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●●2014 Dec.●●らくがき帖フォトグラファーズティータイム 休載の弁

ちょっと勝手を言わせていただきます。
  藤波理一郎さんの異例の寄稿長期連載が年内で一区切りを迎えたのを機に、この「BPAフォトグラファーズ ティータイム」を向こう4年間休載としたいのです。ということで、日本でラグビーのワールドカップが開催される2019年、その年の初めからの再スタートで「よろしく〜」と考えています。
  このページに登場されるのを “予約”して楽しみにしておられる方々には、申し訳ありません、しばらく(?)お待ちください。

2018年下村兼史写真展の開催ゆえに

休載のほんとの理由は、ごく簡単。私の我がままからです。2018年秋に、山階鳥類研究所の主催で開かれる下村兼史生誕115周年・写真展の準備に恐らく膨大な時間とエネルギーを必要とするであろうから、月々のホームページの締切に追われるプレッシャーから少しでも逃れたいだけです。その分、写真展開催に全責任を背負っている私は、準備作業に全力投球できるというものです。

写真展の準備に4年間もぉ? 誰しもそうオウム返しに訊くでしょうが、主役が日本での野鳥生態写真の草分け下村兼史で初の大規模な写真展となると、準備にじっくり取りかかりたい。単に鳥の写真を並べただけでは面白くないと私は考えているのです。
  山階鳥類研究所が所蔵するプリント、ネガ、乾板など1万余点の中から何を出展するか選別するだけでも、気が遠くなるようです。展示品も含めてあれもこれもと欲張りたいのは、人の常。欲張ってみてから絞り込んだ納得の展示構想が実現できれば、観にきてくださる方々にとって面白いものになるだろうと。
  何度でもできるイベントではないので、全力で前進あるのみの心意気でいます。そのために、の休載です。

なんとか実現させたい「図録」

欲張りの最たるものが、「図録」の出版です。それも、下村兼史に関する資料をできる限り載せたものを! 能力からいっても資金力からいっても実現が可能かどうか現段階では不透明ですが、欲張ってみます。
  こんな“夢”を書いて、また己にプレッシャーをかけてしまいました・・・。ということは、どうやら「図録」もやらねばならないと覚悟しているらしい、のです。
  となると、これまで山階鳥類研究所やバード・フォト・アーカイブスで蓄積された下村兼史関連のデータを再チェックする必要があります。ただでさえ少ない下村の撮影データを増やすため、未発見のものがどこかにありはしまいかと、この機会に埋もれているデータを探しだしてもみたいです。時間との競争になります。

2015〜2018年 長いようでアッという間か

写真展開催が決定してから、早くも数ヶ月が経ちました。1日が少なくとも48時間あって欲しい・・・。実質3年ほどもない準備期間は、私にはとても充分とは思えません。
  他事ながら、休載の弁、どうぞご理解いただきたいと思います。
  なお、「ティータイム」の心意気は、The Photo 「今月の1枚」の内容を少し拡大したかたちで、必要にあたって文中に盛り込んでいく心づもりでおります。

  最後に、「長過ぎてコレ読むのが大変だよ」と心ある(?)読者からモンクを言われ続けた「BPAフォトグラファーズ ティータイム」ですが、ご声援有り難うございました。2019年からは、短めにまとめるよう心掛けます(?)。またよろしくどうぞ。

  皆さま、一つ数字が動いて2015年となるところです。佳き新春をお迎えください! そして、健康第一に、次ぎの数年がゆったりと納得のいくように過ぎることを、共に期待しましょう。

2014 Dec. BPAフォトグラファーズ ティータイム藤波理一郎さん(最終回)

大都会ニューヨークから引っ越した先のアリゾナ州の田舎町ツーソン(Tucson)での藤波さんご夫妻の毎日は、メールが届く度に、羨ましさのあまり悔しささえ覚える。屋根の上で鳴くアメリカワシミミズクの声でふと目を覚ます、なんて、フクロウファンの私には許せないことではある。
  私には夢がある。満月の夜に静けさ漂うサボテンのアリゾナ砂漠のまっただ中に身をおいてみたい。宇宙へ吸い込まれてしまいそうなほど、幻想的に違いない。コヨーテが鳴けば、さらによし。
  その夢が、藤波さんをアリゾナに訪ねれば叶うのだ。きっと行くからと、藤波さんには伝えてある。それがいつになるのか、時間の問題だと思っただけでワクワクしてくる。
  ところが、ドデカイもう一つの夢の実現が、最近になって急浮上してきた。アリゾナ行きは先送りになる雲行き。日本の野鳥生態写真の草分け、下村兼史の写真展を2018年に開くまでは、個人的な海外バードウオッチングの旅はおあずけしなければなるまい。4年なんてアッという間に経ってしまうと思っているので、アリゾナ砂漠と藤波ご夫妻との再会も、そう遠いことではない!?
  まずは今回が最終回となる藤波さんのティータイムでの画像で、夢をかきたてよう。
因みに、さらに多くの画像をご希望の向きには、コーヒーかウイスキーグラスでも傾けながら、さらにできればジャズなどをBGMに、エンドレスに思えるような「藤波レポート」http://fujinamireport.comでご堪能いただきたい。


アリゾナでの隠居生活 Part 2

藤波理一郎

ニューヨーク州からアリゾナ州に転居し、老後の生活を始めて4年半が経過した。大きな災害や異常気象の心配がなく、一年のほとんどが青空でカラッとしていて明るいので室内より屋外で過ごす時間が多く、毎日が大変すがすがしい。幸いにも親から授かった超健康体をフル回転させ、アメリカの雄大な自然そしてそこに住む「生きものたち」を求めて、車によるアメリカ大陸横断(鳥見をするため8000キロ以上)をこれまで3回楽しんできた。来年は春に中南米から戻って来る夏鳥たちの渡りを追いながらアメリカ大陸を縦にテキサスからカナダまで北上する旅をしようと計画中である。
  アリゾナにいて、夢は尽きない。


マイフィールドの生きものたち

南アリゾナに住む私の主なマイフィールドは、冬と春は暖かいソノラ砂漠、初夏は渓流沿いの森林渓谷(マデラキャニオン)、真夏は涼しい標高2800メートルの高山(レモン山)である。それぞれ南アリゾナだからこそ見ることが出来る貴重な「生きもの」に出会えるチャンスが多いので、私の写真撮影の重要なスポットとなっている。

世界のバーダー憧れのメキシコ種 ウツクシキヌバネドリ ( Elegant Trogon ) 北米では 南アリゾナの渓谷深い森林でしか見られない
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年7月
アリゾナ州マデラキャニオン アメリカ


標高2000メートル以上の南アリゾナの高山の一部でしか見られない メキシコユキヒメドリ ( Yellow-eyed Junco ) 山頂トレールを歩くと足下をチョロチョロしながらエサ取りするので 肉眼でもよく観察出来る
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年9月
アリゾナ州レモン山 アメリカ


南アリゾナ高山の標高1600メートル以上の針葉樹林で見られるオリーブアメリカムシクイ ( Olive Warbler ) 大きな木の高い枝でエサ取りしたりさえずったりするので 何時も見るのに苦労する
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年5月
アリゾナ州レモン山 アメリカ


「砂漠のカーディナル」と呼ばれ 北米南部の砂漠にのみ生息するムネアカコウカンチョウ ( Pyrrhuloxia )  オウムのような太い嘴でバッタを岩に叩き付ける仕草は見ていて笑ってしまう 難しい英名は「ピルロキシア」と読む。
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年4月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


南カリフォルニア 南アリゾナのソノラ砂漠で見られるレンジャクモドキ ( Phinopepla ) 木の天辺で「ホイホイ」と可愛い声を出すので見つけ易く写真も撮り易いため とても親しみが湧く 春は暖かい砂漠で 夏は涼しい渓谷で子育てをする変わった鳥でもあり 英名は「ファイノペプラ」と読む
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年12月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


北米で唯一の毒トカゲ アメリカドクトカゲ ( Gila Monster ) 砂漠を象徴する「生きもの」で 一生の90%以上を地中で暮らすのでめったにお目にかかれない 春のトレール歩きで偶然にも出会い 女房の横を悠然と歩いて去って行く姿にしばし見とれてしまった
撮影 ◆ 藤波理一郎
2014年2月
アリゾナ州プッシュリッジ山トレール アメリカ


庭の常連たち

我が家の庭には色々な種類(ピーナツバター ヒマワリの種 シッセルの種 砂糖水など)のフィーダーと水場があるので 年間40種以上の鳥たちが出入りする そして そこに集まる鳥たちを狙う天敵もやって来て 時には自然界の厳しいドラマを間近に見ることがある

南アリゾナでしか見られないサバクシマセゲラ ( Gila Woodpecker ) ♂ 何しろ甘党で ハチドリのフィーダーの砂糖水をちょちょく失敬する キツツキと言えば「ドラミング」を得意とするが、砂漠には良い音が出る大きな木がほとんどない そこで彼らは屋根上の煙突に目をつけ これを早朝から叩くのでゆっくり寝ておれないのにはまいる
撮影 ◆ 藤波理一郎
2012年4月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


庭に来て雛に虫の捕り方を教えるズアカカンムリウズラ ( Gambel's Quail ) 砂漠ではごく普通に見られる留鳥で 夏になるとちょくちょく10羽近くの雛 を引き連れて住宅街の道を一列になって早足で渡って行く可愛らしい姿が見ら れる
撮影 ◆ 藤波理一郎
2010年8月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


庭に来る鳥の中で一番美しいムナグロムクドリモドキ ( Hooded Oriole ) ♂ 冬は南米で過ごすので一年中は見られないが 夏に戻って来ると毎日オス メスでフィーダーの砂糖水を舐めたり水場で水浴びをしたり 朝から夕方遅くまで我が物顔で過ごす
撮影 ◆ 藤波理一郎
2013年6月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


夕方 フィーダーに鳥たちが集まりだすと必ず現れるクーパーハイタカ ( Cooper's Hawk ) ♂ 好物の鳩やウズラを狭い庭で狙う時の技は軽妙で 近くのよく葉の茂った低灌木に静かに隠れていて チャンスとみるや急に飛び出してくる 低くすごいスピードで立っている私の顔すれすれにアクロバットのように通り過ぎ 舞い上がる鳥たちを追い求めて急上昇して行く
撮影 ◆ 藤波理一郎
2013年2月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


夜 サバクネズミや野ウサギがフィーダーのおこぼれを拾いに活発に動き始めると 何処からともなく静かに現れるヒシモンガラガラヘビ ( Western Diamond-back Rattlesnake ) 猛毒なので 夜の庭では一番注意を払わなくてはならない厄介な常連である
撮影 ◆ 藤波理一郎
2012年4月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ

【続きます!】

●●2014 Nov.●●らくがき帖下村兼史のお宝発見の記

2018年に下村兼史生誕115周年・写真展が開催されると決ったので、しかも主催が公益財団法人山階鳥類研究所であることを、下村兼史のご遺族にご報告しなければ・・・。
  過日、ご長男の下村洋史さんご夫妻とご長女山本友乃さんとに昼食会に招かれ、いや、これまでもお世話になっているお礼も含めて私がお招きしなければいけなかったのですが、すっかりご馳走になってしまったのでした。


昼食会での意外発言

席上、友乃さんがふと、
  「塚本さんがビックリする話があるのよ・・・。引越のとき、捨てるばかりの額の裏をたまたま開けてみたら、鳥の絵がでてきたの。」
  兼史が最期まで住んでおられた家を引越するので、すっかり片付けたとはお聞きしていた。ものを整理する際に友乃さんはなにかと気前よく捨ててしまうので、「兼史のものなら何であれ、絶対に捨ててはいけませんよ。捨てるなら、私がすぐに拾いますから!」 これまで、何10回となく繰り返してきたことか。
  「え? まさか下村兼史の原画ぁ?!」
  ハガキより少し大きめのオリジナル彩色画5点。陽にも空気にも触れず、色鮮やかなオオルリ、サンカノゴイ、ベニヒワ、アオサギ、ヤイロチョウが、私の目に眩しいばかりであった。



心を鬼にして

「うわぁ〜〜 これは・・・!」(欲しい、是非欲しい。写真展で皆さんにもご覧いただかなくちゃ。)
  「カラーコピー、これ一式とっておいたけど、塚本さん、オリジナルがいいって顔に書いてあるわよねぇ。」瞬時にしてすっかり読まれていた。私も察した。こればかりはあげないわよ、ということだ。
  兼史が目に入れても痛くないほどで、特に可愛がられた友乃さんにしてみれば、父親の縁として原画は新居の居間に飾るばかりになっていたようだ。カラーコピーのデキも驚くほど優れていたが、私に言わせれば、貴重な下村兼史資料としてバード・フォト・アーカイブスが責任もって保存し後世に伝えるべきは、オリジナルだ。
  後には退けない。退いてはいけない。しかし、友乃さんには親父さんの形見以上のものなのだ。譲りたいのはやまやまなのだがと、いつになく躊躇されているお気持ちがビンビン伝わってくる。私は、まともに友乃さんのお顔をみることができなかった。
  無言の葛藤が、しばし原画の置かれた小さなテーブルを支配した。私は、穴のあくほどオリジナルをみつめ、コピーとオリジナルとを並べて見較べてみたり。「やっぱり・・・、だよねぇ。」と、なんともとれないことを呟いてみたり。
  私の気迫におされたのか、ややあって友乃さんは、なし崩しの勝利を私に譲ってくださった。そのとき、どんな言葉があったか覚えていない。仏の友乃さん。しばし鬼だった私は、誠に申し訳ない気持ちで一杯だったが口には出さず、おお! 仏の気が変わらない内にと、5枚の原画を直ちにカバンに入れてしまったのだった。
 

原画展示は2018年写真展で

帰宅して棚からとりだした手の平サイズの本2冊。案の定、原画はいずれも日本で最初の野鳥のフィールドガイドと目される、下村兼二・石澤健夫著「観察手引 原色野鳥図」(1935年、上巻;1937年、下巻 三省堂)に載っているものでした。現存する数少ない兼史の原画と確定してよいでしょう。
  当然、2018年の下村写真展に展示しなければ! 今月は1点だけ特別にデジタル公開して、原画は写真展までお待ちください。デジタルのこれ見よがしの色彩よりも、オリジナルを直接ご覧いただいた方がよいに決まっています。なに、4年なんてすぐ経ちますから、お楽しみに!

