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2016 DEC.
「第14図 アホウドリと其卵」
撮影者 ◆ "豐島恕清氏原図"(下記本文参照)
[籾山徳太郎がタイトル不明の雑誌に著した
「小笠原紀行」のコピーより複写転載]

撮影者が判明し難い写真 (�V)−2

「小笠原島の動植物」(1933年 アルス)に載っているアホウドリの写真――下村兼史が撮影したと自著のキャプションで認めているのに、そこに疑問の余地が生じると、ほんとうに困るのである。首をひねりながら検討を続けるしかない。果たして霧が晴れるような新事実は見つかるのであろうか・・・。

もう一人の撮影者?

資料探しは続けられた。件のアホウドリの写真が載っている文献が、2点見つかったのである。
�@ 「今月の1枚」の右の写真は左右反転してはいるものの、先月で紹介した下村兼史の撮ったアホウドリとまったく同じ写真が、タイトル不詳の雑誌(Vol.�U, No.3-5:111-129. Dec.1934. 山階鳥類研究所所蔵の「籾山論著集」第四輯、コピー判)の中で、鳥類学者の籾山徳太郎が著した「小笠原紀行」のp.119 に掲載されていた。
  ご覧の通り、「第14図 アホウドリと其卵」のキャプションと共に、「豐島恕清氏原図」とあるではないか。 豐島恕清なる人物が撮影したのか?!・・・
  ここは冷静でなければならない。“○○原図”とはどうも解釈がいくつかあるようで、古い文献に載っている“原図”には注意が要る。このキャプションでも「豐島氏が“所有している”写真」と解釈されて使われ、必ずしも撮影者を示していないかも知れないからだ。
  ところが、文中には小笠原島で別の年に兼史が撮った11枚の写真が載っている。いずれも「下村兼二氏原図」となっている。もしもアホウドリが兼史によって撮影されたとしたなら、何故アホウドリだけが「下村兼二氏原図」ではなく「豐島恕清氏原図」なのであろうか?

�A トリミングが件の写真とやや異なってはいるがやはり左右反転していて、まったく同じアホウドリの写真は、倉田洋二編「写真帳 小笠原 発見から戦前まで」(1983年 アボック社)のp.197 にも載っていたのである。キャプションは「北之島のアホウドリの営巣。島人はシロブと呼ぶ。」とだけで、撮影年や撮影者の記述はない。
  このキャプションを素直に読めば、北之島に上陸した記録が確認できていない下村兼史の撮影ではない可能性がでてくる。

小笠原島で情報を探れ

さて、先月のこのページで、「下村兼史がアホウドリの繁殖する島に上陸したと思われる記録は、現在のところみつかっていない」といえるところまできた。今月では、同じアホウドリの写真が他の文献にも載っていて、そこに下村ではない別の撮影者と思われる豐島恕清の名が発見されたのである。
  となると、「豐島恕清営林署長」がどんな人物なのか、また小笠原での下村兼史のさらなる足跡情報、特に豐島との出合いがあったのかを追ってみる必要がでてきた。
  豐島撮影に関しては、�@籾山の紀行文中には同行した蜂須賀正氏や籾山自身が撮った写真が数点「原図」として載っているのに、案内役の地元営林署長の写真がアホウドリ以外には載っていない。署長はそもそも写真を撮っていたのかという素朴な疑問も確かめたい。
  地元でなければ解明しそうもない新たな課題をクリアーしなければならなくなった。

  私が一度だけ小笠原島を訪ねたその昔は、当時の小笠原丸で確か40数時間の船旅であった。今さら訪ねて現地で情報を集めたくとも、小笠原島は遠い。そこで、小笠原教育委員会宛てに質問の手紙を送ってみた。ナシの礫であった。
  ふと思いついたのは、�A「写真帳 小笠原 発見から戦前まで」編者の倉田洋二先生にお訊きすれば、なにかわかるかも知れない。先生はどこに?

  確かパラオにおられると聞いたが連絡とれるかどうかも解らないとの、小笠原の鳥友からの心細い返事。藁をも掴めで、教えられた宛先に手紙を送ってみたのだった。 2009年9月20日、手紙に応えて倉田先生から電話が入った。
  件のアホウドリの写真を「写真帳」に載せた経緯や撮影データに関しての詳細ははっきりしなかったものの、元小笠原営林署長の豐島恕清なる人物を調べていただくお願いをしたのでした。
  私ですらとっくに忘れていたところに、2016年10月25日、突然として倉田先生からのお電話。なんと7年前の私の質問に対して、その後の調査結果を知らせてくださったものだった。
  「小笠原島で豐島営林署長のご遺族ともお会いしたけれども、アホウドリの写真に関することはダメだった。署長の部下で可愛がられ、一番頼りにしていたキクチミツルという人が死んじゃっていて。亡くなった時に遺品の中になにかないかと調べたが、こちらもダメだった」とのこと。結局この件はこれ以上調べようがないと、わざわざ電話してくださったのだ。
  いかにも昔のこと、当時の事情を知っている人が存命ではないのも致し方ない。地元で資料がみつかるアテもなくなったようだ。現状、万事窮した感は否めなかった。

私の判断は・・・

疑問の余地を残しながらも、これまでに述べた経緯から、「今月の1枚」の右の1羽のアホウドリの撮影データを纏めると:
  撮影年:前回述べた通り、1933年7月以前の撮影。恐らく1932年12月までのいずれかの年の産卵期に撮られたものとなる。

  撮影地:前回と異なって、鳥島ではなく、関連する情報からの推測ではあるが、北之島が有力候補と思われる。

  撮影者:下村兼史を否定できる確証はないものの、当時の豐島恕清小笠原営林署長の撮影説をさらに追跡してみる必要が浮上している。

  1枚の写真にかけた年月をよそに、撮影データの確定はできないままなのである。

[謝辞:前回と今回の原稿を書くに当たって、特に園部企画の園部浩一郎さんに多くの資料の探索とご提供、貴重なアドバイスをいただいた。ここに厚くお礼申し上げます]

2016 NOV.
アホウドリ
撮影者 ◆ K. Shimomura下村兼史?!(下記本文参照)
[下村兼二著 「小笠原島の動植物」より転載]

撮影者が判明し難い写真 (�V)−1

一つの真実を求めて、アーカイブス写真の撮影データの特定作業は、さらに続く。撮影者自身が撮影したことを認めているのに、そこに疑問の余地が生じた事例がある。撮影者が日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903-1967)とあっては、下村ファンの私は余計に困惑させられる。首をひねりながら解決の鍵を探るしかない。またしても、手探りの資料捜しだ。資料が見つかるアテのある限りは・・・。

下村兼史が撮った営巣地でのアホウドリ

「今月の1枚」は、卵の傍にいるアホウドリの写真である。私の知る限り、この写真の原板もプリントもその所在が不明なので、下記の�@よりの転載である。この写真は、兼史自身の3著作に掲載されている。
�@ 下村兼二 「小笠原島の動植物」(1933年 アルス)の写真40.では、ご覧の通り「アハウドリ Diomedea albatrus Pallas (K. Shimomura, Photo)」と、撮影者が明記されている。

