった。いきおい、“少しでもアップ”で“よりピントのよい”鳥の写真を撮ることを、生態写真としてまず目指したところであった。その思いが作品に滲み出た写真が、この写真集でも随所でみられる。そんな高野スタイルの写真が、どれほど多くの生態写真家の卵に夢と目標を示し与え、いかに多くの野鳥ファンを魅了させたことか。

 高野さんには“遊び心”がついてまわる。お人柄であり、余裕である。アマチュア精神にあふれた、自然と野鳥を知るプロの野鳥生態写真家(多面的な高野さんの才能の一面にしか過ぎないが)である。
 思い出されるのは、高野さんはフィールドで鳥と語りつつ、ご自身楽しんで写真を撮っていたことである。相手も安心するのか、高野さんの写真には羽毛をふっくらとさせ可愛らしさを表現した鳥の写真が多く見られる。「あの枝に止まるよ」とか言いながらじっと待つ高野さんの気持ちを察したかのように、ちゃんとあの枝に小鳥が来て止まってくれる。そんな時シャッターを切る、得意げで満足そうな高野さんをみると、まさかと思っていた私まで嬉しくなるのだった。
 写真集のno.145「枯れ草にとまる迷鳥のサバクヒタキ」は、そんな風に撮られたのではあるまいかと想像している。サバクビタキの優しい雰囲気といい、全体の色調や構図といい、同じアップでも一味違う私のお気に入りの1枚である。

枯れ草にとまる迷鳥のサバクヒタキ
撮影 ◆ 高野伸二
2月
東京都板橋

 そのカラー写真をここにご紹介しようとしたら、なんとエクタクロームのカラーポジが退色していて、私のウデでは高野さんがうなづいてくれるレベルまでにはいかんとも復元できない。途方にくれた。「そうだっ!」一案が閃いた。私の気の向くままBPA流にカラーをモノクロ変換してみたのだ。「どうです、高野さん、“モノクロ”写真も結構カラーに負けずに“味”があるでしょ?!」 この1枚、今の私のPC術では最高のデキと自画自賛している。写真集がお手元にある方は、カラー版と見比べてみてみるのも一興かとお薦めしたいくらいである。

 そういえば『野の鳥の四季』が総てカラーである点が、モノクロファンとしての私の贅沢な“文句”ではある。同じ思いの向きには、高野さんのモノクロネガの総てがBPAに保存されている点をお見逃しなく(実は、保存活用してくださる方を探している、カラーポジの総て7,235枚も現在BPAが管理している)。なにかの機会をみてはご紹介させていただきたい。高野さんの初期からの写真を知る資料としても、BPAの高野コレクションは身の引き締まるほど貴重であると考えている。
 それにしては、高野さんの写真はまだほんの一部しかBPAのデータベースに登録されていないのが現状。頑張って膨大なモノクロネガをスキャニングし続けねばなるまい。野鳥生態写真のジャンルでその礎を築いた先達の作品をBPAの仕事としてばっちり後世に遺し伝えていく心意気に変わりはない。
 「高野さん、見守っていてくださいよ〜。」

2012 Jan. 堀内讃位の写真資料“追っかけ”クロニクル(2)

2011年12月14日
 これ以上はあり得ないことが確実となったこの日。堀内智實さんご自身が件の大著に載った写真のネガとプリントの総てを山階にご持参、無償でご寄贈くださった。有難いご決断。山階を代表して島津理事長との間で覚書が交わされたのである。いや〜、日本の伝統狩猟の歴史がモノクロ写真の形でしっかりと将来に受け継がれるこの時に私も立ち会わさせていただけたとは! かくしていろいろとご縁のある展開が一つにまとまって、堀内讃位写真資料の整理、保存、活用の責任は山階が担うことになった。
 歓談中に理事長は意外なことを指摘された。「ボクの親爺がこの本の写真に出ていまして、ね。」 狩猟官を兼務されておられたご厳父のお姿が、『写真記録 日本伝統狩猟法』で拝見できようとは思ってもみなかった。
 秋口から2011年末への急転直下の展開は、ちょっとした鶴見さんの発言がきっかけで、それを受けてフットワーク軽く動いた今井さんのまったくのお陰であった。“ちょっとしたきっかけ”を見逃さずに追っかけること、これぞ追っかけ根性と私自身に言い聞かせたのであった。
 野鳥関連の写真資料で重要なことの一つが、これにて一件落着。これまでの諸々の私なりの追っかけの経緯を思い起こすと、夢のようです。長い年月追っかけにご協力くださった皆さま、ほんとうに有難うございました。