2014 Nov. BPAフォトグラファーズ ティータイム藤波理一郎さん(Y)

北米は広い。大学時代の昔、さすが北海道は広〜い!などと感激した比ではない。その広い広い北米を1977年4月にミシガン州から8000qちょいのバードウオッチングの旅にでて、最終目的地とした田舎町がツーソン(Tucson)であった。広いアメリカでのたまたまの町に、まさか藤波さんが引越されたとは!
  ツーソン近郊でのバードウオッチングとサボテン砂漠の印象は、今思い出しても鮮烈である。それが藤波さんご夫妻にとっては、現在日常のこと。なんとも羨ましい。せめてその一端を写真でお目にかかれればと、ティータイムの最後はアリゾナアルバムとなった。


アリゾナでの隠居生活

藤波理一郎

米国は近年各地で異常天候が多く、私が延べ30年以上暮らしたニューヨークも、風による倒木や大雨による川、湖の氾濫などの災害が年々多くなって生活コストも高くなり非常に住み難い大都市となってしまったので、2010年完全リタイア生活に入ったのを機に思い切ってニューヨークを離れて米国アリゾナ州ツーソンに転居した。
  子供の時に見たディズニー映画「砂漠は生きてる」の舞台で、しかも全米人気鳥見スポットのベスト5に入っており、いつかは住んでみたいと思っていた念願のソノラ砂漠で、大サボテン Saguaro に囲まれてのんびりした田舎生活をおくっている。
  何しろ「生きもの」が大変豊富でしかも大切にされている。夜間行動する動物を怖がらせないよう街灯はいっさいなく、住宅街も門灯とガレージ灯以外は禁止されている。また、動物たちがよく通る道路には "Watch for Animals" という道路標識がいたる所にある。
  一年のほとんどが青空で太陽がいっぱい、そして鳥や動物たちが身近に居る生活は見ること体験すること全てが新鮮で驚くことが多く、ストレスのない毎日は実に楽しい。そんなアリゾナ生活で身近に目にした面白いアリゾナならではのものを写真で紹介しましょう。


求愛ソングを高らかに歌うアカガオアメリカムシクイ (Red-faced Warbler)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2012年5月
レモン山 アリゾナ州 アメリカ

  バーダー憧れのアメリカムシクイで 南アリゾナとメキシコの高山の一部でしか見られない貴重な鳥である


アリゾナの土産物屋で売られてる“サソリ入り飴”
撮影 ◆ 藤波理一郎
2012年4月
アリゾナ州 アメリカ

  南アリゾナの生活上身近に生息している“怖い生きもの”が3つある ヒシモンガラガラヘビ 大型蜘蛛のタランチュラ そしてサソリ (Arizona Bark Scorpion)  これらは油断すると夜間ガレージや家の中に入って来ることがある 特にサソリは1.6ミリぐらいの小さな隙間でも入って来られるのでうっかり足で踏んだりしようものなら直ぐ刺される 刺されると2、3日は強烈に痛く 氷で冷やし頭痛薬を飲んでじっとしてなくてはならない 
  写真の“サソリ飴”は飴の中に本物のサソリが入れてあり、特別美味しくないがパリパリとしていてエビせんべいのような感じである


雪をかぶった Saguaro の上でさえずるサボテンミソサザイ (Cactus Wren)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2012年1月
マラナ郡 アリゾナ州 アメリカ

  一年のほとんどが暖かいソノラ砂漠でも冬の大寒の頃には零下になる日があり 時には雪が降ることもある 雪が積もったサボテン林で聞くサボテンミソサザイの鳴き声もおつなものである


夏の一夜の数時間だけ咲く不思議なサボテンの花 "Arizona Queen of the Night"
撮影 ◆ 藤波理一郎
2014年7月
マラナ郡 アリゾナ州 アメリカ

  花の正式名は "Desert Night-blooming Cereus" 毎年地元の”砂漠を歩く会”に参加して この花が咲く当日の朝に電話連絡を受けその夜に見に行かなくてはならないので 一年に一度しか見られるチャンスがない貴重な花である コヨーテ(オオカミの一種)の遠吠えを聞きながら見る月明かりに照らされた白い花は清楚でとてもサボテンとは思えない美しさである


サンタ帽子を被ったロードランナー
撮影 ◆ 藤波理一郎
2013年12月
アリゾナ州 アメリカ

  まさにアリゾナならではのクリスマスカード 人気があってよく売れている


庭の水場に時々やって来るオオミチバシリ (Greater Roadrunner)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2012年6月
マラナ郡 アリゾナ州 アメリカ

  アリゾナ砂漠の愛嬌者で 漫画やロゴマークによく使われる人気者ではあるが 肉食でテリトリーが広いのでフィールドを歩いていても簡単には見られない


クリスマス帽子を被った Saguaro サボテン
撮影 ◆ 藤波理一郎
2013年12月
アリゾナ州 アメリカ

  南アリゾナのクリスマスは青空で太陽がいっぱい 雪もなければクリスマスツリーのもみの木もない あるのは大サボテン Saguaro ばかり そこでホリデーシーズンを祝うためクリスマス帽子を被せてみた 良いアイディアでしょう (続く)
●●2014 Oct.●●らくがき帖私は死ねない 「下村兼史写真展」開催までは

2ヶ月ほど前に「あと4年間は死ねない」と決めてこのページ (2014 Aug.) に書き残したのは、実は私の夢を2018年に実現させるためにそれ迄は元気に生きていなければならないからです。
  夢とは、下村兼史ワールドの写真展を開催すること。
  下村兼史 (1903-1967) とは、このホームページでも時々紹介されている、知る人ぞ知る日本の野鳥生態写真の先駆者です。
  2018年をターゲットイヤーにしたのは、その年が兼史の生誕115周年に当たるからに他なりません。



決めたっ! 「下村兼史生誕115周年・写真展」を2018年に

「塚本さん、なんでそんなハンパな年を選んだのです〜。120周年とかにすれば分かりやすいのに。」ごもっとも。ところがあと5年先送りにすると、私の眼が黒くシャンとして写真展を開くことが叶うのかは、かなり疑わしく思われるからです。後期高齢者の仲間入りをして余命を感知した私としては、今決心しなければ後悔すると、やおら「決めたっ!」。
  己にプレッシャーをかけるべく決心したからとて、写真展が歩いて来てくれるわけではない。山階鳥類研究所が所蔵する貴重な下村兼史写真資料のご提供ご協力なくして、夢に描く写真展の実現は遠のく。
  善は急げ。山階鳥研の林 良博研究所長と北條政利事務局長に、私の夢の実現へのお力添えを切々とお願いしたのでした。山階鳥研としても、世界に二つとない虎の子の下村資料を一般に公開する機会となり、公益事業の一環としての実績となるであろうから。

実現! 主催・公益財団法人山階鳥類研究所

恐れ多くも嬉しいことに、下村資料をご提供くださるばかりでなく、私の提案がモノをいったものか、山階鳥類研究所が写真展の主催者となることが組織決定されたのです。こういう形になるとは、なればいいなぁとうっすら気持ちのどこかで感じてはいて、そうはなるわけもないしと否定したり、といった私の心の軌跡は確かにあったのでした。実現した今は、これ以上心強いことはあり得ないと有り難く感じています。
  と同時に、ずっしりとした責任が私の両肩に。実施するに当たって研究所長直轄の「写真展実行委員会」が承認され、山階鳥研の特任研究員の私が事務局長を担当させていただくことになったからです。後には退けないどころか、前進あるのみ。私の10年来の夢だった下村兼史の写真展が、にわかに公となって現実に動き出したのです。

皆さんのご支援ご声援を!

開催へ向けて4年間のマラソンレースのスタートを切って走り出した私。身が引き締まると思いきや、どうもそうとも感じられないのが我ながら・・・なのです。自然体といえばカッコがつくところなのでしょうが。
  なにしろ、実行委員会の新米事務局長は責任が超重いとは自覚していても、写真展開催の経験もノウハウも持たない、資金も少ない、人脈も乏しい。それなのに、どうしても下村写真資料は世に公開すべきだし、やりたいからやるのだという一念一心だけなのです。心底コワイモノ知らずなのか、物ごとを判断できない大バカなのか、はたまた突然変異の大モノなるや?・・・
  とにかく、無手勝流でもなんでも魅力ある下村兼史ワールド展を皆さまにお届けしなければならないことは、確か。2018年までは、私は死ねないのです。
  健康第一に、主催・山階鳥研の特任研究員としてまた実行委員会事務局長として、事務局を写真展開催へと牽引していかなければならないのです。バード・フォト・アーカイブス取締役としても、写真展の開催資金の一部や所蔵する下村写真関連資料の提供、開催告知推進など全力投球で主催の山階鳥研に協力させていただき、野鳥生態写真史上初の下村兼史写真展を成功させなければならないのです。
  皆さん、是非ご支援のほど、そしてよろしくお導きください。

お願いっ!

5年も前のこのページ、「夢は叶えるもの」の最後で、私はいみじくも書いています。「(写真展)開催には莫大な金がかかる。金だ。夢を見るのはタダだが、夢の実現には金が要る。」と。
  さっそくのお願いは、実行委員会事務局長としてはまず正直、頼らざるを得ないご寄附です。企業からの協賛金をも含めて目標ざっと750万円。写真展の質をレベルアップさせるために、できればもうちょっと目標の上を目指して・・・!
  私一人ではムリです。しかし、皆さまから「下村写真展用」と寄附目的を明記したご寄附が山階鳥研にいただければ、写真展開催への力強い積み石となります。主催者の公益財団法人山階鳥類研究所は特定公益増進法人です。その寄附金には、個人法人とを問わず税制上の優遇措置(所得控除または税額控除)が適用されることを、どうぞお忘れなく。
  実は、100万円以上の高額寄附者には、山階鳥類研究所の総裁秋篠宮殿下がご臨席の賛助会員の集いに招待され(関東地区の次回は2016年開催予定)、参加者と共に撮る記念写真を良き思い出とすることができます。そんなチャンスを逃す手はない感じ〜。
  なお、この機会に山階鳥類研究所の個人賛助会員(年1口1万円)、法人賛助会員(年1口5万円)になって同研究所の活動を広くご支援いただけますならばさらに有り難いことと、私からも重ね重ねよろしくお願い申し上げます。

写真展やそのご寄附に関するお問い合わせは 直接 実行委員会へ

下村兼史生誕115周年・写真展実行委員会事務局は、事務局長の私が動きやすいようにバード・フォト・アーカイブス内に設けました。バード・フォト・アーカイブスは、2009年10月以来、山階鳥研の下村兼史資料に関するご質問お問い合わせの窓口としてお手伝いさせていただいています。
  同様に、下村写真展やご寄附に関するお問い合わせなども、多忙を極める山階鳥研の事務局ではなく、写真展実行委員会事務局:TEL:03-3866-6763; info@bird-photo.co.jp直接お願いいたします。

  「何度も言うけど4年は先だよ。短距離走みたいにやっていてはG3(爺さん)は身体が保ちませんよ。」友人からこれ以上ないというアドバイスを受けた。ま、そうなんですけど、皆さん、4年も先のことかぁと思っていると、アッという間ですぞ。どうぞ2018年をお楽しみに!
  開催へ向けてのニュースは、このページで時々にお届けいたします。

2014 Oct. BPAフォトグラファーズ ティータイム藤波理一郎さん(X)

日本では撮れない写真がアリゾナにお住まいの藤波理一郎さんから次々に送られてくるもので、楽しくてあれもこれもとつい欲張って載せています。「ティータイム」始まって以来の長編連載となってきました。
  今回登場するアメリカの鶴なら、私にも覚えがあるのです。ミシガン大学にいた頃、ネブラスカ州の東端でミズーリ河へそそぐプラット川では、淺い川巾いっぱいに22万羽のカナダヅルの大群が塒すると聞いたのです。「鶴の河」と呼ばれるというのに憧れて、そのプラット川を訪ねたのが1977年4月でした。渡りのタイミングをはずして5千羽ぐらいしか見られなかったのですが、それでもその時の光景は、藤波さんの撮られた夕日のプラット川の写真で、まざまざと甦ってきました。
  アメリカシロヅルの方は、帰国してから日本野鳥の会の海外ツアーの隊長としてテキサスへバードウオッチングに行った1990年正月早々に、いわば役得としてこの世紀の珍ヅルを見ることができたのでした。当時は、アランサス国立野生生物保護区内に146羽が越冬しているということでした。
  鶴とともに今回の主役級とも言うべき世界の鶴の写真を撮っておられた佐藤照雄さんとは、藤波さんのお陰で後にバード・フォト・アーカイブスともご縁ができました。それはまたいずれの機会に私に書かせていただくことにして、インターナショナルな藤波レポートを引き続きお楽しみください。


世界の鶴を追う――思い出に残るガイド

藤波理一郎

藤波理一郎さんと佐藤照雄さん アランサス国立野生生物保護区のゲート前で
2006年3月
テキサス州 アメリカ

私がガイドを務めたお客様で忘れられないお一人が、佐藤照雄さんです。
  佐藤さんは「ツル」を専門に撮影しているプロの写真家で、彼はライフワークの一つとして世界中のツルの写真を撮り写真集の出版を目指して活動を長年していた。そのため2005年に知人をとおして海外撮影の旅のコーディネーター、通訳、ガイドの手伝いを彼から依頼され、翌年から一緒に撮影の旅をした。
  まず2006年に米国テキサス州のアランサス国立野生生物保護区でのアメリカシロヅル(Whooping Crane) の撮影、そして同年ネブラスカ州プラット川のオーデュボン協会保護区でカナダヅル(Sandhill Crane)の撮影、2007年にはヨーロッパ西スペインのエストレマデューラでのクロヅル(Common Crane) の撮影などの手伝いをした。


TEXAS, USA

アメリカシロヅルを撮影している佐藤照雄さん
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
アランサス国立野生生物保護区 テキサス州 アメリカ

小さい船を一週間チャーターして 贅沢にも日の出とともに日没までアメリカシロヅルの撮影に明け暮れました。
  佐藤=ツル。佐藤さんは根っからのツルが好きな人で、話をすれば口から出て来る言葉はツルばかり。頭上を美しいベニヘラサギが飛んでもレンズを向けようともしない。
  ところがある時、船頭さんのセルラーフォンに「テキサスにオオフラミンゴが6年ぶりに現れ大騒ぎしている」という連絡が入る。「北米ではめったに見れない珍鳥です!ぜひ見ましょうよ」と私が強くせがんだところ、やっとしぶしぶ OK がもらえたので急いで現場に船を走らせ、無事貴重なオオフラミンゴを見ることが出来たのです。
  そして後日、私に「自由に使って下さい」とその時の記録写真をくださり、実に心の優しい人だなーと感激したのでした。


絶滅危惧種のアメリカシロヅル
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
テキサス州 アメリカ

 アメリカシロヅルの95%は冬をこのアランサス保護区で過ごし 春になると4,000キロ北の彼らの営巣場所であるカナダ ウッドバッファロー国立公園まで長い旅をする
  1941年にはたった16羽しかいなかったが 米国政府の懸命な保護活動により その数はやっと200羽を超すレベルまで戻って来た


NEBRASKA, USA

「大歓迎!ツルが見られます」
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
ネブラスカ州 アメリカ

  ネブラスカ州の中央を流れるプラット川畔では ナショナル オーデュボン協会の保護区 "Rowe Sanctuary" の入り口の看板が 期待感を盛り上げてくれた


一斉にえさ場に向かって飛び立つカナダヅルの群れ
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
ネブラスカ州 アメリカ


寒さに一晩震え通した忘れ得ない ツル撮影用ブラインド
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
ネブラスカ州 アメリカ

 ロウ サンクチュアリーにはツル写真撮影者用の小さな二人用ブラインドが用意されており、一晩このブラインドに泊まれば夕方塒に帰って来るツルの大群と明け方エサ取りにトウモロコシ畑へ飛び立つ迫力ある写真が撮れるというので、さっそく予約して一夜を確保。機材と寝袋、食料を持参し、レインジャーから特別な豆ライトと簡易便所を受け取って夕方ブラインドに入る。
  翌朝7時にレインジャーが迎えに来るまで一歩もブラインドの外へ出られないのを覚悟し、大きな期待で胸を膨らませ狭いブラインドでじっとその時を待った。
  ところが、サンクチュアリー近辺は1919年以来87年ぶりの大雪に見舞われたため、ツルが塒へ帰って来るルートを変えてブラインドの前の中州には一羽も下りず、ただ夜中大きなツルの鳴き声だけが聞こえ、しかも寒くて眠れずにじっとレインジャーが迎えに来る朝まで一回もシャッターを押すこともなく閉じ込められてしまった。今ふりかえると実に懐かしい想いで話として笑えるが・・・


渡りの中継地に集結したカナダヅルの大群
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
ネブラスカ州 アメリカ

 ロウ プラット川流域は北米中央の渡りルート "North America's Central Flyway" にあり カナダヅルの営巣地がある北カナダやアラスカへの旅をする途中に立ち寄る貴重な栄養補給の場所である


雪降るトーモロコシ畑のカナダヅル
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
ネブラスカ州 アメリカ