�A 石澤健夫・下村兼二 「原色野鳥図」下巻 (1937年 三省堂)のp.162 に「アハウドリと其の巣(鳥島)」と、撮影地が明らかである。

�B 下村兼史 「原色狩猟鳥獣図鑑」(1965年 誠文堂新光社)のp.254 に「アホウドリ K. SHIMOMURA」と、再び撮影者が載っているのだ。

肝心の撮影データは――

撮影年月: �@が出版された1933年7月以前の撮影である。卵が写っているから、在る年の繁殖期でなければならない。アホウドリの産卵期は11-12月頃なので、ほぼこの期間の撮影となる。ここまでは確かなこと。

  撮影者:ご本人がキャプションに書いているのであるから、別なKさんでない限り、Shimomuraは下村兼史であろう。

  撮影地: �Aから鳥島である。
  鳥島といえば、今日ではアホウドリの主要な繁殖地である伊豆諸島の鳥島をまず思い浮かべる。しかし、鳥島は「海鳥がたくさんいる島は、みな“鳥島”になる」(倉田洋二氏談)との地方の習わしを思えば、兼史がどこの“鳥島”で撮影したのかは、改めての検討でひとまず注意する必要があろう。現に小笠原諸島にも聟島の西隣に「鳥島」と地図(グーグルマップ)にある。

  私は、1933年に発表されて以来30余年の間に著書が3回掲載したこの写真が、「撮影者は下村兼史で(伊豆諸島の)鳥島で撮られた写真」だとばかり思って、数十年間も疑わなかった。

山階鳥類研究所所蔵の資料で撮影データ探し

2005年から4年間、山階鳥類研究所で下村兼史写真資料の整理保存作業をしていた際、問題のアホウドリの原板やプリントが見つかるかもしれないと私は期待した。それは期待だけに終わり、件の写真の撮影データに関するなんらの情報も得られなかった。私は、“下村兼史の謎の写真”の1枚に加え、いつか謎が解明される日を待っている。
  兼史自身に関する資料や撮影データは極めて少なく、あっても断片的であることを知れば、資料が見つからないからといってコトを諦めてはいけないのは承知しているのだが・・・。どうも謎は深そうだ。

大それた疑問――兼史はアホウドリの島に上陸したことがあるのか?

兼史の写真を追い著作に目を通すうちに、疑問がつのってきた。件の写真は文献に存在するのだけれども、果たして兼史は生涯でアホウドリを撮ったことがあるのだろうか?
  1929年2月にはまだ約1500羽が鳥島にいた(山階芳麿 1931. 鳥島紀行. 鳥 7(31):8)。同じ頃下村が鳥島のコロニーを訪ねていたにしては、たった1枚の写真しか残されていないのも気になってきた。
  兼史の年譜を作成するため資料を集めている今現在、私は兼史の撮影歴訪地を年代順に追い、アホウドリの繁殖する島へ上陸したことがあるかどうかに改めて注目した。

  1932年12月にチーフー丸で小笠原島へ向かっていた兼史は、アホウドリの撮影に強い期待を抱いていたことがわかったのである。
  下村兼史著「北の鳥南の鳥」(1936年 三省堂)のp.200には「午後六時に鳥島着。天候良しからず、船長上陸を促さず、帰航を期待して上陸は断念した。荒れ気味の暗をついて直に出船。(十二月四日)」

  小笠原島父島から北へ向かい、聟島列島の北之島への上陸を諦めた記述は、pp.206-207にある。「この天候では到底駄目ですよと云われて私はがっかりした。・・・数組のアハウドリの白い姿が、之も僅かなクロアシの中に混ってポツポツと泡つぶのやうに見える。(聟島から北之島が)眼前に見えてゐてその場へ行けぬのは一入の口惜しさである。(十二月十七日)」

  そしてp.208で、期待の帰航は「正午過ぎ、鳥島に着いたが、風雨の為め遂に上陸は断念する。噴火して未だ時経ぬ此島は、灰黒色の地肌をその儘に、山上に重く垂れた雨雲と和して凄惨な気持ちさへする。出帆後烈風益々加はる。(十二月二十一日)」

  同書のp.219に改めて、「私は不幸にして、(伊豆諸島の)鳥島への二度の機会も(悪天候で)上陸出来ず、小笠原列島の北之島では(強風雨の聟島から)遙かにシロブ(アホウドリ)、クロブ(クロアシアホウドリ)の姿を見ただけで、その巣を親しく見ることが出来なかった。」と無念さを滲ませて明記している。

  翌1933年4-5月に小笠原島を再訪しているが、アホウドリの抱卵期には遅すぎる。巣立ち前の雛の写真でも撮ればよいのにとは思うのだが、そんな写真も見つからなければアホウドリに関するなんらの記述もみあたらなかった。

新たな課題――あのアホウドリを撮ったのは誰か?

問題のアホウドリの写真は、1933年7月に刊行された「小笠原島の動植物」に掲載されているので、兼史が撮っていたとするなら、恐らく兼史が初めて繁殖地の島に近づけた1932年12月の小笠原島訪問の際でなければならない。しかし、鳥島にも北之島にも上陸はできず、「その巣を親しく見ることが出来なかった」のだ。兼史が撮影したと認めるのには、いかにもムリがありはしまいか?
  では、誰が撮ったというのであろうか?(続く)

2016 OCT.
カンムリウミスズメの繁殖地・三本岳
撮影者 ◆ (下記本文参照)
1934年5月11日
東京都三宅島
写真資料提供:山階鳥類研究所


撮影者が判明し難い写真(�U)

一つの真実を求めて、アーカイブス写真の撮影データの特定作業は続けられる。データの中でも最も必須項目である撮影者が特定し得ないのでは、特にそれが日本の生態写真の重鎮に関わる写真となると、なんとかしたいものとアテのない資料捜しの旅にでる。
  嗅ぎ出した乏しい資料に基づいての特定作業には、多少とも推察の要素は避け得ない。時に直感も要る。一歩一歩事実へと近づくのだ。

  「今月の1枚」は、三宅島から望見できる海上に槍の穂先のように屹立する偉大な玄武岩の塊、三本岳(三本槍)の最大主峰の岩礁海岸部である。岩の隙間がカンムリウミスズメの営巣場所となる。よもやと思われる岩礁に立つ鳥居に黙礼し意を決しても、よほど波静かでないと足場のない巨岩の海岸にとっつくのは不可能である。
  1934年5月11日、撮影のため上陸を敢行したのが、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903-1967)と、下村に影響され撮影技術を教わりもして生態写真を撮った鳥類学者の清棲幸保(1901−1975)。
  「今月の1枚」は、三宅島で撮られた2例を含めて、それらの写真の撮影者の特定を試みる。

文献に拠る撮影者 下村vs.清棲

2005年から4年かけて実施された山階鳥類研究所所蔵の下村兼史資料の保存整理作業中に、明らかに下村以外の人が撮ったプリントが資料に紛れていることが何枚もあった。下村と清棲が連れだって撮影していたことがあるだけに、下村のプリント群の中に清棲のものが見つかっても不思議はないのである。
  「今月の1枚」のように、どちらが撮ったのか判断に迷うのがみつかると、それは頭痛の種となる。三本岳と三宅島での “酷似した写真”の三事例とは:

(1)「今月の1枚」の「カンムリウミスズメの繁殖地」。清棲の「日本鳥類大図鑑 �V」 (1952年 大日本雄辯会講談社、東京)の写真no.600 では、撮影データに撮影者名が載っていない。従って、清棲自身が撮ったものと読める。他人の写真を同書に載せた場合には、クレジットが丹念に明記されているからだ。
  一方、下村の「北の鳥南の鳥」(1936年 三省堂、東京)p.152に、岩礁に砕ける白波までそっくりな、構図もなにも清棲のと同じ「三本岳」が載っている。この本には下村の撮影した北は北千島から南は奄美大島まで全国の写真71枚が挿図されている。三本岳の写真も下村が撮影したと考えるのが妥当であろう。
  どうみても同じ写真に撮影者が二人いるのは、困るのである。

(2)三宅島で撮られた「ウチヤマシマセンニュウ」。「日本鳥類大図鑑 �T」の写真no.176 と「北の鳥南の鳥」p.137 の写真も、カットはやや異なるが、鳥のポーズや背景の影までそっくりである。

(3)三宅島での「ウチヤマセンニュウ、イイジマムシクイの繁殖地」(下村のタイトルは「海岸の竹林」)。多少のトリミングの違いこそあれ、まったく同じ写真が、前者のno.174と後者のp.137に載っている。

事実を語る資料

山階所蔵の下村兼史資料の中に(1)の写真の原板がみつかった。下村撮影と期待される。そう思いたい。かといってその段階では 、清棲が撮った原板が紛れ込んでいる可能性は、否定し得ない。
  幸いその乾板には、他の多くの下村撮影の原板のように、メモが書き込まれていた。「今月の1枚」の右隅にある、反転してみると“e,1.”と読めるものである。
  メモの解読は今後の解析をまたねばならないが、“e,1.”の“e”は、離島で撮られた原板につけられているようだ。清棲が訪ねたことのない樺太やエトロフ島などの原板にも“e”のメモ書きがみられた。私は“e”の乾板は“下村が離島で撮影したもの”と推測するに至った。“e,1. ”は三本岳に始まり、三宅島は“e,29”までが確認できた。恐らく下村は、三宅島への撮影行で29枚の乾板を撮り残したことになる。
  下村撮影かどうかも分からないプリントは原則として疑わしきは罰せず、下村兼史に割り当てたID番号で整理していたので、乾板“e,1.”もひとまず下村兼史資料とみなした。ID番号: AVSK_DM_0134 (山階視聴覚資料の下村兼史_乾板_第134番)を付したのである。
  同様に、(2)の乾板“e,20”には、AVSK_DM_0140。(3)の“e,19”には、AVSK_DM_0131 とした。

[これらの画像に興味を持たれる方は、サムネイルながら、以下の報文付表1(CD)でID番号から画像をご参照ください:塚本洋三・廣田美枝・平岡 考・吉田 成・鶴見みや古 2010. 野鳥生態写真の先駆者 下村兼史資料の整理保存. 山階鳥類学雑誌 41: 185-199, plates 1-2 + CD.]

さらなる推察を加えてみて

往時は著作権に対する意識も実際も今日とはかなり違っていたようで、まったくの想像であるが、「コレ使わせてもらえる:ああ、いいですよ」といったレベルのやりとりが、親しかった下村と清棲の間で行われても不思議はなかったと推察できる。
  そうして清棲が下村の写真を自身の著書に載せたとしても、真摯に撮影データを扱う清棲が、なぜ三宅島のこれらの写真に限りそろって「下村兼史氏撮影」のクレジットを載せなかったのであろうかとの疑念が残る。
  やはり、清棲は清棲で、下村は下村で、いずれの写真も自身が撮影したと主張しているのであろうか? その場合、瓜二つの写真は、(1)はトビウオ漁の小さな発動機船に乗った清棲と下村が舷側から、(2)と(3)は三宅島で二人が文字通り肩と肩をならべながら、それぞれのカメラのファインダーを覗き同じ構図で、まさに同時にシャッターを切った偶然の産物と認めなければなるまい。
  清棲も撮影したのなら、どこかに死蔵されているかも知れない清棲自身が撮った原板が発見される必要がある。
  どちらも至難に思える。

私の判断 「撮影 下村兼史」

上述のCDでは、文献に載っている事実として両者の撮影者名が出典とともに併記されている。
  「今月の1枚」では、清棲が下村のクレジットを載せなかった理由は闇の中と認めつつも、清棲が「日本鳥類大図鑑」に載せた(1)〜(3)の写真は、“e,1.”を一番の根拠に下村の乾板から得られたものと判断するのが、事実により近いものと私は考えるのである。

●(公財)山階鳥類研究所は、2018年秋に都内で下村兼史の写真展を主催します。
写真展および同研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問 お問い合せは、
写真展実行委員会事務局および同研究所の下村写真資料提供窓口となっている
(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
〒111-0052 東京都台東区柳橋 2-1-9-901 (有)バード・フォト・アーカイブス内
tel & fax:03-3866-6763
mail:info@bird-photo.co.jp(@を半角に直して送信してください)
URL:http://www.bird-photo.co.jp/
2016 SEPT.
柿にメジロ
撮影 ◆ ��野伸二
1950年代後半
東京都新宿区

撮影者が判明し難い写真(�T)

澄みわたる空。藁葺き農家の庭先の柿の木。柿色の花が咲いたかのようにたわわに実る柿。昔の人たちは、そんな柿の実のすべてを収穫せず、一部を旅人や野の鳥たちのために、木なりのままにしておいたと聞く。その熟し柿が好物の鳥たちは、少なくない。関東なら、シジュウカラ、メジロ、ヒヨドリ、ウグイス、ムクドリ、ツグミ、スズメ、オナガなど。
  「今月の1枚」の主役は、柿の実狙いのメジロ。次々と柿の実を訪れる鳥たちを待つのが、野鳥生態写真家でも知られた��野伸二さん(1926-1984)。��野さんが東京の四谷に住んでおられた頃、玄関先に小さなブラインドを張って、やって来る鳥たちをカメラで狙っていた。そして、高校生だった私は、そのブラインドで鳥の写真を撮らせてもらえるチャンスをうかがっていた。

どちらが撮った写真か?