 さっそく前回 (2011 Dec.) の続きです。堀内讃位(ほりうち さんみ、1903−1948)の写真資料の存在を探る当てのない旅がどうなっていくのか・・・。
 堀内讃位の『写真記録 日本伝統狩猟法』(株式会社出版科学総合研究所 1984)という知る人ぞ知る大著に掲載されているモノクロ写真は、堀内自身ライカを駆使して撮ったもの。そのネガやプリントは、果たしてどこかに現存しているものなのであろうか? このお宝級の写真文化遺産の行方を、バード・フォト・アーカイブスとしては何としても確かめておきたい。
 一昨年以来、わずかの手がかりが得られてはお宝発見への希望が見え隠れしてきたが、昨年秋口になってちょっとした情報から思ってもみなかった展開があった。今回はそこに至るまでの追っかけ記録の後半である。

2011年8月10日
 新しい情報がなんら得られないままに1年近くが経っていた。山階鳥類研究所での昼食事の雑談で、私はボヤキ半分、いつも頭の片隅から離れない堀内讃位の写真資料の一件を話題に持ちだしてみた。自然誌研究室長の鶴見みや古さんが反応した。
 「堀内讃位の写真を保管できるかどうか以前に山階(鳥類研究所)にも確か打診があったんですよ。」
 「えっ? なにそれ〜!」
 1995年に保管先を複数当たっていたらしいのである。ということは、1984年出版当時には整理されていたハズのネガやプリントが、どこかに存在しているに違いないことになる。私は少なからず動揺し鶴見さんにコトの顛末を迫った。記憶をたどっての情報ほどもどかしいものはないが、すばらしいことに鶴見さんの個人的な業務ノートにきちんとメモが残されていた。山階では、どう保管する用意があるか文書で答えて欲しいという先方の要求に写真管理の検討を進めたが、ややして件の本の監修をされた松山資郎さんから、「山階ではなくなった。お手数をかけて済みません」との連絡が入って、それきりとなった・・・。
 こんなすれ違いの大事が山階で起きていたとは。私が悔やんでも仕方のないほど10年一昔以上のことではある。しかし、しかしである。どこだか特定できないが、どこかの恐らくしかるべき団体が堀内讃位の写真資料を多分そっくり保管しているのではないだろうか?! 鶴見メモからは、そう推定するのが妥当であった。
 私はそれまでの追っかけに急に気抜けしたものを感じたのと同時に、あの重要な写真資料が無事にどこかに保管されていることに限りない安堵と喜びを覚えたのである。
 このビッグニュースを私はそれまで「さんみや」を中心に追っかけに加わって支援してくださった平岡さん、岡村さん、松田さんにさっそくご注進に及んだのは言うまでもない。
 松山さんに選ばれた意中の管理者はどこの誰なのか、わずかに残された問題はいずれ解決されることだろう。かくして私は、堀内讃位の追っかけに終止符が打たれたと思ったものだ。

2011年10月12日
 堀内讃位の追っかけが私の中では過去のものとなって、心穏やかに下村兼史写真資料の関連作業を続けていたこの日、山階鳥研に二人の来訪者があった。現代社会に埋もれてしまいそうな人と野鳥との関わり合いを映像に記録する2年プロジェクトのチーム代表今井友樹さんと、澤幡正範さん。共同研究者としてチームに加わっている山階の佐藤文男さんが、プロジェクトではモノクロ写真が絡むので私も興味があろうかとお二人を紹介してくださった。
 用向きは、なんと件の『写真記録 日本伝統狩猟法』に載っている写真をプロジェクトで活用したいので堀内讃位のご遺族にコンタクトできないものか、という私にはビックリな話。これまでの私の追っかけ経験をお話し、手がかりはわからないが、今現在資料を管理していると思われる団体なりを探りあてるのが早道かもしれないと結んだ。
 同席の鶴見さんからは、「松戸市の博物館でも確か伝統狩猟の展示をおこなったことがあり、そこの学芸員さんがなにかご存知かもしれない。」と頼りにしたいようで内容がはっきり見えないアドバイス。それでも今井さんさんは淡々と、「松戸市立博なら知り合いがいるので聞いてみます。」後に振り返れば、このやりとりが総てだった。
 情報交換はなんとも頼りないものではあったが、プロジェクトチームの追っかけボートに私も乗せていただければとお願いすることは忘れなかった。思いもかけずに追っかけ再開となってしまった。