 世界のカナダヅルの80%以上が集まるプラット川流域のトーモロコシ畑は 州政府がツル保護のために農家に補償金を出し 収穫時にトーモロコシの一部がフィールドに残されている


カナダヅルの塒となるプラット川
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
ネブラスカ州 アメリカ

 夕方日が沈むと プラット川の塒にぞくぞくとカナダヅルが帰って来る 雪に覆われた白い中州が見る見るうちに黒くなっていく 夜中近くには5万羽も集まり 世界でも珍しいカナダヅルの集団塒である


吹雪のなか 風に向かって立っている幻想的なカナダヅルの姿
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年3月
ネブラスカ州 アメリカ

  この写真はプラット川の中州のツルの塒で 夕日が沈んだ後ツルがどんどん集まって来たところを 20人ほどの人数を限定して入れる観察小屋から撮ったものです


SPAIN

クロヅルの小群
撮影 ◆ 藤波理一郎
2007年2月
エストレマデューラ スペイン

  西スペインのエストレマデューラは "スパニッシュステップ”と呼ばれ ノガンが冬を過ごす草原があり しかもオレンジや樫 コルクの林 そしてスペイン米の畑もあって非常に自然が変化に富んでおり ツルにとってのエサも豊富で冬を過ごすには最適な場所となっている


白い雪のようなカマミルの花畑でくつろぐクロヅル
撮影 ◆ 藤波理一郎
2007年2月
エストレマデューラ スペイン


北への旅たちも間近で、飛行訓練に忙しいクロヅルたち
撮影 ◆ 藤波理一郎
2007年2月
エストレマデューラ スペイン

  3月中頃には クロヅルたちはエストレマデューラを離れ 子育てをする遠い北のスカンジナビアの森へ編隊を組んで長い旅に出る


たしか、スペインの旅のときに塚本さんの「バード・フォト・アーカイブス」の話をして、「佐藤さんが昔撮っていた白黒写真で押入れに眠っているのがあったら使わせてもらえないか・・?」と聞いたところ、こころよく「利用してください。」とその場で返事がもらえ、大喜びをして塚本さんへ伝え、彼も喜んでくれたのを思い出す。
  アメリカ、ヨーロッパへ長期間一緒にした旅は大変楽しいもので、彼の魅力ある人間性に引かれ、今も友人としてつき合っている。 (続く)

●●2014 Sept.●●らくがき帖日本野鳥の会 野鳥生態写真展の今昔

1957年

日本野鳥の会主催の「野鳥の写真展」会場入口にて
撮影 ◆ 岡田泰明
1957年5月10-15日
東京銀座

思えば50年以上も昔のこと、上の写真左端に写っている私が高校生の頃でした。銀座メインストリートの小西六ギャラリー前で通りかかる人に写真展の入場を呼びかけているのが、野鳥生態写真家としても著名な高野伸二さん。お元気で若かりし頃でした。
  この年、トリ年ということでもありバードウイーク行事の一環で、日本野鳥の会としては恐らく前例のない生態写真展の開催を意図したのでした。ところが、必要な写真が全国から集まるものかどうか見当もつかず、現状調査からはじめなければならなかったのです。当時の野鳥生態写真事情がお察しつくというものです。
  開催に漕ぎ着けた前夜には、関係者10名が銀座の目抜き通りの画廊で深夜まで会場の飾り付けに奮闘したのでした。私もお手伝いしたその内の1人で、プラスアルファの思い出として、憧れの周はじめ(吉田 元)さんにその時親しくお近づきになれたのだと記憶しています。
  会場には全国30数名から選ばれたモノクロ写真131点が展示され、6日間で4万人を超える入場者を数えました。画期的な出来事だったのです。

2014年

今年は日本野鳥の会創立80周年。記念写真展がこの10月に開催されます!
  その野鳥写真展に「未来に残したい鳥風景」というタイトルをつけて、それに相応しい写真を公募したのです。何を撮ったものであれ野鳥の生態写真と呼ばれるそのものが全国から集まるかどうか、その結果次第で開催するかどうかを決めなければならなかった半世紀前の写真展とは、まさに隔世の感があります。
  野鳥生態写真家戸塚 学さん等の審査で、1,775点から厳選された入選作品30点が展示されます。当たり前ながら、総てカラー写真です。「鳥風景」から想像されるように、ドアップの野鳥ポートレートとは対照的な自然の中に息づく野鳥の生態写真が楽しめる点で、我が意を得たり。
  東京での開催は、品川のキャノンSタワー オープンギャラリーで10月24日〜11月10日。その後、大阪府、静岡県、北海道、佐賀県、東京都、愛知県、福島県の7箇所を巡回します。
  10月下旬の開催が楽しみです。詳しくは、http://www.wbsj.org/inform/80th-photo-con/をご覧ください。


バード・フォト・アーカイブス(BPA)でも協力

公募作品に加えて、日本野鳥の会80年の歩みと野鳥をとりまく環境の変化をふりかえる写真が展示されます。モノクロ写真の出番です。品川会場ではBPAから10点(巡回する会場の規模によって10点以内)が提供されます。
  ご覧いただける写真は、山階鳥類研究所が所蔵している下村兼史撮影1920年代後半の荒崎の鶴や1934年日本野鳥の会初めての須走探鳥会参加者が写っている資料写真など3点、藤村和男、高野伸二に加え、”現役”の藤岡宥三、百武 充、真柳 元、廣居忠量の諸氏と私の写真を加えての10点です。
  すでにこのホームページで掲載されたものやお馴染みの写真が含まれますが、引き伸ばされた写真を会場で目の当たりにするのは、また一味違った楽しみかと思います。
  モノクロ写真のご提供者には、BPAからこの場を借りて心からお礼申し上げます。

  私としては、1957年銀座と2014年品川での日本野鳥の会の写真展それぞれで、下村兼史、高野伸二、藤村和男の三氏大先輩の生態写真と共に、時をへだてて自画自賛の写真が展示されたことに、感慨深いものを禁じ得ません。

2014 Sept. BPAフォトグラファーズ ティータイム藤波理一郎さん(W)

前回でお読みいただけたかと思いますが、藤波理一郎さんが30年近くも勤められた会社が1990年代末に突然倒産のアクシデント。留見子さんと結婚されて2年も経たない時でした。無収入となって人生・家庭の危機と思いきや、ころがり込んだ自由な時間を待ってましたとばかり(?)、前向きな奥さまとともに貯蓄を取り崩しながらも全米バードウオッチングの旅へ!
  無謀といえば無謀な“快挙”でしたが、私が同じ境遇でアメリカにいたら・・・、やっていたかもなぁと思うのです。日本で同じようなアクシデントが起きたら、マッサオになっていたことでしょう。アメリカで生活すると、時に不思議な経験をすることがあっても不思議に思わないで過ごしてしまえるという社会環境があるように思えるのです。藤波さんも奥さまも、アノ時を振り返れば、きっとニヤリとされるのではないでしょうか。
  藤波さんの全米鳥見旅でのさらなるフィールド経験が、次ぎなる新たな鳥見の人生にと繋がっていきます。


芸は身を助く――ガイド業での世界の鳥見

藤波理一郎

思い出しても途方に暮れる毎日であった。定年間近で丸裸のまま厳しい労働マーケットに放り出されてしまった私のような年寄りには、仕事などあるわけがなかったのです。愚痴や文句一つ言わずたんたんと協力し支えてくれた女房には、今でも感謝しきれません。
  フウテンの鳥見旅を始めて2年後、ありがたいことに、鳥・花を専門にしている旅行会社の社長や部長が手を差し伸べてくれました。旅行会社の勤務経験もいっさいない、しかも働いた人生のほとんどを大企業の国際業務しかやってこなかった気の利かない“でくの坊”をツアーの「ガイド」として使ってくれたのだから、感謝の気持ちでいっぱいであった。
  ド素人で不出来なため客から文句の多いガイドであったが、約10年間、無事に(?)仕事を続けることが出来、世界中を飛び回って旧大陸、新大陸、アジア、オセアニアの色々な鳥をたっぷり見ることが出来たのであった。
  スカンディナビアのノルウエイ、フィンランド、オセアニアのパプアニューギニア、中南米のコスタリカ、ベネズエラなど、何回も訪問し好きになった国々のいくつかの思い出を共にしていただけたらと思います。それらの国々で見た鳥はもちろん、接した人々の心の優しさ、おっとりした気持ちの暖かさ、そして素朴さは、今でも忘れられません。


NORWAY

北極圏でのバードウオッチング
2001年3月30日
ノルウエー

  ノルウエーのバランゲル半島にある小さな漁村バルデーの冬群れでエサ採りするホンケワタガモと北極圏内でしか見られないコケワタガモを見るバーダーたち 夜はオーロラを楽しむことが出来た ここは北緯68度の北極圏よりさらに400キロも北であるが メキシコ湾流の暖流のお陰で年間通じて凍らない


偶然の出合い Mr.Mullarney(左)と藤波さん
2002年3月30日
ノルウエー

  バランゲル半島の町バルデーのホテルのレストランで 朝食時に偶然 "Birds of Europe" の著者の一人 Mr. Killian Mullarney と出会い 楽しい団らんの時間を持つことが出来ました しかも図鑑にサインをしてもらい 記念撮影にも笑顔で応じてくれる実に気持ちの良い人でした


バランゲル半島の荒涼とした原野で
2001年6月
ノルウエー

  ノルウエーの北の果てでは家も車もほとんど見ない 初夏と言えども風は非常に冷たくセーターの上にヤッケを着る冬なみの装備 点在する小さな池にはオオハム アビが泳いでおり ツンドラの平原には4種類のトウゾクカモメが営巣している 北極圏内の夏は白夜で夜はいつまでも明るく 夜中近くでも鳥見が出来る不思議な経験をしました


ニシツノメドリ (Atlantic Puffin)のコロニー
撮影 ◆ 藤波理一郎
2001年6月
ノルウエー ホルネーヤ島

バランゲル半島の町バルデーの港からボートで15分沖へ出ると、海鳥の保護のため無人島として管理されてるホルネーヤ島があります ここは花畑に並ぶニシツノメドリをはじめ ウミガラス ハシブトウミガラス オオハシウミガラス ハジロウミバトなど すごい数の極北の水鳥が集まってますので 迫力満点でした


PAPUA NEW GUINEA

極楽鳥の羽で飾られた帽子を被り得意顔の村人
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年8月
パプアニューギニア

  鼻にさした矢とゴルフで使う雨傘のアンバランスがとても面白く印象的だった この国は極楽鳥の捕獲をもちろん禁止していますが 小さな村では今だに極楽鳥の飾り羽を「シンシン」という祭りの民族衣装の飾りに使用するため コフウチョウ (Lesser Bird of Paradise)などを飼っているようで非常に驚きました


笑顔の子供たちと藤波さん 極楽鳥のいる村にて
2004年1月
パプアニューギニア

  赤道直下のこの国もやはり10回近く訪れた忘れられない所です 戦時中そして戦後と日本と非常に関係の深い国であり どこの村でも人々はとても人懐っこく親切でした
 村落に車で入っていくと、笑顔の子供たちが我々のまわりを取り囲む 撮りたてのデジタルカメラの液晶画面を見せると大騒ぎをします 純粋な村の子供たちの顔は今でも忘れられません 英語にはおよそほど遠い「ピジョンイングリッシュ」(彼らが使っている言葉)で話しかけられるのには参りました
  私がよく行った山岳森林地帯はほとんどが原生林で蛇行する大きな川があり 小さな村から上がる焼き畑の煙が見られる 静かでのんびりした所でした


低地熱帯雨林のセピック川
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年8月
パプアニューギニア

  パプアニューギニアの中でも秘境と言われている地帯は 道路が一本もなく 村人の交通手段は船しかない 村人たちは自分たちで船を造り ほとんど手漕ぎでのんびりと川を上がり下りしている


熱帯雨林の妖精チャガシララケットカワセミ (Brown-headed Paradise Kingfisher)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年8月
パプアニューギニア

  パプアニューギニアはカワセミの種類が大変多く 目を見張るものもいる なかでもラケットカワセミ類は世界で最も美しいカワセミと呼ばれており サンコウチョウのように長い2本の尾を風になびかせて林の中を飛ぶ姿は まさに天女の舞のようである


COSTA RICA

コスタリカのカリブ海側の熱帯雲霧林
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年10月
中米コスタリカ

  新和ツーリスト(現在のアルパインツアーサービス)の旅では中南米の国々もいくつか訪れました その中でもコスタリカは10回近く訪れた所で 北海道より小さな面積の国ですが国立公園や自然保護区が大変多く 太平洋側の低地熱帯乾燥林 中央高地の熱帯雲霧林 カリブ海側の熱帯雨林と自然環境が複雑で まさに野生動物の宝庫でした
  ホエザルが群れで鳴き合い ミツユビナマケモノが高いヤシの木にぶら下がって寝ており 色々な「生きもの」に出会うことが出来ました
  北米から下りて来た 頭上を川のように切れ目なく流れるヒメコンドル ミシシッピートビ ハネビロノスリ アレチノスリなどの混群による壮大な渡りが見られ 時には数千羽のクビワアマツバメの大群による鷹柱ならぬ ”燕柱” も見られ感激しました


ミドリハチドリ (Green Violet-ear)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年10月
コスタリカ サンヘラルド保護区

  コスタリカはハチドリの天国である 宿泊するロッジの庭のフィーダーや花にはたくさんの美しいハチドリが一日中飛び回っており テラスでビールを飲みながら色鮮やかなハチドリを見る楽しさは格別でした





“ケツアール” の愛称で親しまれているカザリキヌバネドリ(Resplendent Quetzal)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2006年10月
コスタリカ

  バーダーのみならず世界中からやって来る一般観光客もぜひ見たい・・・と憧れる コスタリカを象徴する世界で一番美しい鳥、カザリキヌバネドリ 手塚治虫の「火の鳥」のモデルでもあります アボカドの一種 ”アグアカティージョ” の実を取っては長い尾をひらひらさせて舞うように飛ぶ姿は 息をのむほど美しかったです 尾を覆っている飾り羽の長さは70センチで全長120センチもある大型の鳥でした   (続く)


●●2014 Aug.●●らくがき帖あと4年間は死ねない

2018年までは生きなければならない理由を最近見つけた私。それなのに、今ごろ私は熱中症で死んでいたかもしれなかった。五指をこえるメル友のお陰で、今もこうしてコンピューターに向かっている。まだこの世にいるのだという、なんとも不思議な想いで。

高温下で爆睡

異常に暑かった8月の中ごろ、朝日の直射する私の閉め切った寝室は、目覚めた時に34度Cだった。起き出すまでのウトウトしている際にはたまにあるように、ふと名案が浮かんだ。忘れないうちにと起き出し、仕事の相棒にそのアイディアをメールで伝えたのである。折り返し届いたメールには、せっかくの私の名案を一語で片付けていた。
  『ぶはは』だと。さらに、
  『もしかして暑さにやられちゃいましたか??』
  気勢を殺がれ、冷房もつけない34度Cの寝室に戻り、1時間半ほどさらに爆睡した。夜更かしで朝寝坊な私なのである。

予想しなかったこと

後に届いた別のメールでちょっと脅かされた。
  『34度Cで爆睡というのは、年寄って温度感覚が鈍っているんじゃないの? 下手をすると熱中症でもう起きてこなくなるかもしれませんよ。』
  え? 死んでるってことぉ?! それはイヤだな。別に無理とか我慢してるわけじゃないのだけど、冷房必要でもないし、第一キライで、昨年の猛暑でも来客時以外は空調を使ったことがなかったのだ。

  さらにいくつかメールが――
  『それって、一番ヤバいパターンですよ! 今まで医者にかかったことなかったのに、初めて寝ながらめまいで起き上がれず・・・みたいな患者が多いそうです。(略)暑くないんじゃなくて、暑さを感じてないだけってことがあるらしいですから、我慢しないで冷房をつけましょう。(略) あ、あと、酒も脱水症状を促進するからダメらしいですけど。』
  『ちゃんと水分も摂ってねん。』

酒は、寝しなに良く冷えたジン BEEFEATERをストレートで1、2杯呑むだけだから問題ない。水分は特に多くは摂っていない。若かったころ、山へ行ったときなど、おちょこ一杯分くらいの水を口に含んで“よく噛んで”飲むように、と山男に言われたものだ。水一口の大切さが身にしみている。適度な水分をこまめに摂るようにとの特に高齢者向きの報道には、別に気にもしていなかった。

生死を分けた老人の自覚

・・・閃いたのだ。私の身体が、完全に“老人性体温感覚不感症”になっているのだ、と。34度C爆睡体験は確かにヤバイ! にわかの実感として、高温の中で寝ていて水分不足では、死ぬ。よくぞ、私は生きてきた。しばしば報道されるように、一人住まいの高齢者が死んで発見された時「部屋の空調は使われていなかった」のだが、使う必要を感じていなかっただけなのだ。後期高齢者の被保険者証を受け取ったばかりの、まさに昨日までの我が身ではないか。
  ぶふぅ〜〜〜。こりゃ、空調も扇風機も使って水分も摂って、生きなければ! そう悟った瞬間から私の日常は一変した。死なずにこの世で2018年を迎えねば!
  そんなもんかなぁと思わせ死なないきっかけをくれたメール、そのメールを書いてくれた優しい心の持ち主には、感謝してもしきれない。

  そして、さらに他のメールは――
  『それでは熱中症で死なないようにネ。』
  わかってますよって!!