それから数十年も経って、柿の実狙いの鳥たちを撮った写真に思わないことが起きた。��野さん遺作のキャビネ大のプリントの束を整理していた時だった。柿の実を食べる鳥たちの懐かしい写真の中に、どうみても私が撮ったと思えるウグイスのプリントが見つかったのである。
  当時、こんなのが撮れたとお互いにプリントを見較べては自画自賛していたので、私のが高野さんの写真に紛れていても不思議はなかった。同じブラインドの小窓から同じ柿の実を食べにくる近所の鳥を撮り、東京駅前の同じDPE店で引き伸ばされた写真なのであるから、見た感じが似ているのにも不思議はない。
  そんな写真を見て、高野さんが撮ったのか、私のか? 撮った私が私の写真と思うのであるが、薄れた記憶も手伝って、ほんとに?と自問すると自信が持てないほど似てくる。極楽浄土の��野さんにメールは届かないので、いずれ私の古いネガを引っ張りだしてシロクロをつけるとしよう。

  「今月の1枚」は、メジロの2羽を絶妙なポーズの組合わせで捉えた確かに��野さんの撮影である。初めて手に入れたアサヒフレックスに当時人もうらやむ望遠レンズの出色の135mmで撮ったもので、��野さんの生態写真歴での初期の写真である。

撮影データが特定されるまでは

��野さんと私なら、似ている私の写真が間違えてもらえれば有り難いくらいで笑って過ぎる。第一線の生態写真家のものとなると、撮影者が特定できなくては、アーカイブス写真の撮影データを記録して残す立場としては一大事である。 中には、“勘違い”や見栄っ張り?のなせる技なのか、あたかも自分が撮ったものとして発表している“撮影者”にでっくわすことがある。あり得ないように思えることが、著作権の意識が希薄だった時代の古い生態写真には、それが起きるのだ。
  撮影者を特定するのが興味津々な謎解きであるにしても、事実が判断できる資料を探し出して確かめるのが、しばしば大変な作業になる。私がもっともエネルギーを使った例は、1930年代初めにトキの胃内容物の写真を撮った人物の特定であった。興味を持たれる方は、コーヒーカップかウイスキーグラスでも片手にこちらをクリックしていただければと思う。

  アーカイブス級写真にみられる不十分な、或いは明らかに間違っている撮影データは、できるだけ確かめておきたい。しばしば思いつきの推理や雲を掴むような調査の連続であるが、それでもまず解決への鍵と思えそうな「点」を見つけだし、「点」と「点」を繋いだ「線」が太くなり、その間に推測や直感も見方につけ、ついに根拠を固めて答えが見えてきたときは、快感の一字である。そんな撮影データの特定作業は、まさに“味なもの”。誰かがやっていくべきである。一つだけ存在する真実を求めて。

2016 AUG.
背筋に寒気を呼ぶ: これでも吊り橋なのだ!
写真提供 ◆ 鈴木邦彦
1952年7月23日
富山県黒部川

暑中のお見舞いに

夏にはなるべく涼しそうな雰囲気の写真を選ぶよう心掛けてはいる。猛暑に写真を見ただけで涼しげになろうとはムシが良すぎるというものの、「今月の1枚」をご覧ください。急流の上に架かっていて頼りなさそうなもの、人が渡っているから吊り橋とわかる。眺め直してご想像ください。
  恐怖感が頂点となってくる、行くも返すもならないあたりで渡っている人が、この写真をバード・フォト・アーカイブスにご提供くださった鈴木邦彦さん。送られてきた写真説明以上に迫力あるリライトが可能な能力を、私は持ち合わせません。お許しを得て、ご本人の説明文を原文のまま次に引用させていただきます。

鈴木さんの心境や・・・

『これは、昭和27年 (1952) の写真ですが、大町の西、後立山の南端に 針の木岳と言ふ山があって、その大町側に針ノ木峠、それを越すと黒部川の側に降りられました。 それで出逢ふ黒部川に 針金と薪ざっぽうで出来た吊り橋がありました。 そこを「平の渡し」 と称して、僕が日本を出る頃までは、あの近所で黒部川を立山の側へ越す、唯一の場所でした。
  恐ろしい吊り橋で 勿論1人づつしか渡れない、ご覧のやうに、万一、橋が壊れたり、足を踏み外したりして、落っこちたら一巻の終り、でした。
  この写真で、対岸が五色が原 (立山)側、こちら側が 針の木 (大町) 側、渡ってゐるのは僕です。 この辺りは、今は完全にダムの底、話によると 遊覧船みたいな船で反対側へ渡れるとのことです。 僕は黒部ダムを見たことが無いのですが、見たいとも思ひません。』

百聞は一見にしかず

写真は、鈴木さんが東大生教養2年の夏休みに、植物の先生と「植物採集」に名を借りて遊びに行った時のことだそうだ。私にも、一人一人渡る吊り橋で足下がすくんだ遠い思い出はある。渡るときの恐ろしさはさておき、事故が起きたら責任の所在はどこに?などと言ってもいられない、そんな吊り橋が昔は現に存在していたことに、改めて感心しています。
  かつては日常でこんな命がけの吊り橋があったのでした。

BPAフォトグラファーズ ティータイム:鈴木邦彦さん

「今月の1枚」が撮られた2年後の1954年3月21日、日本野鳥の会東京支部再発足第一回会合の記念集合写真に、詰め襟姿の中学生だった私が大学生の鈴木さんと共に写っている。いや、大昔の話。
  その懐かしい写真は、アノ吊り橋がまだ黒部川に架かっていた1960年に鈴木さんが渡米され、48年を経て2008年に帰国された後に、もろもろのアーカイブス級写真と共にバード・フォト・アーカイブスにご提供いただいた貴重な写真の中の1枚である。ご縁とは有り難きもの。
  大学を1962年に卒業し追っかけ渡米した私は、大学院生活をミシガン大学で送っていた。語学不足で授業もペーパーも期末テストもアップアプの日々、先に渡米された鈴木さんが陸続きにおられることなどは、まったく失念していたのであった。アメリカで共にバードウオッチングのひとときが持てなかったことを、いまだに悔やんでいるのです。
  鈴木さんが帰国されたのを知ったのは、2008年に日本学士院会員となられたときの新聞報道でした。米国ノースカロライナ大学神経内科・精神科名誉教授、同大学神経科学研究センター名誉センター長とあったのです。小柄で笑顔の似合う鳥好きの山男。私にはそれだけの印象しかなかったので、ご専門が知れて感銘深いものがありました。
  どんなに偉くなられても歳月が過ぎようとも、バードウオッチングのご縁は途切れないのが有り難くも嬉しいところ。鈴木さんがとある野鳥写真展をご覧になられたのがきっかけで、2011年6月6日に半世紀余ぶりに電話でお話できたのでした。
  私自身が後期高齢者に近づいていたのに、昔ながらに“洋ちゃん”と呼んでくださる間柄に、身分の違いや時の隔たりは感じられなかったのでした。二人して超ご無沙汰を一気に飛び越えていたのです。