2011年10月20日
 電話が鳴った。思ってもみなかった情報を今井さんから報告していただけた。松戸市立博で得られた情報とは、展示した写真はご子息の堀内智實という方からネガをプリントしたものを提供してもらったこと。ネガはご遺族がそれぞれもっていて、その一部を智實さんが保管されていること。智實さんとは勤務先の某出版社を通して連絡したこと。頼りなさそうに思えた鶴見発言から一転して期待のもてる展開に、私は驚きを隠せなかった。ただ、ネガがご遺族の間で分割保持されているのは、なんとも先行き不安を感じさせられた。なんとあろうとそこまで心配している場合ではあるまい。
 さっそく今井さんは出版社に問い合わせたら、智實さんは退職されていた・・・。ここまできて、なんたることだっ。でも、落胆を拾ってくれる神さまがいた。ご親切な出版社の方が智實さんに電話をつないでくれるという。それを頼りに今は智實さんからの連絡待ちだけど、もしもお会いできるとなったら私も同席してもらえるかとの、一気に明るい見通しとなってその日の電話は終わった。

2011年10月21日
 ついにその時がきた。今井さんが電話で堀内智實さんと直にお話されたという。一番肝心のネガは、一式まとめて智實さんが所有されているとのこと。「やったぁ!」目眩がしそうだった。待ちに待った貴重な情報だった。ここまでくれば、もう大丈夫・・・ いや、追っかけのスタートからこの数日の一喜一憂を思えば、まだまだ何が起きるか・・・

2011年11月9日
 「さんみや」縁の地、巣鴨の駅近くの喫茶店で堀内智實さんは待っていてくださった。長い間探していた方と相対して、私は年甲斐もなくいささか興奮していた。失礼のないように緊張もしていた。穏やかな口調で話される堀内さんにホッとした気持ちで、積年の想いが私の口をついて出た。
 『写真記録 日本伝統狩猟法』に載っているネガと出版用に吉田武士さんが焼付けられたキャビネサイズのプリントは、総て金庫に大切に保管されているとのこと!
 ネガにお酢のような臭いはしないので、一番心配されたその手のネガの劣化は進行していないようだ!
 一番気になっていたことが確かめられて、言い知れぬ安堵感とともにバード・フォト・アーカイブスの追っかけは一気にゴールへ駆け込んだ。いろいろの方にお世話になったものの、最後は今井さんのお陰に他ならなかった。
 今井さんご希望の堀内讃位資料のプロジェクトでの活用を快諾してくださったばかりではない。堀内さんは堀内讃位写真資料一式の保管依頼先を考え始めておられたところで山階鳥類研究所が候補だという願ってもないお話が伺えた。そういうことであれば、山階の客員研究員の立ち場でできればのお願いをその場でしたのであった。正直を言えば、私は内心ひょっとしてそういうことになればよいがと、お目にかかれるとわかった数日間、誠にムシの良い夢を抱いていたのだった。その夢でしかなかったことが、実現に近づいてきそうとは!

2011年11月16日
 山階鳥研が資料一式の寄贈先として相応しいかどうか現場をご覧になりご判断していただくことで、堀内讃位さんが来所された。下村兼史写真資料の保存状況などもご説明し、次回のご訪問には金庫にある現物をお持ちいただける運びとなった!のである。

堀内讃位のネガ/プリントを前に歓談する(左から)堀内智實さん、鶴見室長、島津理事長
Photo : Y. Tsukamoto
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