2014 Aug. BPAフォトグラファーズ ティータイム藤波理一郎さん(V)

藤波さんが現在お住まいのアメリカのアリゾナ州は、かつて一度だけミシガン州からドライブ旅行で走り抜けたことがあるので、広いアメリカ大陸で私にはまったく知らない土地ではないのです。お陰で、メールばかりでなく、気持ちでも太平洋をへだてた藤波さんと繋がっているような気がしています。
  アメリカ南部のそのアリゾナから、過日藤波さんが郵送したという貴重なスライドが、待てど暮らせど届かなかったのでした。原稿の締切は迫る。まさか紛失? 船便ではないよなぁと心配し、メールで問い合わせてみて、驚いたのでした。
  『もうちょっと待ってください。何しろ私たちの住むツーソンは田舎町、郵便のシステムが昨年変えられ、一度アリゾナの州都フェニックスに集められ、そこからやっとアリゾナ州を離れるようです。実にのんびりしてます。以前は6日から7日ぐらいで届いてましたが、新システムではたぶん10日ぐらい掛かるものと思われます。
  なお、米国から海外へ出て行く郵便物は「船便」がなく、すべて航空便ですのでご安心を!』
  なるほど〜、ちょっきり10日で届いたのでした。世の中なんでもスピードアップなのに、なんだか割り切れないアメリカの田舎に藤波さんご夫妻は住んでいるのです。そのアリゾナに移住する以前の藤波さんの、ニューヨークでのやはり信じ難い出来事が今回いくつか書かれています。
  初めに登場される女性とは、私は東京で一目しかお会いしていませんが、チャーミングな上にそういう方だったのだと原稿を読んで初めて納得。その留見子さんが一番お好きだというクロボシアメリカムシクイには、記録を辿ってみたら私は1963年5月16日に初めてフィールドで見ていました。このアメリカムシクイに関する限り私の方がアメリカでのバードウオッチングの先輩かなと、つまらんことを思ったりして、アリゾナでの藤波さんご夫妻との再会を夢見ています。


波乱に充ちたアメリカ生活

藤波理一郎

探鳥会をリードするRumikoさん
撮影 ◆ 藤波理一郎
1995年4月
アメリカ ニューヨーク セントラルパーク


Rumikoとの出合い

1990年のある日、私の仕事上付き合った米国の企業のパーティーで Rumikoという日本人女性と知り合った。私より20才近く若く、米国で学生時代を過ごし、そのままアメリカ住まいを続けているということだ。
  彼女はもともと自然や生きものが好きだったので、知り合ってまもなく何回か鳥見に連れて行ったところ、その面白さにはまり熱心に探鳥会などに出るようになった。彼女は耳が非常に鋭いので鳥の声を覚えるのが早く、特にアメリカムシクイの声による識別は抜群で、探鳥会でも目立つようになってきた。
  そんなこともあって1995年頃から数年間ニューヨークのルネン協会(ニューヨーク特にマンハッタンに住む愛鳥家たちの集まりで歴史の長い由緒ある会)のセントラルパーク探鳥会のリーダーを頼まれるようになった。また、学校の校外授業で子供たちに鳥見のすばらしさを教えたりもした。


カナダガンと一緒なら一安心?の藤波理一郎さん
1976年冬
アメリカ NY セントラルパーク

  1970年代のセントラルパークはNY市の深刻な財政難で公園は整備されておらず しかも非常に治安が悪く間違っても一人での鳥見は怖くて出来ませんでした いつも数人のグループでお巡りさんにエスコートしてもらっての探鳥でした 公園専任のお巡りさんで鳥見が終わると チップ(現金)をしっかりと喜んで受け取ってました


Rumikoは持ち前の人に好かれる明るい性格と遠くで鳴くソングバードの識別を手早くするので大変評判が良く、瞬く間に人気者となった。そんなある日、彼女のグループに参加してきた The Nature Conservancy(全米組織の自然保護団体の一つ)のボランティア役員の女性から、セントラルパークのバードウオークを手伝ってほしいと頼まれた。気さくで飾りっ気のないウエンディーという名のこの女性は、アメリカムシクイの越冬地である中南米に野生保護区を造るための調査活動に無償で働いていた。後々になって、彼女は当時のゴールドマンサックスのCEO 、後にブッシュ政権の財務長官のポールソン夫人であることが判り、大変驚いた。


クロボシアメリカムシクイ(Canada Warbler)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年5月
アメリカ ニューヨーク郊外

 黒いネックレスがとてもかわいく セントラルパークの女性バーダーに人気があり Rumikoが一番好きなアメリカムシクイです


ニューヨークとくにセントラルパークの鳥見歩きでは色々な人種に出会える。ブロードウエイのミュージカルの女優や男優、ニューヨーク交響楽団の演奏者たち、そして作家などなど、普段接することの少ない色々な職業の人たちと一緒に歩き鳥談義が出来る機会が多かったので大変楽しかった。さすが世界の大都市の公園であることをつくづく感じさせられた。


私の勤務先が倒産

1996年私が「米国永住権」を取得したのを機会に、ニューヨークで留見子と結婚することになった。ここまでは全て順調に人生が進んできたが、新婚生活2年も経たないうちに30年近く勤めた私の勤務先が突然倒産し、定年間近で丸裸のまま厳しい労働マーケットに放り出されてしまった。私のような年寄りには仕事などあるわけがなく途方に暮れる毎日であった。
  そんな時でも人生をけっしてネガティブに考えない女房は暗い顔一つせず、これまで通りたんたんと私を支えてくれた。職場そして仕事を失って無収入となってしまったが、私たち二人とも医者いらず薬いらずの健康体に恵まれ、また「どうにかなるや!」という少々お目出度いのんきな頭にも恵まれ(?)たので、生活を思いっきり縮小しなくてはならなかったが、少ない二人の貯蓄を取り崩しながら何とか乗り切ることが出来た。これも愚痴や文句一つ言わずたんたんと協力してくれた女房と、陰ながら応援してくれた今は亡き父と母のおかげであり、いつも感謝の気持ちを忘れないようにしている。
  しかし、完全に仕事から離れた2年間は豊富な自由時間を持つことが出来たので、このチャンスを何とか頑張ってものにしようと無謀にも思い立ち、車を転がしてキャンプをしたり、時には車の中で寝泊まりしたり、また友人知人らの家を泊まりながらのケチケチ全米旅行を楽しんだ。


アカフウキンチョウ (Scarlet Tanager)
撮影 ◆ 藤波理一郎
1998年4月
アメリカ テキサス アランサス国立野生生物保護区 (Aransas National Wildlife Refuge)

  冬を中南米で過ごすソングバード (Songbird) たちの多くは メキシコのユカタン半島からガルフ湾へ出て500キロ近い距離を一気に飛び続け 対岸のテキサスに下りる この時期の早朝にはすっかり飛び疲れてエネルギーを消耗した渡り鳥たちを 何羽も見ることがある 普通 高い木の枝に止まる姿しか見られないこのアカフウキンチョウでも標準レンズで撮影出来るほど近づいても動こうともしなかった。


アメリカソリハシセイタカシギ(後列) (American Avocet)
撮影 ◆ 藤波理一郎
1998年4月
アメリカ テキサス メキシコ湾ボリバー半島 (Bolivar Peninsula)

  とつぜん春雷が鳴り強風と雨が降り出すと 渡り途中のアメリカソリハシセイタカシギの大群が岸辺近くに集まり出した レンズの中に収まりきれないほどの長い列であった 前列右手前にクロハサミアジサシ (Black Skimmer) 2羽とワライカモメ (Laughing Gall) の混群も下りて来た


サンショクサギ (Tricolored Heron)とアリゲーター (American Alligator)
撮影 ◆ 藤波理一郎
1998年1月
アメリカ フロリダ エバーグレイド国立公園 (Everglades National Park)

  フロリダではアリゲーターとクロコダイル (American Crocodile)の2種類のワニが見られる 内陸の川や沼でごく普通に見られるアリゲーターは エバーグレードでもそこらじゅうにいる こいつを主役に写真を撮ろうとカメラを構えたところ 昼寝中らしくなかなか目を開けてくれない そこへサンショクサギが現れたので「オー! いよいよお目覚めかな?」と期待した ワニはまったく動こうとしない サギも心得ててゆっくりワニの前を歩きながら知らん顔で横切って行ってしまった


アメリカは社会資本が非常に充実しており、特に簡単に自然と接することが出来る国立や州立の公園、野生生物保護区などは設備が良く整っており、しかも利用費が安いので貧乏歩きをする私たちには大助かりであった。そのお陰で北米の鳥を400種以上たっぷり見ることが出来た。後に自由業を立ち上げて探鳥ガイドの仕事をすることになるが、この時の経験が大いに役立つことになった。


9・11テロ事件――今でも忘れられないアメリカ生活で一番衝撃的な出来事

世界貿易センター(WTC)ビルは延べ14年間通い、通勤のたびにあの美しいビルを朝昼晩眺め、ビル内で仕事をしたところでもあるので、大変愛着のある懐かしい建物であった。


抜きんでた世界貿易センタービルの夜景は忘れ難い
撮影 ◆ 藤波理一郎
1998年10月
アメリカ ニューヨーク


ハドソン川に浮かぶ豪華客船(クイーンエリザベス号)が滑るように世界貿易センタービルの前を通過してゆく
撮影 ◆ 藤波理一郎
1998年9月
アメリカ ニューヨーク


出勤の時見上げる朝日に輝く110階建ビルはとても美しく、そして夕日に赤く染まる姿も格別なものだった。また、オフィスから見渡すニューヨーク湾、自由の女神、大西洋から静かに入ってくる豪華客船、ニュージャージー、ペンシルベニアの地平線に沈む大きな夕日などなど、それはそれは素晴らしいものだった。
  風の強い日などは天井の梁が軋む音がギーギーと響き、机の引き出しが開くこともあったし、トイレの便器の水が揺れてピチピチと動いていたり船酔いのような気分になることもあった。オフィスに上がる時は巨大なエレベーターで一挙にものすごいスピードで持っていかれるので、毎朝耳がピーンと鳴って痛くなることもあった。
  こんな色々な思い出のあるビルが2001年9月11日のテロで一瞬にして崩壊してしまったショックはものすごいものだった。崩壊10日後、恐る恐る現場に行き、二つのビルの残骸を見た。地下からはまだもくもくと煙が立っており、配られたマスクをしていても5分も立っていると苦しくなるぐらい凄い瓦礫の粉塵が舞ってた。ビル一階のコンコースの大きな窓枠の残骸が夕日を浴びて突っ立てた光景がとても印象的だった。
  まるで戦場のようなあまりにも凄い情景で、カメラのシャッターを押す気にぜんぜんならず、テロへの恐怖に震えショックで疲れきって行方不明の友のことを考えながらそうそうと現場を離れた。現場で目にした凄まじい情景や粉塵の臭いは、今でも時おり思い出すことがある。

  以前にこのビルで勤めていた会社が倒産していなければ私はたぶんこの事件に巻き込まれていたかも・・・と思うと複雑な心境になる。そして生前父が一緒に酒を飲むと必ず「会社が潰れて無くなってしまったのは悪いことばかりではなく、良いこともあるな・・・」とよく言っていたのを思い出す。(続く)

●●2014 July●●らくがき帖夏が来たぁ

暑中お見舞い申し上げます

「なんだってこう急に暑くなるんだ〜」梅雨明けのギラつく太陽にボヤくのは例年のこと。

  1950-60年代に東京湾奥の炎天下の干潟でバードウオッチングしていた頃は、それは猛烈に暑かった。思い出すだけでも、アノ頃の暑さに怯えるほど。それでも、耐えてシギやチドリを見ていたのであるから驚く。そのころ、たまに日本脳炎が新聞の話題になったが、「熱中症」などは聞いたこともなかった。

  年を追って、気がつかない内に夏の平均気温は確かに上がったようだ。昔は30度を超えたあたりで暑かったのが、近年東京でも35度前後の真夏日や猛暑日となる日が少なくない。全国的に記録的な暑さがニュースとなる。熱中症に倒れる人が後を絶たない。人間が自然から離れて生活し、心身が軟弱になったからとばかりも言えないようだ。

  つい空調に頼る。節電ムードはどこへやら、空調効き過ぎの "冷房病"で一歩外に出れば、太陽の照りつける猛暑に曝される。これでは人間たまったものではない。暑さに我慢できる限りの自然体の自衛策を心得なければなるまい。空調なんてなかった私の若かりし頃はどう暑さを凌いでいたのだろうか、などと思いめぐらす。

  BPAフォトグラファーズティータイムで連載を始めた藤波理一郎さんから、原稿と共にメールが届いた。『アメリカ南部のアリゾナは、毎日35度から40度の猛暑です。日向にいるとクラクラしてきます。』
  東京の今日の猛暑がいくらか涼しく感じられる?!のである。

2014 July BPAフォトグラファーズ ティータイム藤波理一郎さん(U)

先月は図らずも藤波理一郎さんと私の“兄貴分”であった高野伸二さんの特集となったために、藤波さんの連載(U)が今月となりました。この欄には珍しく投稿原稿ということで、私はラクができると思っていました。あにはからんや、アノ写真があったハズだ、こんな写真はないのかと、ご迷惑をも顧みずメールのやりとりで、アメリカはアリゾナにお住まいの藤波さんを忙しく巻き込んでの原稿作り。思ったほどラクはできませんでした。人間、ラクをしようとしてはいけませんね。
  普段みかけない景色や鳥の写真でフォトグラファーズ ティータイムにふさわしくビジュアルでも楽しんでいただければと思っています。


アメリカにヨーロッパに 海外での鳥見三昧

藤波理一郎

私は仕事の関係でサラリーマン生活の半分以上を海外で生活をし、リタイアした今もずっとそのまま米国で生活を送っている。
  1970年代中頃に米国ニューヨークへ赴任して、私の長い海外生活が始まった。

世界貿易センタービルのオフィスでの藤波理一郎さん
1997年10月

  オフィスのある98階から 静かなニューヨーク湾が見下ろせた 私の左手肘のあたりに自由の女神が小さく見える 4年後 まさに私が立っているこの位置の10階真下に飛行機が突っ込んできて ビルは炎に包まれ崩壊することになろうとは・・・。