年をとっても 鳥仲間は鳥仲間

それなら鈴木邦彦さんを知る鳥見人OB会を開こうということになった。その年7月2日上野池之端の料理屋に集まったのは、その時すでに引退気味のかつての古強者たち。お名前を勝手にここに列記してもお困りになるような軟弱な方々ではあるまいとの、私の判断。「もう、とっくに死んだと思ってた人がまだ生きてたんだ、なんて気付く人がゐるかも?」とは、鈴木さんからのアドバイス。出席者は、岡田泰明、笹川昭雄、志水清孝、鈴木邦彦、鈴木孝夫、中坪禮治の諸氏、それに私の7人。平均年齢79.40歳。侃々諤々、昔話に終始したのは歴史的な出来事?であった。
  半世紀ぶりの再会を果たした面々のボルテージは上がりっぱなしで、どうして文字にして残すのが憚れるような古(いにしえ)の“秘話裏話”が続出。中西悟堂先生の話題も例外ではなかったほど。
  「ボクは録音されて困るようなことは喋らないから」とかのご発言もどこへやら、この機に話さずにはいられようかとばかりの会話の総てが録音されたハズでした。ところが、張り切ってテレコを新調しボランティアした録音係の“キヨタカ”(私の高校生の同級で以来鳥仲間の慶大名誉教授。共に“若輩モノ”で当日の幹事役であった)が最新のデジタルなメカに追いつけず、パソコンで再生するあたりで気がついたら消去していて、一巻の終わり。
  とばかり、今日の今まで私は思い込んでいた。なんと、3時間5分余の録音コピーが鈴木さんのコンピューターになぜか保存されていることが、はからずも判明。このあたりは、鈴木さんの記録保存の完璧癖、なんでも“とっとく魔”の一端がよくわかる一事ではあった。
  この記念録音は、存在することに意義アリということになりましょう。出席者にはアノ日の語らいが脳裏に焼きつけられ、生涯の型破りな思い出となっているに違いありません。

限りなき知力体力

医者にはなぜか多才多趣味な方をお見受けするが、鈴木さんもその例にもれず、学生時代には東大医学部の山岳部に所属しておられた。84歳の今でも、ご自宅のマンション31階まで階段を登って山歩きのトレーニングをされているとか。今年の1月には、ニュージーランド南島の南端、「世界で最も美しい散策路」などと評されるミルフォードトラックのトレッキングに出かけられたと聞かされた。トシを考慮してこれ以上待ったら時間切れになるからと殊勝な決心?で行かれたそのトレッキングは、なんとトータル55キロで山道を4日で完歩したとのこと。拙宅のある9階までエレベーターを使ってラクをし、近所を運動がてらたまに1万歩ほど歩いて得意ヅラをしているず〜っと年下の私は、どうしたらよいというのだっ・・・。
  バードウオッチングや写真など自然相手の活動は登山と共にとは言いようであるが、他に能楽、現代音楽、文学など、どこから時間を作って楽しんでおられるのか、私にはまったく理解しかねている。
  鈴木さんは超人なのである。

最近感激したこと

「今月の1枚」に関連して、その同じ写真と鈴木さんの一文が「信濃木崎夏期大学百年誌」(同誌編纂委員会(編) 2016年8月 北安曇教育会 (非売品))に載っていると、ご一報いただいた。お陰さまで私は図らずも、長野は木崎湖畔で戦時中も一度も中断することなく今年で100年を迎えた信濃木崎夏期大学なるものの存在を知ったのであった。
  畳敷きの大広間で講義された鈴木さんの言葉をお借りすれば、同大学では「学び」の本質を追い求め、単に「役に立つこと、得になること」ではなく、損得を度外視した「何か新しいことを学びたい」という熱気に溢れているそうです。そこに私は、日本の将来社会や自然環境の保全に希望のような清々しいものを感じたのです。久しく巡り会わなかった少なからぬ感動でした。
  バード・フォト・アーカイブスの話題からはかけ離れましたが、100年も続くそのような大学があることを、鈴木さんのお陰で知ったことをお伝えしたかったのでした。

ご縁は続く

鈴木さん、私は鈴木さんから得るものばかりで何もお返しできませんが、戦争体験から日本社会の現状をみてその将来を案じられる鈴木さんのお考えには、密かに拍手を送っています。ご経験やお考になるところを、実直で明瞭に表現される<旧仮名遣ひの>文章で纏め、後世に繋いでいかれることを願ってやみません。
  古い写真でも、“とっとく魔”の鈴木さん、さすが肝心のデータがきっちり記録され、きちんと整理保存されていて、感激ものです。アーカイブス写真のさらなるご提供も、厚かましくどうぞよろしくお願いいたします。

  今では平均年齢80歳超の“七人の鳥侍”、どなたも簡単にはくたばらないと思いますので、また鳥見人OB会で集いましょう!

2016 JULY
オオコノハズクの幼鳥
撮影 ◆ 下村兼史
1931年以前
富士山麓須走
写真資料提供:山階鳥類研究所


鳥の表情を写し撮る

「今月の1枚」は、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903−1967)が撮ったオオコノハズクの幼鳥である。写真をみただけでは、もしもカラーであれば昨日撮ったと言われても信じてしまうほど。モノクロだから古そうだという以外に時代性が感じられないのは、アーカイブス的な視点で残念ではある。
  山階鳥類研究所に収蔵されているこの写真の原板をみると、手札判のガラス乾板(ID番号 AVSK_DM_0794)が使われていた。このことからまず時代がかなり古そうだと知れる。(ガラス乾板とは、ネガのイメージを得るための、ガラス板に感光乳剤が塗られていたもので、デジカメのメモリーカードの前のフィルムのそれ以前に存在し、下村は1920年代から30年代初めにかけて使っていた。)

撮影年と撮影場所は?

下村作品の多くがそうであるように、このオオコノズクの撮影データも残されていない。状況証拠から推察してみるしかない。
  「今月の1枚」と同じ写真が、下村兼二著「野の鳥の生活」p.126 に載っている。この書は、金星堂から1931年5月に印刷発行されているので、それ以前の撮影とみられる。つまり、今から85年より以前に!撮られたことになる。
  因みに、野鳥の生態を下村自身の野外観察や撮影経験を主にして著されているこの書であるが、今日の野鳥生態の知見から振り返って当時を読むと、さらに興味深い内容であることに気づく。生憎、古本市場にめったに出てはこない。

  撮影場所は、「今月の1枚」とまったく同じ構図で顔がちょっとだけ右を見ている瓜二つな写真が、「鳥類生態写真集」第二輯(三省堂 1931年)の第53図に載っている。この写真集に収録された写真58枚は、富士山麓須走付近で撮られている(同書の序および凡例参照)。従って、件のオオコノハズクも下村が須走付近で撮影したとみてよかろう。

表情豊かな?オオコノハズク

さて、この巣立ちしたムクムクのオオコノハズクであるが、フクロウファンの私としては、顔の表情に惹かれるのである。眼がなにかを訴えているかのようで、オオコノハ君の意志が感じられるのだ。
  「今月の1枚」と、カメラの位置を変えずにシャッターが切られた別の1枚、上記第53図とを見比べると、表情の違いが読める。恐らくほとんど撮影条件の変わらない同じ鳥を続けて撮ったのであろうが、第53図のオオコノハズクは多くの鳥に共通するどちらかというと無表情な顔をしている。
  主観の問題といってしまえばそうなのであるが、写真の魅力としては“眼にモノ言わせて”いる「今月の1枚」を、私は推したい。

  撮影者下村兼史が、極めて似ている2枚の写真を選ぶに際して、どんな思いを抱いたものか、誠に勝手に推察してみた。
  無表情に見えるオオコノハズクの写真を下村が第53図に選らんだのは、“コノ1枚”を選ぶのであるなら、こちらの方が代表作に相応しいと思ってのことであろう。「今月の1枚」の方は、「野の鳥の生活」の挿図に小さく載っているだけなのだ。主役と誰でもよい脇役ほどの違いが感じられる扱いである。
  あるいは、どちらの書も同じ1931年5月の印刷発行であるが故に、なにか物理的な制約があってそれぞれに違う写真がたまたま選ばれたのであろうか? 
  私は、畏れ多くも大それた想像をしてみたのである。さすがの下村も2枚に優劣をつけがたく、さりとてオオコノハズクの表情まで読んで選ぶことはしなかったのではあるまいかと。

  鳥の表情までを写真表現する。これは、下村兼史のみならず、いつの時代でも挑戦であろう。

●(公財)山階鳥類研究所は、2018年秋に都内で下村兼史の写真展を主催します。
写真展および同研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問 お問い合せは、
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2016 JUNE
在りし日の鷺山
撮影 ◆ 今野紀昭
1960年5月初旬
埼玉県野田鷺山

静寂な鷺山は なにを語る

かつて埼玉県野田の鷺山には、チュウダイサギ(コモモジロとも呼んだ、今日でいうダイサギ)、チュウサギ、コサギ、アマサギ、ゴイサギの5種の夥しい数の鷺が、隣接する5軒の農家の屋敷林で繁殖していた。約3haの竹藪と林のコロニーに身を置くと、鷺たちの鳴き叫ぶ声、降ってくる糞、鼻をつく悪臭。それらにちょっと耐えてみると、乱舞する鷺たち、ディスプレーするもの、卵を抱くもの、雛を育てる親、喧嘩するもの。鷺、鷺、鷺。それは喧噪壮観の一語に尽きる。忘れがたい体験であった。

在りし日の鷺山

「今月の1枚」は、コロニーが賑わっていた頃の鷺山の景観である。若き日の今野紀昭さんが埼玉県見沼田んぼの田園風景に心惹かれ、近くの鷺山にも足を運んだのは、今から半世紀以上も前のこと。小型カメラでただ撮っただけと謙遜されるが、ご覧のような写角で鷺山の景観が写された写真は、今日どこかに残されているとしても多くはないと思われる。かつての環境を知る貴重な一枚である。
  名刺判の2枚のプリントを合成したものであるが、ご年輩には懐かしいシネマスコープのようなトリミングは今野さんのアイディアで、バード・フォト・アーカイブス(BPA)にご提供いただいたプリントそのままをスキャニングしたのである。
  画像全面に散らばる白点は、どれも白鷺の仲間。左方に、コロニーに囲まれるお屋敷。農家の庭にこれだけのコロニーがあったのだ。中央に見えるやぐらは、地元の鷺の写真家田中徳太郎が地主の許可を得て建てた撮影用のものと推測される。

やぐらの同定

田中徳太郎の写真集「しらさぎ」(1970年 講談社)pp.150-151に拠ると、1954年に建てた10mのやぐらが最初のもの。その3年後に15mのものを建て、1960年に一番高い22mのものが建てられた。
  地主との信頼関係を築いたからこその田中徳太郎のやぐらである。それ以外のやぐらが、同じコロニー内に建ったとは考え難い。だが、写真集p.151に載っている22mのやぐらの写真と比較してみて、「今月の1枚」の中央に見えるやぐらが同一のものかどうかは、アングルが違っていて定かではない。歴史的なやぐらだけに、状況から推して同一のものと思いたい。

1960年のハプニング

鳥界では日本で初の大型国際会議、第12回国際鳥類保護会議(ICBP)が開かれたのが1960年。13ヶ国からの参加者があり、エクスカーションで鷺山を訪れている。地元では一行を歓迎しようと鷺山愛護会、村、県とで費用を出し合い、会議に間に合うよう高さ15mの鉄骨の塔を建てた。地元の好意は、各国の代表者にはウエルカムであった。
  後に、この鉄骨展望台が鷺山見物の観光スポットとなり、自然の保護には無頓着な一般観光客が急増した。ピーク時の1965年および1966年には、3万人を超えた。人為の喧噪が鷺山存亡を左右する一因となる皮肉な結果になろうとは、建設当時には誰知る由もなかったのである。
  鉄塔から鷺たちを楽しんだ一行の中で、鳥界の帝王、ピーターソンフィールドガイドで世界的に知られるロジャー T. ピーターソン氏は、特別に一番高い22mのやぐらに一人登ったはよいが、壮観なコロニーでの鷺の生態を撮影しようと夢中になり、一行の出発時刻が過ぎても下りてこない。案内役の田中徳太郎をはじめ関係者をヤキモキさせたというエピソードが残されている。

コロニー消滅に学べ

野田の鷺山は、全国の鷺のコロニーの中でもスケールが大きく、歴史が古い。1776年には十代将軍家治公が日光東照宮参拝の折に立ち寄り、鷺見物されたという。1938年に天然記念物、1952年に特別天然記念物に指定されたものの、1960年代末に急激に個体数が減少しはじめた。農薬の影響、営巣していたマダケの枯れ死、鷺見物観光での雑踏と騒音、稲作農業の変貌、恐らくこれらの複合的な原因で、数世紀の歴史を刻む野田の鷺山コロニーは、1972年には消滅してしまった。特別天然記念物は1984年に解除された。
  この間の詳しい記述は、小杉昭光著の「野田の鷺山」(1980年 朝日新聞社)を 参照していただきたい(特にpp.142-186)。

  今となって往時の鷺山が偲べるのは、田中徳太郎の写真集など数多の写真記録でしかない。田中作品で私のお気に入りは、白のモクレンが咲いたような、ケヤキの裸木の梢に塒するチュウダイサギの群れ。1時間の長時間露光で星の軌跡が背景の夜空に弧を描き、静寂の中の幻想美を捉えた写真だ。
  写真からふと野田の鷺山を訪ねようかと、しかし、“夜空に咲く”チュウダイサギの大群を実感することは、もはや叶わない。そのような現実に思いをいたすことすら、現代を生きる私たちは鈍感になってきてはいまいか。消滅したコロニーは戻ってはこないのだと、改めて声を大にしたい。
  在りし日の鷺山が写された「今月の1枚」から私たちが学ぶものは、少なくないハズである。

2016 MAY
ヒメクイナ
撮影 ◆ 下村兼史
1924年5月1日
佐賀県佐賀市田城濠
写真資料提供:山階鳥類研究所


トリミングのヒメクイナ

水草などに隠れて行動することの多いクイナの仲間は、人目につきにくい。ましてや小型のヒメクイナが観察・撮影されるのは、その昔は恐らく夢の世界と思われていたに違いない。想像するに、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903-1967)は、1920年代中ごろ、野外での観察を続けてヒメクイナの日周行動を把握し、ここぞの場所でこの構図でと期待しながらシャッターチャンスを待ったのではなかろうか。
  日本で初めて撮られたと推測されるそのヒメクイナの写真が、「今月の1枚」である。山階鳥類研究所に収蔵されている下村兼史写真資料の内の4201枚あるプリントの1枚(ID no.AVSK_PM_0352)で、略四つ切(216x270mm)のサイズ。