ニューヨークの夜景
撮影 ◆ 藤波理一郎
1998年10月
アメリカ ニューヨーク

  満月の明るい光が川面と世界貿易センタービルを照らし 夜のニューヨークならではの美しい光景である


大都会ニューヨークといっても当時のセントラルパークや近郊は緑が豊かで鳥の数も多く、休暇には何の躊躇もなくバードウオッチングの世界へ入っていった。ナショナル オーデュボン協会(NAS)やアメリカ バーディング協会(ABA)などの会員になり、休日のたびに探鳥会へせっせと通った。そしてここで初めて出会った「アメリカムシクイ(Wood Warbler)」にすっかり魅了されたのだった。
  アメリカムシクイの類は新大陸(アメリカ大陸)ならではの鳥で、日本やヨーロッパでは見られない。全米で54種類と数が多く、ニューヨークなどの東側だけでも38種類が見られる。ほとんどの「アメリカムシクイ」が中南米のコーヒー園で冬を過ごし、春になると北上してくる渡り鳥である。ほとんどの夏羽は色鮮やかで、"Songbird" と呼ばれ鳴き声にも非常に特徴がある。特に冬が長く厳しいニューヨークでは、春の訪れとともに聞こえてくる「アメリカムシクイ」などの "Songbird" のさえずりは、待ちに待った胸に響く春の報せである。
  色鮮やかで可愛らしい「アメリカムシクイ」、しかし初心者にとってはその姿を双眼鏡に入れるのすらなかなか難しい。ほとんどが体長11センチから14センチと小さく、しかも大きな高い木の葉の茂る樹冠近くでエサ取りしたりさえずったりと活発に動き回るから大変である。
  セントラルパークは彼らにとって渡り途中の通過地なので、短い期間(主に4月5月)に混群で集中してやってくる。そのため目だけでなく耳による鳴き声での識別が必要で、図鑑やテープなどしっかり予習をしなくてはならない。
  そして秋、「アメリカムシクイ」が越冬地中南米へ渡って行く時は、これまた識別に大変苦労する。何しろほとんどが春のような色鮮やかな夏羽はすっかり変わって地味なさえない色となり、しかもさえずらないのでオスなのかメスなのか若鳥なのかすら判らない場合が多い。識別力を高めるのには大変な努力がいるので、なかなか奥が深い苦労のしがいがある鳥種なのである。
  毎年春になると、休暇をとってはアメリカムシクイの渡りを求めて米国内を歩き回ったほどであった。

オウゴンアメリカムシクイ (Prothonotary Warbler)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年5月
アメリカ ニューヨーク郊外

  黄金色に輝く美しさからアメリカムシクイの中でも特に人気が高い セントラルパークでも出現すると大騒ぎとなる


昔、高野伸二先生にがっちり仕込まれた鳥見の基礎力は衰えておらず、アメリカムシクイを見始めてすぐ、当時の鳥仲間から「なかなかやるなー」と誉められたのでした。鳥仲間がたくさんでき、ニューヨーク近郊はもちろんフロリダ、コロラド、テキサス、アリゾナなどへの旅をしながら新大陸の鳥見を満喫した。




ハマシギ 海岸で休息する大群の一部(上)と飛び立ち
撮影 ◆ 藤波理一郎
2008年1月
アメリカ ニューヨーク ジョーンズビーチ

  カナダで零下40度近い極寒の日が数日間続いたため 大挙して下りて来た1千羽近い大群 寒さから身を守るため羽毛を膨らませ互いに体を寄せ合って北風に向かってならんでいる 砂浜がほとんど隠れてしまうぐらい まるで大きな灰色の岩の固まりのようである
  大きな波が打ち寄せると 驚いたように一斉に舞い上がる 砂浜に座っている私の周りは一瞬にしてハマシギに包まれ 目の前の大西洋が見えなくなるぐらいすごい迫力である


ヨーロッパで

1982年から89年までの8年間、ヨーロッパ(ベルギーとドイツ)で生活をする機会があり、旧大陸の鳥見も楽しむことが出来た。一年の半分近くを出張しなくてはならないほど、仕事に追われる忙しい生活でした。
北ヨーロッパは一年の大半が天候が悪く一日中太陽が照ってる日が非常に少ないため、頑強な身体に恵まれた私でも最初の年は珍しく4回も風邪を引いてしまって少々滅入ってしまった。そこで、「太陽に当たれ」という医者の勧めもあり、春先のイースター休暇にはオランダの北海に浮かぶテセル(Texel)島、冬のクリスマス休暇を南スペイン、アンダルシア地方のドニャーナ国立公園で鳥見をすることにした。

テセル島は北海とワッデン海の間に横たわる小さな島で、首都アムステルダムから北へ上がり半島の突端の町”Den Helder”からフェリーに乗って30分で着く。海岸には砂丘が続き、島の中央は草原や森林があり、三分の一は自然保護区に指定されている。特に春は北欧へ渡って行く水鳥が多く、渡り途中でまだ半夏羽のエリマキシギ (Ruff) は毎年楽しみの鳥の一つだった。


毎年3〜5ペアーのソリハシセイタカシギ (Avocet) が営巣する中州
撮影 ◆ 藤波理一郎
1987年5月
オランダ テセル島


ソリハシセイタカシギの営巣
撮影 ◆ 藤波理一郎
1987年5月
オランダ テセル島


テセル島の初春 ミヤコドリ (Oystercatcher) の群れとオランダ名物の水車
撮影 ◆ 藤波理一郎
1987年4月
オランダ テセル島


半夏羽のエリマキシギ(Ruff)北欧へ渡りの途中
撮影 ◆ 藤波理一郎
1987年4月
オランダ テセル島

南スペインのドニャーナ国立公園 (Donana National Park) はヨーロッパ最大の自然保護区でユネスコの世界遺産に登録されており、ラムサール条約登録地でもある。もともとスペイン王室の狩猟場で、これをスペイン政府とWWFが協力して約7,000ヘクタールの土地を取得し、1969年に国立公園となった。アンダルシアのグァダルキビル河口に広がる湿原にはたくさんの水鳥たちが越冬していて、特にオオフラミンゴの群れが河口深く入ってくるので、公園のエルロシオ村から簡単に見ることが出来た。
  地平線まで続くアンダルシアの果物畑、風にのって漂うオレンジの甘い香り、そしてオナガ。日本や中国でしか見られないオナガがなぜかスペイン特にアンダルシア地方に多く生息しており、オレンジ畑などで群れをなして飛んでる姿を見ると、大変懐かしく日本を思い出していました。
  そしてここだけに生息するスペインカタジロワシ (Spanish Imperial Eagle) や絶滅危惧種のカオジロオタテガモ (White-headed Duck) などが見られたことは、今でも忘れられない貴重な思い出となっている。

ドニャーナ国立公園のエルロシオ村
撮影 ◆ 藤波理一郎
1987年12月
スペイン アンダルシア地方

  この地方独特な白い壁の家並みと聖堂 そしオオフラミンゴが越冬する水辺です


オオフラミンゴ (Greater Flamingo) の群れ
撮影 ◆ 藤波理一郎
1987年12月
スペイン アンダルシア地方

  冬でも温暖なこの地でのんびりとエサ取りしている


アメリカへ戻る

そして1990年代には再度ニューヨークで生活をする機会があり、「アメリカムシクイ」との再会に狂喜した。と、日本人ながら新大陸のこの鳥たちについ熱が入ってしまうほど魅力ある種類なのです。

クロズキンアメリカムシクイ (Hooded Warbler)
撮影 ◆ 藤波理一郎
2008年5月
アメリカ ニューヨーク

  黒い頭巾と黄色味のボディーとのコントラストが実に美しい この鳥は好奇心が強く人をあまり恐れないので こちらがじっと動かないでいると足下近くまで寄って来て エサ取りしたりさえずることもある


2014 June BPAフォトグラファーズ ティータイム高野伸二さんのこと

今月は藤波理一郎さんの連載第2回の予定でしたが、さっそく割り込んでしまって、藤波さん、ご免なさい。
  藤波さんの第1回は、期せずして高野伸二さんのお話。中学生だった藤波さんに野鳥や自然をとことん教え、“兄貴のような存在”だったのが高野さんであったことは、前回お読みいただいた通りです。
  実は、その高野さんに私も中学生のころから大学卒業まで腰巾着のようにくっついて、フィールドで野鳥の識別などを教わってきました。青春時代を過ごした私の“兄貴分”です。
  そんな繋がりで、藤波さんと私は“義兄弟の仲”(!?)であることが、再認識されたのでした。

藤波理一郎さんから(その1)
  『懐かしい高野先生の写真が一枚だけ残ってました。1955年8月軽井沢千ヶ滝、先生のカメラ(アサヒレフ)を借りて私が撮った写真です。先生はまだ教育大の学生です。「捕獲した蜘蛛を標本にするため瓶に入れているところ」と記憶してます。』

  大学を出てから19回!も引っ越したという藤波さん。19回目はアリゾナで、ついこの前。引越先の片付いていないトランクをひっくり返し、高野さんの写真が2枚だけ見つかったと、原稿締切直前にメールが送られてきたものです。

二人の“兄貴”高野さんは、かつて野鳥界で全国にその名を知らぬ人はいないだろうと思われたほどの“野鳥識別の神様”。そして暖かみとユーモア、ちょっとシャイながら謙虚さとで周囲の人々を魅了する、そんなお人柄と併せて“野鳥界のミスター長嶋”ともささやかれた実力と人気を兼ね備えた方。
  野鳥やクモ以外の生物にも博識で、絵筆に写真、文筆も立つ。口笛での鳴き真似上手。早口話から小話を含めて話は面白いし、歌は歌う。さらに、相撲、芝居、ゲームならトランプ、花札、麻雀などなど。唯一の欠点?は、お酒の類がまるでダメ。およそケタ外れのナチュラリストでした。
  高野図鑑のお世話になり高野さんを知る者にとっては、並みの表現ながら生涯ほんとに忘れられない人。今日のバードウオッチャーには、没後30年でお名前すらも馴染みが薄くなっていると思われるのは、致し方のないことです。

  私が2004年にバード・フォト・アーカイブス(BPA)を立ち上げたことなど高野さんは知る由もありませんが、私にとってはこの「ティータイム」が始まって最初に選ぶのはまずこの人と、その初回、2012年Jan. 高野さんにご登場いただいたのです。BPAホームページにお名前や生態写真こそ出てくるものの、肝心の高野さんの全体像がわかるご紹介をこれまでどこにも載せたことがないままに過ごしてきてしまいました。
  そこで、藤波さんの連載第1回で高野さんが話題になったのを機に、その最後に高野さんの経歴や業績などを纏めておこうと思い立ち用意したのでした。しかし、1回分の原稿にしてはあまりに長くなったのです。さすがの私も思いとどまり、今回の「ティータイム」藤波さんの連載への割り込み掲載となった次第です。


満潮でもシギたちが休めるプラットフォームを干潟に造成した高野伸二さん
撮影 ◆ 塚本洋三
1959年4月10日
千葉県新浜 江戸川放水路河口


■略歴
1926年7月 東京都四谷の生まれ
1944年4月 満州国立吉林師道大学入学
1945年5月 陸軍入隊。シベリア抑留の後帰国
1958年4月 東京教育大学大学院理学研究科博士課程修了。(財)日本鳥類保護連盟勤務
1960年4月 文部省付属国立自然教育園(2年間勤務)。日本鳥学会幹事、日本野鳥の会東京支部長、(財)日本野鳥の会常務理事など歴任
1972年3月 (財)日本鳥類保護連盟退職。フリーとなる
東京都公害監視委員会委員、(財)日本鳥類保護連盟理事、(財)日本野鳥の会編集委員長、文化庁文化財審議会天然記念物部会委員、日本野鳥の会東京支部長、東京都自然環境保全審議会委員などを歴任
1984年10月 死去
   
■主な著書
   
野外観察用鳥類図鑑(共著) 日本鳥類保護連盟 1965年
原色自然の手帖 野鳥 講談社 1967年
野の鳥の四季・高野伸二写真集 小学館 1974年
自然観察と生態シリーズ7 日本の野鳥 小学館 1976年
野外ハンドブック4 野鳥(編) 山と渓谷社 1978年
野鳥識別ハンドブック 日本野鳥の会 1980年
カラー写真による日本産鳥類図鑑(監修) 東海大学出版会 1981年
フィールドガイド日本の野鳥 日本野鳥の会 1982年
フィールド図鑑 身近な野鳥(共著) 東海大学出版会 1984年
フィールド図鑑 クモ(共著) 東海大学出版会 1984年
   
■追悼特集

「野鳥」1984 DECEMBER No.460 pp.14-23.

  他に、高野さんのお人柄がうかがえる一文として、亡くなられてから出版された「野鳥を友に」(朝日新聞社 1985年;朝日文庫 1989年)の高野ツヤ子夫人の書かれた「あとがき」を。
  あわせて、拙著「東京湾にガンがいた頃」(文一総合出版 2006年)に、フィールドでの高野さんが登場していますので、ご参考まで。


■「The Photo/今月の1枚」に載った生態写真
2005 Dec. アホウドリ 2006 Mar. コウノトリ
2006 July セイタカシギ 2006 Nov. マガン
2007 May シマフクロウ 2008 July カツオドリ
2012 JAN. ハジロクロハラアジサシ    
       
藤波理一郎さんから(その2)
  『高野先生がカメラを購入されて最初の頃に撮られた写真です。裏に「1955年9月18日 江戸川放水路河口 オオソリハシギ、アサヒレフ、タクマー135mm F4 1/500 フジSS 」と書かれてました。』

  この1枚は私もよく覚えています。なにしろ当時持っている人も稀な135mmもある望遠レンズを手にいれ、それだけで喜んでおられたのに、こんなスバラシイ生態写真が撮れたのですから。私たち鳥仲間も感心して「よく撮れたね。スゴイねぇ」とか。
  そんな時代の日の目を見ることのなかった、極く初期の高野さん撮影の1枚です。アリゾナから送られてきたとあっては、なおのこと載せないわけにいきません。


■BPAに収蔵されている高野関連資料

高野ツヤ子夫人から寄贈された以下の資料がBPAに保管されています。
(A) 高野さんが生涯撮られたほとんど総てのモノクロネガとカラーポジ、多くのプリント類
(B) 鉛筆書きのポケット版 「フィールドノート 」 (1954年2月〜1984年2月) 26冊
(C) 大学ノートの 「野鳥日記T-]U」 (1941〜1976年) 12冊
(D) 「新浜探鳥ノートT-W」 (1954-1959年) 4冊
(E) 「クモその他」 (1971〜1984年) 1冊
(F) 使い古された小林桂助著 「原色日本鳥類図鑑」 (保育社 1956年)
(G) ご自身が著して使われていた 「フィールドガイド 日本の野鳥」 (日本野鳥の会 1982年)など。


■最後に

私の高野さんは、次の一文を、高野さんが亡くなられてから出版された高野伸二著「野鳥を友に」(朝日新聞社 1985年)のpp.237-239より転載させていただきます。

高野伸二さんのこと

汀線はるか沖合の広大な千葉県新浜の干潟。燃える陽炎に運ばれて、束の間の秋をつげるような、哀調をおびたシギの一声が響く。
  「チョー チョー チョー」
  「ほら、アオアシシギだ」
  いち早く聞き取って、ご自身「チョー チョー チョー」と口笛で応えては、「オレの方が本物よりうまいだろう」といわんばかりの満足げな笑顔を見せる高野さん。鳥の鳴き真似上手な高野さんであるが、アオアシシギの声は、中でも確かに真に迫っている。アオアシの声を真似るのではなく、アオアシの心を口笛にのせているからである。

探鳥といえば山の鳥を聞くのが主流の1950年代初め、高野さんは、詳しいフィールドガイドもない水辺の鳥の識別に取り組んでおられた。相手を温かく包みこんでしまうお人柄にひきつけられ、シギ・チドリ、ガン・カモ、ワシ・タカの豊富な新浜に魅せられた人びとが、高野さんをリーダーに集まって、新浜グループを結成したのが、昭和29年。私は高野さんの腰ぎんちゃくとなって、炎天下も寒風の吹く日も、新浜に通った。

アオアシシギの口笛は、いつのまにか鳥仲間のコールサインになっていた。

ウグイスが柿に来た、ノゴマが現れたと伺っては、東京四谷のお宅へもお邪魔した。二階の狭い部屋に通されて、高野さんの子供の頃のこと、昭和19年、都立第六中学を卒業して、単純に「北の鳥にあこがれて」満州へ渡ったこと、国立吉林師道大学から陸軍へ入隊したこと、シベリア抑留生活を余儀なくされた時、箱にクモを飼ったり野鳥を眺めたりして、一人密かに楽しんだこと、ノガンやオナガフクロウといった夢でしか逢えそうにない鳥をみたことなどを、大好物のミカンをきりなく食べながら話してくださった。

東京教育大学には、昭和33年に大学院理学研究科博士課程を終えるまでの七年間在籍され、「ここでボクを知らない人はモグリだよ」と、研究室で、冷房代わりの水の入ったバケツに両足を入れて、笑っておられた。専攻は菌類。ご当人は「イヤ、微生物の研究でも、ボクのは美しい生物の方で・・・」。その成果は、新浜グループのおひとり、大谷ツヤ子さんという生涯のうらやましき伴侶をみつけられたことで、実を結んでいる。

昭和35年からの2年間を国立自然教育園で、その前後の12年間は日本鳥類保護連盟に勤め、昭和47年からはフリーとなられた。日本野鳥の会の理事等を歴任されるかたわら、生態写真集に、野外図鑑に、エッセイに、徹底したフィールド・ナチュラリストとしての豊かな経験をそそがれた。

高野さんとご一緒だと、まるで生きた図鑑と歩くようだった。野鳥はもちろん、植物、クモ、ハチ、蝶。幅広い知識にプラスして、真面目でユーモラスで、時に短気だが正義感に富んだ、ひとなつっこさが、自然とのふれあいを心から楽しいものにした。全国に、野鳥や自然を保護していく原動力となる多くの人々を生んでいかれたのである。

昭和59年10月15日、病床にかけつけた時、高野さんの意識はすでになかった。なにか話しかけようと思ったが、私には言葉がなかった。なんとか力づけることができるとしたら、あの声だ。「もう一度鳴いて聞かせて、ネ。」背後にツヤ子夫人の穏やかな声がした。右の耳元に顔をよせて、
  「チョー チョー チョー」
  高野さんは、最後のアオアシシギを、きっとわかってくれたと思う。

空にアオアシシギ座はないけれど、高野さんが遊ぶ不朽の天に向かって、私はいまも、ときどき口笛を吹く。

(日本野鳥の会常務理事)

●●2014 June●●らくがき帖

バード・フォト・アーカイブス(BPA)10周年記念 ネット写真展の展示写真に想う

Bird Photo Archives

バード・フォト・アーカイブス設立10年の節目で開かれたネット写真展は、ご支援ご協力をいただいた多くの皆さまに感謝の意を表わせる機会と同時に、この間実際に写真やネガなどをご提供してくださった総ての方々が参画していただける場であることをも意図いたしました。写真展の主人公は、写真そのものではありますが、主催者の私としては、ご提供者お一人お一人の「お顔」も大切なのです。

お一人で写真1点の出品という限定された展示ではありますが、これまでホームページ上などで限られた方々しかご登場いただけなかったので、私としては今回ご提供者全員のお名前が一覧でき、年来の想いが叶ってちょっとホッといたしました。

心残りなのは、写真をご提供いただいておきながらネット写真展が今日になってしまったばかりに、天の高いところからご覧いただく方々がおられることです。この機に改めてご冥福を心からお念じ申し上げます。

加えて、ご提供をいただいた方々への時々に当たってのご挨拶やご報告が心ならずもとかく疎かになっており、それは大変気になっております。この場を借りて、恐縮してお詫びさせていただければ救われる思いです。

BPAアーカイブスの本来的趣旨と現実

BPAに提供された写真は、2014年6月現在で7800余点がデータベース化されています。お一人で1点からダントツ最高1300余点もご提供いただいておりますが、その内今回の写真展では85点が選ばれています。

こうして展示されて、BPAに寄せられた代表的な写真の全貌が初めて一目で見渡せ、写真内容が多岐にわたっていることに、私自身改めて驚いています。それは、「The Photo/今月の1枚」などでは野鳥や自然ものが主流で掲載されてきたことにも拠ると思います。BPAコレクションのイメージは、そのあたりと受け止められてきたかと思っています。データベースに載っている実状は、写真展を一望しての通りなのだと、私も思い知らされたのでした。

BPAアーカイブスのキーワードである「野鳥・自然・人」のうち、自然と人が係わってくる写真は、人が自然に生かされ社会生活をいとなんでいる以上、実はほとんどどんな写真でもOKのような感じは否めませんでした。それ以上に、「こんな写真がみつかりましたが・・・」とご提供を受けると、そのアーカイブス的雰囲気に私自身が魅入らされ、BPAの本来の趣旨とはズレていると感じられても、つい私の方からお願いしてしまうことも多々ありました。
  趣旨が本末転倒になってしまってはタガを引き締めねばなりませんが、これからも多角的にアーカイブスな興味の惹かれる写真はおおらかにご提供いただきたいと願っています。
  一例を挙げれば、大戦時の戦闘機の写真なども捨てがたい魅力があり、「鳥も飛ぶんだし、同じ飛ぶのだから飛行機もいいんじゃない?」と冗談のような理屈で実はBPAのデータベースに登録されています。それらはそれなりにアーカイブスとして貴重な資料でもあり、畑は違っても同じ趣旨を持つ例えば一般財団法人日本航空協会といずれ連携しながら、餅は餅屋での活かし方にさらなる活路が見いだせ、BPAはその橋渡しという考えでもおります。

内心、他所では得難い種々のジャンルの傑作アーカイブス写真がBPAデータベースに登録されるのを、密かに楽しみにもしていることを正直に申しておきます。本来のBPA趣旨を夢夢忘れないことは自明の理として、です。

展示作品について

ネット写真の展示で悩ましいのは、同じ画像データから載せた場合でも、ブラウザーによって、また皆さんがご覧になるコンピューターの機種性能によって、写真の見栄えが違って見えてしまうことです。私の画像技術の未熟さはありますが、ご自分の写真をネットでご覧になって「こんなハズではなかった!」と嘆かれるご提供者には、お詫びする以外に術がありません。因みに、私はWindows 7 搭載のEPSON EndeavorでInternet Explorer を使い、最近はアップした際にGoogle Chrome や Mozilla Firefox をもチェックしています。

ご提供者がイメージされている「最高の画像表現」が私の表現したいものと違っている場合が、トリミングやコントラストなどを含めて、間々あることかと案じております。「1点もののプリント」とは違いますので、その際には、どうぞご遠慮なくお申し出ください。1枚のネガに託すお互いの「想い」や「出来映え」を語り合ってよりよい「作品」に近づければ、そんな楽しいことはありません。出来る限りのことは努力させていただくつもりでおります。

展示された写真で今さら驚かされたのは、被写体にも写真の質にも巾があることです。アーカイブスとして納得のいくもの、いかないもの、どこに出しても「どうだ!」と言える傑作から、アルバムから飛び出したまま故に許されて楽しませてくれる写真まで、さては撮影年代をみて納得できるものなどなど、展示写真の内容は実に変化に富んでいます。
  その巾の広さは意図していたとはいうものの、写真展としては支離滅裂とお叱りを受けそうです。しかし、BPA写真の実態と「実力」が初めて概括して確認できたと考えます。今後しばらくはどこかの政府を真似て、分かるようでいてしかとは分からない“骨太の方針”という表現でいけば、いずれあるべき姿に収斂していくようにも思えます。

ネット写真展では、日本野鳥の会などの写真展で今日的保護の観点から応募が禁じられている野鳥の巣卵や雛の写真も、アーカイブスな写真の観点から選ばれています。時代時代の保護思想や社会倫理などを反映した写真は、過去を学び知る上で載せてしかるべきと基本的に考えており、巣卵などの展示写真が今日の“野鳥保護”活動に水を差すことは意図しておりません。過去を埋没させたり、否定する考えはありません。そのあたりをご理解ご了承の上、未来志向で鑑賞していただければ幸いです。

アーカイブスな写真はモノクロと「相場が決まっている」という感じを受けるのですが、今日デジカメで撮られているカラー写真も、いずれ時を経て振り返るとアーカイブス写真の仲間入りをすることに思いを致せば、そうした写真をなにも拒否するには当たらないと考えるに至っています。ただ、膨大な数量の画像で溢れている今日のデジカメ事情では、ライブラリーしてどうデータベースに取り込むのかは、一人の作業量としては目に見えております。それはそれ専門の筋にお任せすべきで、今日的カラー写真は、BPAとしての“狭き門”を基準としてその趣旨を活かしていけたらと、勝手な思いでおります。

なお、今回のBPA10周年記念ネット写真展は「10年1日の纏め」であり、その一纏めをBPAの記録として残すべく、期限を定めずにホームページ上に掲載しておく予定です。

データベースの公開について

BPAデータベースのネット公開や閲覧のご希望が寄せられるのですが、BPAでは写真見本と撮影関連データの業務上の記録確認や検索を目的としたもので、当初から公開を視野にいれた作成内容ではない点をご理解いただければ幸いです。
  閲覧を拒否する理由はありませんが、データベース上の画像はスキャニングしたままのものです。スッピンでは人前に出て欲しくないとの親の心境とはこのことではないかと思ってしまいます。そのようなBPAデータベースは、ご覧になられても時間の無駄と目に毒というのが正直なところで、お薦めはいたしません。

さらについでながら、写真のご提供者には、提供画像のサムネイル版を覚書に添付しており、該当する入力データをエクセルで打ち出すことは、いつでも応じております。

先を読みつつ どうぞよろしく!

欲を申せば切りがなくなりますので、己の余命を視野にいれ、BPAの後継者探しもそろそろ頭の片隅におきながら、まずはまだデータベース化を待っているざっと4万点を数えるネガなどの整理保存に懸命にならなければと、心を引き締めております。

夢もあります。ホームページ上でしばしば登場する下村兼史の写真展以上の、「ワイルドライフを撮影対象として生涯を貫いた日本で最初の人」兼史の魅力あふれる写真展の開催です。さて?!

夢の実現も含めて文字通り日夜微力を重ねてまいりますので、引き続きご指導ご支援のほど、アーカイブスな写真などのご提供と併せて、どうぞよろしくお願いいたします。

2014 May BPAフォトグラファーズ ティータイム藤波理一郎さん(T)

太平洋をへだててバード・フォト・アーカイブスのサポーターがいると知るのは、有り難いばかりでなく爽快です。そんな気分にさせてくれるお一人が、今回ご登場の藤波理一郎さん。
  60年ほど昔に探鳥会で一緒に鳥をみていて、最後に探鳥したのが中学か高校のころだったのか、私は覚えていないのです。そのまま今日までの間、今世紀になって東京で1回しか会っていないのです。野鳥の写真を撮っているとも知りませんでした。
  思えばなんだか不思議な気さえします。大学を卒業してアメリカへ渡ったのをお互いに知らなかったので、ニューヨークの藤波さんとミシガンの私は北アメリカの陸続きに何年もいながら、交流がないまま。ましてや、藤波さんが仕事で世界を股にかけて奔走しバードウオッチングをしていようなどとは、知る由もなかったのでした。
  さらに、2001年、世界貿易センター(WTC)ビル爆破テロのテレビ報道を東京にいてリアルタイムで見ていた私は、ニューヨークの藤波さんが運命のいたずらで命拾いしていたとは、想像すらつかなかったのでした。
  2006年だったでしょうか、一時帰国された藤波さんからの耳を疑う電話に、 ほんとうにビックリ。寸暇をさいて故高野伸二さんの奥さまのツヤ子夫人を訪ねるというのでご一緒した時が、長い空白を埋めようにも埋めきれない束の間の再会でした。チャーミングな藤波夫人にも初めてお目にかかったのでした。
  確かその時です。私がバード・フォト・アーカイブス(BPA)を立ち上げたことをお話したのは。藤波さん率いるバードウオッチングツアーの参加者の中にも生態写真に興味のある人がいるから、BPAに協力できそうな人を探してみましょうと、サポーターの役を買ってくださったのでした。


日本野鳥の会東京支部の新浜探鳥会
撮影 ◆ 塚本洋三
1955年9月11日
千葉県新浜 江戸川放水路河口

学帽姿の当時中学生の藤波理一郎さん(中央) その2人前が愛称「ナガモノ」 の40倍望遠鏡を小脇に抱えながら鳥を探す 私たちの“兄貴”高野伸二さん


ニューヨークへ戻られた藤波さんからは、拙著「東京湾にガンがいた頃」に載っているマッチ箱ほどの大きさの写真に「ボクが写っているみたいだけど、大きめのプリントを送ってもらえませんか」と。1955年に私が撮った写真。これには、まったく気づかずに載せた私の方が驚いたのでした。
  そんなやりとりから、昔は存在していなかったメールという簡便な手段で、お互いの情報が、暑中見舞いとクリスマス時には長文で、太平洋を行き交うようになったのです。
  メールに書かれ、添付される野鳥などの写真に見る藤波さんからのアメリカ便りには、ワクワクさせられます。いずれBPAのホームページで紹介したいと思っていたのです。それをお伝えしたところ、藤波さんご自身の投稿という予想していなかったステキな形でここに実現しました。今月から連載の予定です。私も悪ノリして、ときどき口をはさみたいと思っています。


高野伸二先生との出会い そして鳥との出会い

藤波理一郎

私が小学校5年生の時、父の知人だった高野伸二さん(当時教育大学の学生)が私の家庭教師となり、一週間に一度我家に来るようになった。
  親は出来の悪いわが子に少しは勉強してもらおうと家庭教師をつけたようだが・・・? これがどっこい! 高野先生(私のなかでは高野さんではなく、いつも高野先生である)は勉強など教えてくれるわけがないし、勉強嫌いの私の性格を先生はすぐ見抜き、先生が得意とする鳥、蜘蛛、蝶などの“生きもの”を喜んで教えてくれた。
  そのお陰で私は彼の魅力にどんどん引き込まれ、彼は私の先生であるのと同時に兄貴のような存在となった。そしてすぐ私も「日本野鳥の会」の会員になり、色々な探鳥会へ出かけて行った。特に思い出のスポットは富士吉田・須走や高尾山、明治神宮、千葉県新浜などである。
  新浜探鳥会では塚本洋三さんに初めて会い、新浜へ行くたびに鳥の見方や識別など色々と教えてもらった。彼も私の子供の時の貴重な思い出の人の一人である。
  中学3年までの約5年間は高野先生に手取り足取り自然、そしてそこに生息する“生きもの”たちの素晴らしさをみっちり教えられた。これはまさに私の現在の自然そしてそこで出会う“生きもの”をこよなく愛する心の元となっており、まさに私の財産の一つでもある。


40倍の望遠鏡「ナガモノ」を覗く藤波理一郎さん
撮影 ◆ 高野伸二
1955年4月10日
千葉県新浜

兄貴分の高野先生が弟分の私(藤波)を撮った貴重な思い出の1枚 その35mmベタ焼きが高野先生のアルバムに残されていたのを発見して引き伸ばしてもらった 今日のようなフィールドスコープのなかった時代に この「ナガモノ」が 識別にスゴイ威力を発揮したのだった