紙テープでのトリミング指定

興味深いのは、この四つ切プリントに惜しげもなくわら半紙状の紙テープで井桁のトリミング指定をしていること。その結果が、石澤健夫との共著「本州に繁殖する鳥」(アルス科学写真叢書. アルス, 1933年)p.61に載っている。
  確かに、ハガキ大のこの小さな写真集でページの三分の二ほどを占める大きさの写真では、トリミング指定して被写体を拡大しないと、ヒメクイナが豆粒ほどの大きさになってしまうのである。
  因みに、このような紙を貼ったトリミング指定は、4201枚の収蔵プリントの内、下村のものは58例ある。四つ切の他にもう4枚存在するヒメクイナのキャビネ大のプリントの内の1枚(AVSK_PM_1595)には、線書きのトリミング指定がされている。プリントに直接トリミング指定したものと紙テープでとの違いが何なのかは、不明である。

自然を写しこんだ生態写真の魅力

下村兼史著「鳥類生態写真集 第1輯」(三省堂, 1930年)に載っているPL.50(ヒメクイナ)は、「今月の1枚」にみる四つ切と略同じカットである。同一のネガから伸ばされたものであるが、ここでは「クイナ」と種記載されている。
  いかにもクイナ類が棲んでいそうな自然の息吹を感じさせる情景でのワンポイントのヒメクイナは、下村写真の真骨頂と言えよう。それを、当時の扱い難いカメラで1回のシャッターで「決める」のであるから、連写連写で撮れた中から選ぶ1枚のデジカメ画像とは異なる、撮影時のスリルとシャッターの手応えがあったであろうと思われる。古き佳き時代ではあった。
  ネガで見ると極小さなヒメクイナであるが、試しに大きく伸ばしてみて驚いたことに、眼のキャッチライトが写っていたことである。

参考まで

このヒメクイナの写真は、トリミングの異なるものが次の文献に載っている。
  内田清之助・下村兼二. 1932. 原色鳥類図譜. 三省堂, 東京. 第52図.
  内田清之助. 1937. 脊椎動物大系. 鳥類. 三省堂, 東京. 第308図.
  清棲幸保. 1952. 日本鳥類大図鑑 �V. 大日本雄辯会講談社, 東京. 写真no.624.
  清棲幸保. 1954. 日本鳥類生態図鑑. 大日本雄辯会講談社, 東京. 写真no.176.

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2016 APR.
カタクリ咲くころ
撮影 ◆ 廣居忠量
1969年4月13日
埼玉県秩父市川浦谷

草花のアーカイブな写真

「今月の1枚」は、落葉広葉樹林がまだ冬枯れ色のころ林床に咲くカタクリの花である。群落で咲く期間が2週間ほどと短いそうで、意識して早春の花期に訪ねないと、愛で損ね、撮り損ねる。

草花の色をモノクロで表現?

草花のモロクロ写真で悩ましいことがいくつかある。
  目に艶やかな草花の色調を、カラー写真ならいざ知らず、モノクロで表現するのは挑戦である。色が感じられるようなモノクロ写真はそうは撮れるものではないと思えど、諦めずに挑戦するしかない。そのように撮れた写真をそう感じるかどうかは、写真を見る人の感性にも因るので、鑑賞する側もうかうかできない。

撮影年不詳な草花の写真

さらに悩ましいのは、草花の周辺や背景に時代なり地方色なりが写し込まれることは少ないので、勢い、いつ頃の写真かは、見ただけでは推定し難いのである。
  廣居さんがアサヒペンタックスにマクロタクマー50mmレンズをカタクリに向けたのは、実は47年も昔のこと。今年写してきた撮れたての写真だと言われても、納得してしまうほどなのだ。
  アーカイブな草花の写真を扱っていて、せっかくの時代性などが画面から滲み出てこないのはなんとも歯がゆいものである。こればかりはいかんともし難い。撮影データに頼るしかないのである。

モノクロな「味」

ところが、そこはモノクロアーカイブな写真。見ていると、そこはかとないピントの合わなさ加減や、写真が醸し出す時空間の隔たりに微妙なものが感じられてくる。そこらがモノクロアーカイブ写真の「味」とでも言おうか。
  そのあたり、廣居さんの半世紀ほど昔に撮られたカタクリ、いかがでしょうか。

2016 MAR.
早朝の両国橋を移動するユリカモメ
撮影 ◆ 塚本洋三
1957年3月17日
東京都台東区

両国橋とユリカモメの今昔

『伊勢物語』で詠まれた「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思う人はありやなしやと」の都鳥は、シギやチドリたちの親戚で和名がミヤコドリという種類ではなかろうかと、鳥や文学に関心を持つ学者らによってかつて鳥沙汰された。今日では、都鳥は誰しも知るカモメの仲間のユリカモメに落ち着いている。1965年には「東京都の鳥」となった。

  冬の間、水辺に群れる嘴と脚の赤く全身が白い清楚な装いのユリカモメは、4月ともなると、ズキンをかぶったように頭が黒褐色に変わっていく。最初はちょっと汚れたようなズキンだが、北国の繁殖地へ渡り去る前にはダンディな黒ズキンの夏羽姿になる。
  その変化を週日を追って気をつけてみるのは、早春から5月初旬あたりまでの季節の移ろいを読む楽しみの一つではある。

写真に写されていればこそ

「今月の1枚」は、半世紀ほど前に撮られた隅田川沿いに両国橋を飛び越え移動するユリカモメの小群である。隅田川を挟んでかつての武蔵国と下総国の両国をつなぐ両国橋のたもとで、台東区側から隅田区側を望みながら、親父のブローニー判スプリングカメラを持ち出して撮ったもの。朝靄に一つだけランプが灯っていたのが不思議であった。
  当時、鳥を撮ってみたいの一心。実は標準レンズでの下町景色といったところだが、あたかも“望遠レンズつきでユリカモメの生態写真が撮れる”かのように勢い込んでシャッターを切ったその時の私のドキドキ感が、今でも甦る。

環境変化の歴史を知る両国橋

17世紀中ごろに架けられた木組みの橋が「今月の1枚」に見る鉄骨となったのは、1932年のこと。その25年後に撮影された手すりとランプだけが、今日でもそのままの姿を留める。
  周辺の景観は一変した。
  写真正面のドーム屋根の旧両国国技館は、国際スタジアム会館、さらに撮影した1年後の1958年に日大講堂と名を変えた。1983年に老朽化して解体され、長年親しまれた下町のランドマークが、名実ともに姿を消した。代わって、現在はどこを見てもビル群。隅田区側の川沿いに首都高速6号向島線が走る。護岸が整備された。近代化された両国界隈が忙しい“下町風情”となって、久しい。