高野先生とのたくさんある思い出に、毎年夏休みになると二人で一週間軽井沢に滞在し、朝から晩まで鳥を見たり蝶の採集をしたり標本作りをしたことである。
  ある時、蝶のキベリタテハとオオムラサキの大量発生の場所を見つけ、嬉々として採集し、二人で標本を幾つも作って夏休みの宿題に提出、金賞を取った思い出もある。鳥や蝶以外にも彼との思い出はたくさんある。その一つに先生は相撲が大好きで、たしか初代朝潮太郎のフアンだったと記憶している。国技館には何回か二人で相撲を見に行き、力士の名前や相撲の組み手(四十八手)などを教えてもらったし、よく彼の信濃町の家の庭で相撲をとっては色々な技を実際に教えてもらった。これらの思い出はまさに私の青春であり、いまだに忘れらないものばかりである。
  しかしその後、高校、大学時代に入り、私はスキー、テニスに夢中になり、おのずと「鳥見」は疎遠になって高野先生との距離も遠くなってしまった。実にもったいないことをしたものだ・・・とつくづく思う。
  ところが、不思議なことに先生が亡くなる一年前の1983年に彼と再度「鳥見」をする機会が巡ってきた。ある大企業グループで企画された当時流行のカルチャーセンターの一つ「自然教室」で高野伸二先生に講師をお願いすることになり、昔のよしみで私が交渉役となつて彼と何十年ぶりに再会した。もちろん彼は快く講師を引き受けてくれたので、週一回2ヶ月間ほど私も彼の講義を聞き、その後ゆっくり彼と親しく話をする機会にも恵まれた。また、高尾山などの鳥見を彼とまたすることも出来、じつに懐かしい子供の頃聞いた心地良い彼独特な語り口(いわゆる高野節)を再び聞く幸運な機会を得られたのである。
  まさかこれが彼との最後になるとは・・・・思ってもいなかった。しかし、こうして最後に彼とゆっくり会えた強運と彼との不思議な絆を今でもつくづく感じており、彼に感謝している。(続く)

●●2014 May●●らくがき帖流行語に乗らない男

これはもしかして
'ある意味'新種のカエルではないかと
思われるのですが


‘ある意味’――私には耳についてどこかカンにさわる言葉。間投詞のように‘ある意味’を連発されると、面食らうのです。テレビをONにすれば、司会者、解説者、タレント、政治家、インタビューするアナウンサー、それを受ける街の人、人、人・・・。登場する人物皆が皆 ‘ある意味’におぼれていましたね。

聞きたくない言葉は自分では使うまいと決めて我を通した方が、‘ある意味’日常にハリがあるというものです。
  聞きたくない言葉は自分では使うまいと決めて我を通した方が、日常にハリがあるというものです。
  聞きたくない言葉は自分では使うまいと決めて我を通した方が、《世の中にちょっと逆らっているように感じられて》日常にハリがあるというものです。

ほとんどの場合、‘ある意味’を加えなくても話は通じているのではないでしょうか。‘ある意味’に《どんな意味があるのか》説明してくれれば、私とて納得がいくのに。
  説明無しに‘ある意味’が使われると‘ある意味’は無意味なだけカンにさわるし、《説明があれば》口にする必要はないという誠にヘンな単語ではあるのです。話をしているご本人が、そのあたりをどのくらい意識しているのでしょうか。

不思議なことに、‘ある意味’を使われると、聞いていることが‘ある意味’実にもっともらしく聞こえるのです。それは‘ある意味’話し手には大変都合のよいことなのでしょうが、話し手の真意が肝心なところで聞き手に伝わってこないので、聞く身にしてみれば‘ある意味’困惑させられる。そう独り合点しています。

私自身は言うまい使うまいと決めてきましたが、多少のイジをはっている内に 昨今‘ある意味’を口にする人は激減してきました。それは‘ある意味’大変結構なことと、内心ほくそ笑んでいます。
  なぁに、流行語にそんなに目くじら立てるなんて、それこそ‘ある意味’ムダなこと。人生気楽にいきましょう、か?

2014 April BPAフォトグラファーズ ティータイムアル・メイリィさん

古いカセットテープを整理している最中でした。懐かしい声が流れ出てきたのです。声の主はAl Maley。私がミシガン大学に留学していた頃、デトロイトにほど近い大学町アナ―バーを中心に活動するアナ−バー オージュボン協会(全米組織のナショナル オージュボン協会の一地方支部)で知り合いました。 協会のフィールド トリップのリーダーを務めていたのです。
  地元のバードウオッチャーでは、当時フィールドスコープを持っているのはアルだけで、いかに本腰でバードウオッチングに熱中しているかが察しられたのです。この人なら識別は大丈夫だろうと、アルの腰巾着になって車であちこち連れて行ってもらったのでした。識別の難しいアメリカムシクイ類やなんたらスパロウ類などを、よく教えてもらったものです。異国でバードウオッチングする私になくてはならない鳥友だったのですが、小さな町のどこに住んでいて何をしているのか、あれほど一緒にバードウオッチングしたのにまったく知らないという、サッパリしたものでした。


フクロウ三昧はアルのお陰

私が見たくてしょうがない鳥はフクロウ類だと知ったアルは、フクロウの仲間が見られるように、なにかと気をくばってくれたのでした。アルと私のそんな間柄をよく表していると思われるのを、その昔、「野鳥」誌に連載していた「続・ミシガン便り」(3)『あこがれの鳥・夢の鳥』(1977年3月号)の冒頭に書いたのを思い出しました。アルの声をテープで聴いて余計に懐かしく思いながら、件の拙文のコピーを棚から引っ張り出したので、再録してみます:

  「テックスと俺は、明日、北ミシガンへ探鳥にいくから、お前も来なければいかんゾ。」 ヤブから棒に、鳥友のアルから横暴な電話がかかってきた。真冬の北ミシガンなんて、雪ばっかりでおっくうな感じがした。
  「何が出たんだい?」
  「何だろうと我々と一緒に来なければ、ひどく後悔するよ。」もったいぶってアルは続けた。
  「我々はHawk Owlを見ることになろう。」
  「ホークアウル(オナガフクロウ)!」 オーム返しに私は大声をあげた。行くも行かないもない。話は一挙に決まった。
  「じゃ、あした、4時半に迎えにいくから用意しとけ。」
  「4時半? ずいぶん遅い出発だな。」
  「朝、朝、朝の4時半、いいな。」
  電話を切って、私はつぶやいた。「朝の4時半ね・・・」

  かくして私のあこがれの鳥を見る貴重なチャンスをくれたアルは、凍てつく北ミシガン原野の森の梢のてっぺんに止まるオナガフクロウを、約束通り見つけ出してくれたのでした。
  一事が万事、他にもアメリカフクロウ(Barred Owl)、コキンメフクロウ(Saw-whet Owl)、トラフズク(Long-eared Owl)、アメリカワシミミズク( Great Horned Owl)、シロフクロウ(Snowy Owl)、コミミズク(Short-eared Owl)、ナヤフクロウ(Barn Owl)、アメリカオオコノハズク(Screech Owl)。フクロウというフクロウは、みんなアルのお陰で楽しめたのでした。

  1種だけハズしたのが、カラフトフクロウ(Great Grey Owl)。アメリカ滞在中で唯一のチャンスは、1972年3月4日。この日、いくら私が方向音痴だからといっても間違えようがないほど詳細な手書き地図をアルからもらって、カラフトフクロウが現れたというトロントの東へ、独力で探しに雪のハイウエイに車を走らせたのでした。その時の顛末は、アルの撮った写真と共にThe Photo 2008 DEC.「あこがれのカラフトフクロウ」に載っています。よろしかったら、どうぞクリックを。




カラフトフクロウが飛んできた

私が帰国して1年半ほどたった1979年11月20日に、ひょっこりアルから航空便が届いたのです。なんとカラフトフクロウを抱くアルの写真のコピーが入っていたのでした。1種見損ねたまま帰国した私を覚えていてくれたに違いないと思うと、やたらと懐かしく嬉しかったのでした。
  アルを見上げるカラフトフクロウの体の割に小さな目が、なんとも可愛いではありませんか。裏のメモ書きでは、前の冬に北ミシガンでカラフトフクロウにネズミ(Deer Mice)を数百匹も給餌してきたようです。そんな多くのネズミをどう集めたものか、22羽ものカラフトフクロウをどうカウントしたのかは、定かではありません。
  「Yozo、たっぷりネズミをもってUPへオナガフクロウの給餌にいかないか」(”UP”は、ミシガン州北部のUpper Peninsularを指し、”ユーピー”で通っている)と誘われたことがあって、どうやって給餌するのかなと思ったことはあったのでした。同行しなかったので状況がわかりませんが、それがアルのすでに所在の知れたフクロウ類との付き合い方で、“餌の不足勝ちな厳冬期のフクロウ助け”を楽しみにしていたようでした。
  カラフトフクロウは1羽でも見られれば乾杯ものなのに、22羽とは私を羨ましがらせるにも、ほどがあろうというもの。似たような話では、私たちが同じUPでシロフクロウを21羽も見たことを思い出したのです。1975年のこと。その時もアルと一緒だったなぁ。私が実際に見てカウントしていなければ、ヒガミ半分、俄には信じられない21羽ものシロフクロウですが・・・。
  メモ書きに“This one came in for a real close look!”と書かれていても、どうしてカラフトフクロウがアルに抱かれているのか、なんとも迷うのです。想像ですが、アルのことだから、「ここにご馳走があるよ、食べにおいで」とミトンの先で差し出したネズミを空腹なカラフトフクロウが採りにきて、そのまま抱かれてのツーショットなのでしょうか。
  「ほら、元気でいけや」と思いやり、飛び去るカラフトフクロウを見送る厳冬のUPでのアルが、私には目に浮かぶようでした。昔のように現場に一緒でないのが、実に残念ではあったのです。


いつの日か再会を

アルのその後の消息は、とんとわかりません。ご当人は、2004年に私がバード・フォト・アーカイブスを立ち上げたことなど、知る由もないのです。ましてや、アルとカラフトフクロウが、このホームページに登場しているなどとは。
  今やネットの世の中、何かの弾みでアルがBird Photo ArchivesのThe Photoの存在などをネット上で見つけ出してくれるやも知れず、一縷の望みが膨らむよう、今回はフクロウの和名に横文字をつけてみたりして。
  そんなわけで、実は、ひょんなことからアルとの再会が実現するのを、密かに楽しみにしているのです!

●●2014 April●●らくがき帖「軍艦島 1974」に見た トリミングのない写真

JCIIフォトサロンの展示広報を見ていて、宅島正二作品展「軍艦島1974――緑なき島を去る人々 その時――」が目を引きました。折良くついでがあったので久々のモノクロ写真展を楽しみに行ってみたところ、予期せぬすてきな刺激を受けたのでした。


時代の節目をカメラに

「軍艦島」は、島影が戦艦「土佐」に似ているからと付けられた俗称。長崎県にある端島(はしま)のこと。全長約1200メートルの緑のほとんどない島に、炭坑夫が家族もろとも最盛期には5200人もの人が、ほぼ完結した都市機能を備えた高層集合住宅に高い共同体意識で密集して住んでいたそうです。
  「1974」は、エネルギー源の石炭が石油に取って代わられ、島全体の炭坑が閉山となって住人が島を退去した年。長崎県生まれの宅島氏は、すでに多くの人々が島を去った閉山2ヶ月後に急遽出かけ、軍艦島最後の姿をカメラに記録されたのでした。
  展示写真80点は、放置されたままなおまだ生を宿す鉢植えと静まり返って廃墟と化したアパートとの対比など、あるがまま見るままを、「時間が限られていて歩きながらスナップ風に撮りました」という作品。しかし、写真の1枚1枚に宅島氏の思い入れと鋭い視線がそそがれ、撮り方はスナップ風でも、写し出されたものには背景にある歴史と共にズンと重いものが感じられるのでした。つい魅せられてしまいました。
  同時に、写真は島の歴史の断面を遺した記録資料でもあるのです。「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の一部として、世界文化遺産への候補となり、写真が語る重要な歴史資料となることが期待されます。
  撮影後40年間も埋もれたまま公開されたことがなく、今回が本邦初の写真展になったというのが、どこかやりきれない思いでした。


トリミングなしで引き伸ばされた写真ばかり

額装された1点1点をゆっくり追っていて、ふと気がついたのが、総ての写真の枠が細く黒いことでした。昔の写真風にみせた写真によく見られる、周辺が細い黒枠つきなのです。引き伸ばしの際にわざわざ80点に黒枠をつけるとは、手間のかかること。さてもその意図が私には読めなかったので、会場で宅島氏にお聞きしてみました。
  なんと総ての作品が35mmフィルムネガ一杯にトリミング無しで伸ばされたとのこと。黒枠は、そのノートリの視覚的な証拠ともいえるものでした。常にトリミングしたくなる私には、そんなことが現実に出来るものかと、ガク然。と同時に、日本にもアンリ カルティエ=ブロッサム流に撮る写真家が現におられるのだと、感激ひとしおだったのです。
  なんでもトライXフィルムの丸缶に入るだけのパトローネ入りの35mmネガフィルムを持って島に渡ったので、フィルムはムダには使えなかったとのこと。例えば、「上の公園で遊ぶ先生と児童たち」と題された、構図や光線の具合、そして人物の自然なポーズを瞬時に的確に決めた写真も、2枚しかシャッターを切らなかった内の1枚だそうです。
  そして、どんな時でもトリミングを意識して撮ったことはないとは・・・。思えばファインダーを覗いてシャッターを押さんとする時は確かにトリミングのことなど考えてはいないのですが、それでいて、それだからなのか、宅島氏のどの写真もフィルム枠一杯にスキのない構図で撮られているのが、私にはまったくナゾでしかありませんでした。なにか別の意識が、恐らく撮影センスが瞬間に意識せずに働いているのでしょうが、スキもムダもない構図はスゴイことだと思ったのです。

  宅島氏は、今はデジカメを使っておられますが、連写のないあの頃の撮影は、これぞシャッターチャンスの醍醐味と感じられる撮影が楽しめたと述懐されていました。商業写真家としては、今にしてフィルムにこだわっていては仕事にならない現実があるので、「切り替えていくしかないですね。」
  なにはともあれ、モノクロ写真の魅力一杯の見応えのある写真展でした。


写真展とは関係があるような無いような・・・

私は「軍艦島 1974」を書き終わったのに、ここに突如登場したカラー画像は、私が写真展へ行かなければ載らなかった1枚です。このページには毎回なにか1枚画像を添えていますので、蛇足と知りつつ選んだのでした。
  ご覧の通り、JCIIからの帰路、皇居の千鳥ヶ淵を歩いていて目にとまった、葉桜です。寂しいほどのその葉桜が反逆光で静かに美しく感じられて珍しくシャッターを切ってみたくなり、そんな気の起きるときには得てして自画自賛が撮れるもので、ハイ、結構気にいっています。しかも、写真展で感激のノートリ写真ばかりを観た直後だったので、ここはイッチョ意地でもノートリミングで撮ってやろうと決めて撮ったところが、自称“トリミング魔”の私としては自己満足の1枚。というだけのことなのでした。

2014 Mar. BPAフォトグラファーズ ティータイム西崎敏男さん

2014年1月29日深夜、西崎敏男さんが逝ってしまったのだ。
  日取りの決まっていた次のお見舞いには西崎さんを元気づけようと、西崎さんご自慢の野鳥写真でパワポのストーリーを用意していたのに、それを見ていただくことはなかった。車椅子に三脚をくくりつけてでも、いま一度白鳥を狙ってシャッターを押す喜びを西崎さんに味わって欲しいものと。これも叶わなかった。