大川の流れとともに

時は移る。なにごとも不変ということはない。隅田川の川面を眺めて『伊勢物語』の都鳥に思いを馳せる情緒の余裕までをも、私たちの心から消さないようにしたい。

  昔も今も変わっていないのは、両国橋のランプと隅田川沿いに橋の上を移動するユリカモメの眺めである。

2016 FEB.
神石牛
撮影 ◆ 下村兼史
撮影日・場所 不詳
写真資料提供:山階鳥類研究所


下村兼史の撮った家禽家畜

下村兼史(1903-1967)といえば、100年ほど前の1922年に撮ったカワセミを自身の原板第一号として、野鳥を主に撮る野生生物の生態写真の草分けとして知られる。1930-31年に刊行された「鳥類生態写真集」第1-2輯(三省堂)は、兼史の卓越したカメラセンスを窺わせる優れた野鳥写真が多く掲載され、モノクロ写真ながらいまだ観る者の心を捉える。

  下村は、1939年より映画製作の世界に身を転じ、「或日の干潟」(理研 1940年)を初め、数々の傑作を世に送ってきた。その功績により、兼史が逝く直前の1967年、第22回映画コンクール(毎日新聞社)で、特別賞のブロンズ像が贈られている。

ウシ、ブタ、ヒツジ、ガチョウも

その野鳥生態写真・映画の下村兼史が、実は家禽家畜も撮っていたことはあまり知られていないようだ。下村兼史といえば野鳥の生態写真という先入観から抜けきらなかった私。山階鳥類研究所で下村の写真資料の整理保存作業をしていて見つかったニワトリやチャボ、ウサギ、ヤギ、ブタ、ウマなどの乾板やネガは、誰かの写真が紛れ込んでいたとばかり思っていたのである。

  当時の同研究所の柿沢亮三副所長がご教示くださった一冊の古本が、すべてを解決してくれた。1934年に出版された占野��年・下村兼二(兼史に改名する前の名)の「家禽家畜図譜」(三省堂)である。この本には、資料の中に見つかった写真も含めて[筆者原図]の家禽64点、家畜44点が掲載されていたのである。

「今月の1枚」は牛である

下村がどのような被写体にレンズを向けていたかを大雑把に知るために、山階鳥類研究所が所蔵する下村兼史写真資料のガラス乾板、写真フィルム(カラー/モノクロ)、映画コマ(カラー/モノクロ)の合計5,754枚について便宜的に分類してみたところ、哺乳類は231点で全体の4%であった。野生の哺乳類を撮った写真は極限られるので、ほとんどは家禽家畜と動物園での写真である。

  家畜の中から下村兼史らしい写真と感じて選らんだ「今月の1枚」の牛は、大型ネガの枠に「神石牛」と手書きされている。多くの下村写真のように、このネガの撮影データは残されていない。この写真が掲載された書籍類も今のところ見つかっていない。下村がなんの目的でいつ頃どこで撮ったのかの情報は、皆無なのである。

  因みに、牛の首のタスキに書かれた神石郡は広島県下でも和牛改良の歴史が古く、神石牛といえば広島県産牛の代名詞になるほど全国に名をとどろかせたと、ネット情報にある。

  野鳥生態写真の下村兼史のイメージがしばし遠のいたが、下村ワールドの一端がうかがい知れる牛が「今月の1枚」に登場した次第である。

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2016 JAN.
出雲大社のスズメ
撮影 ◆ 廣居忠量
1969年5月6日
島根県出雲大社

スズメのことども

明けて申年ではあるが、「今月の一枚」はサルとはあまり縁のないスズメを選らんでみた。スズメはスズメでも、島根県東部の神話の地、出雲大社での50年ほど昔のスズメである。
  撮影者の廣居忠量さんは関東から出雲大社まで出向いてスズメを(ついでに?)撮ってきたのであるが、そこらにいるスズメとは違う。大社さまの佇まいにも無心な?スズメをカメラに捉えてきたところがミソであろう。

  フィールドに立つことがめっきり少なくなった私には、たまに我が家のベランダに来るスズメの仕草に目を細めている。「バードウオッチングはスズメで始まりスズメに終わる」とはあまり言われていないが、私のバードウオッチングがスズメで終わる境地になったかと、年頭からやや複雑な思いではある。
  「今月の一枚」を眺めていると、いろいろのスズメが跳ね飛ぶ。

同情に価するスズメ

60年ほど昔、中西悟堂が「万葉集」にどんな鳥が何首登場したかについて、当時は東京渋谷の南平台にあった山階鳥類研究所で発表講演された。私が中学か高校生のころとて、メモしたハズの野鳥ノートがみつからない。頼りにならない記憶をたどってみると、確か――
  ホトトギスは、往時の人の耳目をそんなに楽しませるほど多くいたのかと疑いたくなるほど、だんとつに詠まれて人気者のようだった。しかし、人家近くに棲んで人目についたに違いないスズメは、一首も詠まれていないと話されたと思う。その理由は定かではなかったが、かの「万葉集」に出番のなかったスズメに同情したくもなる。

  近年の野鳥写真ブームでも、スズメの傑作写真というのをほとんど見かけないのはどうしたことだろう。全日本“鳥”フォトコンテストなどでグランプリに輝くスズメの写真が登場しないものかと心待ちにしてはいる。ひいき目にみてもフォトジェニックではないのが原因かと認めつつも、そこはカメラマンのウデでスズメにひと花持たせてあげられないものか。

エッセイにちょっと顔を出したスズメ

最近のバードウオッチャーには恐らく知られていないエッセイがある。題して「スズメが天然記念物になる日」。鳥業界で活躍をつづけられる松田道生さんの一文で、1990年ベスト・エッセイに選ばれている(日本エッセイスト・クラブ編 1993.チェロと旅. (文春文庫) 文芸春秋, 東京. pp.277-280)。
  実は、タイトルを受けて想像する内容は、読んでみれば予想外な展開である。主役はスズメではないのであるが、ここで紹介する意図は、その予想外な点に想いを致していただきたいからである。もしも興味を感じられたら、ご一読の上で(ネットには載っていない)、このタイトルを選らんだ松田さんのセンスと意図を、日本人の自然観を、日本の自然を、そしてその将来を考えていただきたいのである。
  タイトルをよそに、今も多くを私たちに問いかけてくれるエッセイなのだ。

スズメが主役の映画

「こむぎいろの天使 雀と少年」。1978年、後藤俊夫監督のデビュー作。第3回優秀動物愛護映画コンクール内閣総理大臣賞を受賞した75分の児童劇映画カラー作品とある。「我と来て 遊べや親のない・・・」芭蕉の句ではないが、親をなくした小雀を少年が育て、最後の1羽が自然に帰るという内容。
  一般公開はされなかったので知られていないようだが、スズメちゃんの大ファンである浦安市郷土博物館の尾上一明主任学芸員に教えていただいた映画である。尾上さんが目を輝かせて語る映画なので、いずれは見たいものとここに書き留めておきたい。

  古いところでは、下村兼史脚本・演出の「雀の生活」(1950年 東宝教育映画)がある。一年を通してスズメの生態を丹念に追った下村兼史ならではの16分のモノクロ短編。ご年輩でもひたすら懐かしいような寒村風景にスズメの取り合わせが妙である。
  今日ではなかなか鑑賞する機会がないとて、2018年の下村兼史生誕115年・写真展(主催山階鳥類研究所)で皆さまにご覧いただけたらと、映画フィルム上映の可能性を探って奔走中である。

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