西崎敏男さん 塩原の探鳥会にて
撮影 ◆ 相本幸一
1960年代後半
栃木県塩原




遠い出合い

探鳥会で初めて西崎さんにお目にかかったのは、覚えがないほど昔のこと。だが、その頃のお顔は思い浮かぶのである。ちょっと特異な雰囲気でカッコ良かったから。あまり人と連まないようで一見近づき難い印象を受けたのであるが、どうして一度口を開けば、やや大声の陽気なジョークで探鳥に暮れる一日を彩っていた。どういう謂われか私は知らないが、いつのまにか「ミドリさん」の愛称で呼ばれたりしていた。


白鳥の写真が呼んだ再会

私はたまのバードウオッチング以外におつきあいもなく、何十年もお会いしないままに、「ミドリさん」を忘れかけていた。ところが、白鳥の写真があるので、一度バード・フォト・アーカイブスで見てもらえないかと声をかけてくださった。つい7年ほど前のことだった。
  しばらく約束を果たせないでいたら、再度のお声かけ。どうも、いわゆる白鳥の生態写真という一般の見方からすれば、西崎さんの撮られたものはちょっと“はみ出た類”であるらしく、それを私が見て何というか、西崎さんは興味を抱いておられるような気がしたものだ。
  拙宅近くの喫茶店で落ち合ってみると、私の記憶にある西崎さんと違って、やや緊張気味。「こんな写真なんですが・・・」と、遠慮勝ちに取り出されたカラープリントを一見して、「え、うわ〜!」
  てっきりモノクロ写真かと思っていた私は、一瞬意表をつかれた。そんなことより、望遠レンズを構える皆さんがなぜこういう写真を撮らないのかと思っていたそんな白鳥の写真が、目の前にあるではないか!
  確かに写真は一味違っていた。白鳥は野生のものには違いないが、オオハクチョウとかコハクチョウとかが写真で識別できるできないは、どうでもよかった。あまり白くない白鳥がお構いなしに画面一杯に躍動している。写真の面白味に溢れていた。わが意を得たりの私。プリントに目が釘付けになったのだった。


オオハクチョウ
撮影 ◆ 西崎敏男
1977年3月
北海道濤沸湖
  光と影と躍動感  白い白鳥が黒く写っていようと 文句の言いようがありません


オオハクチョウ
撮影 ◆ 西崎敏男
1977年3月
北海道濤沸湖
  私は 自称“トリマー”(トリミング魔)というくらいで 写真を見るとすぐどこかトリミングしたくなる癖があります 少しでもよい構図に仕上げたいからです 驚いたことに 西崎さんの写真は そんな私にトリミングを許さないのです ここに載せた白鳥5点は いずれもノートリミング ため息がでてしまうほどスキがないのです


オオハクチョウ
撮影 ◆ 西崎敏男
1977年3月
北海道濤沸湖
 35mmフィルム一杯に1羽の白鳥を“決める”西崎さんの行き届いた写真センスには 脱帽の他ありません


オオハクチョウ
撮影 ◆ 西崎敏男
1977年3月
北海道濤沸湖
  東京から近場の越冬地で給餌に慣れている白鳥には目もくれず 北海道まで遠征して撮る西崎さんの白鳥写真にかける心意気が ひしひしと写真から伝わってきます 大自然の“空気感”や“野生”の表現を大切にして撮っているのでしょう


オオハクチョウ
撮影 ◆ 西崎敏男
1977年3月
北海道濤沸湖
 光や背景の描写と相俟って 白鳥が躍動する越冬地の情景までが感じとれます


西崎流“生態写真”撮影術

プリントを見た私の反応に、西崎さんの口が軽くなった。「いや〜 洋ちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいですなぁ。」
  それからがスゴカッタ。“こだわりの西崎流”撮影術が、機関銃のように語られたのだ。
  野鳥の中でも特に白鳥を狙って撮っていた西崎さん。“はみ出た類”の“生態写真”撮影の根底には、ガンコとも思えるこだわりがあったのだ。
  使うフィルムはほとんどがコダクロームU。早い動きの鳥を撮るというのに、ASAたったの25しかない。レンズはもっぱらレフレックスレンズ、ニッコール1000mm (F11) 。それと 400mm (F5.6) を使う 。カメラはニコンF2。
  メカ系のこだわりはまだしも、超望遠レンズで35mmフィルムの枠一杯を使った構図、逆光気味の光線の捉え方、そしてシャッターチャンスの冴え。コレを撮りたいという意図がフィルムの隅々にまで表現されている。狙いすまされた1枚1枚なのだ。
  撮影に際してのこのこだわりには、恐れ入るばかりであった。誰にも真似はできまい。作品を決定づけるのに最も肝要な写真センスで西崎さんはいつも勝負し、それを楽しんでおられるのだと思った。
  その楽しみも、今となっては確かめようもないが私が想像するに、普段から頭の中で「絵コンテ」を描き、撮影を想定するところから始まっていたのではなかろうか。この光線を受けて白鳥がこう飛んできたら、アノ瞬間をこんな構図で・・・。これなら縦位置で待って狙い、光線が許す限り背景の森影を活かして、などと。その絵コンテが現場の状況に応じて修正され、ここぞ一発のシャッターチャンスに結びつくのでは。
  西崎さんは、生態写真撮影の醍醐味を知る数少ないお一人であったに違いない。
  仲間と最後のバードウオッチングとなった前年(2013年)北海道道東への1週間の長旅でも、デジカメでバシャバシャ湯水の如くシャッターを切っていた仲間が心配?してか、「西崎さん、シャッター押してた?」「10枚くらい撮ってたんじゃない?」だったそうだ。私は、デジカメ時代に被写体を目の前にしてそんな僅かしかシャッターを切らない人がいるのかと、半ばアキレ、半ば感心した。1回のシャッター、1枚のフィルムにかける西崎さんの執念にも似た情熱には、聞いただけで圧倒されたのだった。
  こだわりがガンコに思えないのは、ご本人、そうすることを当たり前のように思えて撮っておられたからではないのだろうか。


発表された写真作品

コーヒーをお代わりしながら話が弾んで、長年の二人の空白は一挙に埋まった感があった。嬉しいことに、バード・フォト・アーカイブス (BPA) への写真提供を二つ返事で承知してくださった。実に、BPAデータベースに登録されたカラー画像112枚のうち、84枚が白鳥だった。そういえば、「白鳥の西崎さん」と誰かが言っていたのを思い出した。
  その白鳥の写真がBIRDER誌の口絵を飾ったのは、喫茶店での再会から間もなくの2008年1月号だった。当時、同誌に私が担当していたモノクロ写真連載ページにも、西崎さんの写真を選ばせていただいた: 2007年10月号 p.15(スーット体を浮かして キョクアジサシ)、2008年3月号 p.15(鶴の大輪舞)、2008年12月号 p.16-17(道――バードウオッチング)。
  このホームページのThe Photo「今月の1枚」では、2008年JAN.(“貌”―争い)、2010年OCT.(ニシツノメドリ)が載っている。
  白鳥以外ではどの写真をご紹介しようかと迷うのであるが、私好みのものを数点選らんでみた。西崎さんも天の高いところからゴキゲンで眺めてくださっているに違いない。


キョクアジサシ
撮影 ◆ 西崎敏男
1981年6月
アイスランド
  影となった湖畔の溶岩を背景に 水面にダイブした後スーッと中空に浮かび上がったキョクアジサシに陽が当ったところを狙って撮ったもの 西崎流35mmフィルム一杯に構図された必殺のシャッター


ニシツノメドリ
撮影 ◆ 西崎敏男
1981年6月
アイスランド
  これもトリミングはしていません ここでも西崎さんの不敵な構図魂が静かに窺えます


雪降る夕暮れのカラス
撮影 ◆ 西崎敏男
  お話を伺っていると この1枚はかなり西崎さんのお気に入りのようでした プリントにすると 気に入ったような色が出ないとボヤいておられました 私も大好きな写真です


強そうなカラス
撮影 ◆ 西崎敏男
1978年3月
北海道濤沸湖
  “トリマー”の私にも出番を作らせていただこうと 西崎さんの写真の最後の2枚だけを四角にトリミングさせていただきました 原板は大自然の中で息づく西崎さんならではのカラス表現ですが ここでは私はカラスの醸し出す雰囲気を強調する構図にしたかったのです。西崎さん、いかがでしょう? 


2羽のカラス (氷上のダンス?)
撮影 ◆ 西崎敏男
1978年2月
北海道濤沸湖
 

西崎さんの夢

二度目に同じ喫茶店でお目にかかったとき、一連の白鳥のカラースライドをみせてくださった。それは、国際的なフォトジャーナリスト、報道写真家の三木 淳氏に観ていただいたものだそうだ。「三木 淳さん [三村 淳さん] が『これ、これ、これっ』って、目の前で20枚選ばれたのが、フレームに印のついているコマです。」と。
  三村 淳・・・。私はびっくりした。びっくりついでにどういう経緯でそうなったのかは聞きそびれたが、このページの最初に登場した水しぶきをあげて飛び立つ1羽の白鳥の写真が、三木 淳氏に選ばれた内の1枚なのです。

  閑話休題: アノ時、2人で結構興奮気味に話をしていたことは覚えているのですが、その時、大いなるスレ違いに気がついていませんでした。西崎さんの奥さまに、アップした後でご指摘いただいて事実が明るみに・・・。
  写真を観ていただいたのは、 三村 淳氏(写真集 The Nature of Japan 2000 のアートディレクター)ではなく、三木 淳氏だったのです。私がびっくりついでの早トチリで、[三村 淳] と聞こえてそう思い込んだのです。西崎さんは西崎さんで三木氏を、私は私で三村氏をアタマに置いたまま、三木・三村を口にしてもお互いに疑う耳をもたずに会話は進行していたということだったのです。
  小さなスライドをルーペで覗きながら、撮った人も観る人も、 やはり平常心ではなかったようです。それほど白鳥の写真は、西崎さんご自身ばかりでなく、私をも夢中にさせたことが、今にしても良くわかりました。

  西崎さんは、白鳥の写真展を開きたい心積もりだったのではなかったのでしょうか。それなら西崎さん、三木氏に選ばれたという20枚の画像がどれだかすぐ識別できるように、BPAのデータベースに記録されています。記録は「三木 淳」に訂正しましたので、ご安心ください。
  天国でも生態写真展ってあるんでしょうね・・・。


私の夢 そして別れ

日本での野鳥生態写真の草分け下村兼史のファンでもあった西崎さんに、かつて、私の生涯の夢として“下村兼史写真展”を開きたいと話したことがあった。まだ遠い遠い夢の話だというのに、マジメに受けとめた西崎さんは、写真展のタシにしてくださいと件のBIRDERの原稿料をBPA自然保護積立金口にご寄付くださったのだった。そのことが、それから5年以上も立っていまだ夢と現実の狭間にいた私の背中を、ドンと押してくれることになったのだ。
  お見舞いに伺ったときだった。写真展を口にするのをまだ内心ちょっと躊躇しながら、やはりお伝えしなければ・・・。
  「西崎さん、下村兼史の写真展きっと開くから、それまで元気でいなきゃダメですよ。見に来てくださいよっ。」
  「・・・ありがとう。」
  やっとの一言。心なしか眼が潤んでおられたような車椅子の西崎さん。それが最後の一言になってしまった。合掌


●●2014 Mar.●●らくがき帖「年月日」には心して & 先月(2014 FEB.)の訂正

The Photo 「今月の1枚」 2014 FEB.で、「年」の表記を間違えてしまいました。お詫びして後半で訂正させていただきます。まず、その関連として気になっていたことから:


必ず「年月日」を!

「年」といえば、今が今年だからこそ、「2014年」と頭に入っていてすぐに出てくるものの、これが「月日」しか記録されていないままに数年経つと、もう何年のことだったか思い出せない場合がほとんどではないでしょうか。「確か1998年だった・・・」とかでは、記録としては確かどころではないことになります。
  「月日」には、10年後、30年後にでも正確なデータが伝わるよう、必ず「年」をつけよ、と心している私。心していない向きには、「年」を記入しましょうと声を大にして言いたいのです。
  確かに筆者は、書いた時は承知しているのでしょう。時経て読む者には、さて何年のことなのか不確実なために、引用するのに戸惑う例が間々あるからです。



私が最近困った例では、内田清之助博士が佐渡で初めてトキの卵の殻を採取した年と、トキを撮影した下村兼史と同年同時期に内田も佐渡にいたのかを確認したかった時です。内田の「論説 珍鳥朱鷺の棲息地」が日本鳥学会の「鳥」8(37):93ー101に載っているのですが、読めば:
  「私は昨年此等の地方を視察する機を得たので・・・ (p.93)
  「佐渡到着の翌日五月二十八日直に現場に赴くこととした。 (p.98)
  「私が佐渡へ行った前々日から前日にかけて、・・・ (p.99)
  「附記 私が佐渡へ行った後で、下村兼二氏はトキの写真撮影の目的で、昭和七年八月中旬及昭和八年五月下旬の二回佐渡に渡航し、其の第二回目にはトキの営巣状況を撮影することに成功した。 (p.100)
  同誌の発行は、昭和八年十一月。原稿が書かれたと思われる文末の日付けは、 (昭和八年六月十二日)となっている。
  果たして、内田は、何年に佐渡に行ったことになるのか? 文面から昭和7年(1932年)と断定できるのか? 内田と下村は佐渡で同年同時期にいたハズだとする見方があるのだが、実際には2人は佐渡で会っていないのでは・・・? その疑問を文面の年月日情報から解けないものか?
  内田の論説を素直に読めば、内田が佐渡に渡ったのは1932年だよということになるのでしょうが、改めて問うて、迷わず引用できるほど確実に文面から「年月日」が読み取れるのでしょうか・・・。

  上記の例を見るまでもなく、「月日」はよし書かなくとも、「年」だけは書き残してくれた方が、年代が特定できて良かったということが多いかと思います。今日の出来事であっても、「2014.3.27」と、「年月日」を一つのものとして書き留める習慣をつけるべきでしょう。“日記”ではなく“年日記”の意識です。
  特に報告文や著書などでは、後に読まれた時に何年のことなのか読者が迷う余地のないように心掛けたいものです!


正解は1954年

さて、The Photo 「今月の1枚」 2014 FEB.の小見出しで、「1940年代以降の生態写真」の4行目と「岩松健夫のタンチョウ写真集とICBP」の2行目に「1953年」とあるのは間違いで、「1954年」が正しいのです。
  これは、私のうっかりミスでした。出典の「丹頂鶴」(北海道新聞社 1961年)のp.56に「私(岩松健夫)のツル第1号は昭和29年5月24日、阿寒郡鶴居村宮島崎の湿原での撮影で、丹頂のヒナです。」とありますが、実は、そのすぐ上の行に「昭和28年12月」の記載があり、不注意にも私は西暦換算する際に「昭和28年」に目移りしてしまったようで、“昭和28プラス25”で“1953年”となってしまったのでした。
  私がミスった数字が一人歩きしないことを願って、くどいですが、正解は「1954年」です。


ミスにお気づきの際にはご協力を

「年月日」の記載はいつも注意しているつもりですが、やってしまいました。しかも、「あれ、オカシイじゃない?」と同じページを読んでいて感じた箇所があったと、複数の方からご指摘いただきました。上記のミスで凹んでいたので、さらなる年表記ミスがあったかとガックリ。そんなに皆さん「らくがき帖」を良く読んでくださっていると感激したいところだったのに、さらに訂正することになった私の気持ちはそれどころではなかったのでした。
  ところがオカシイ箇所がどこだったか皆さん覚えていなくて、俄に特定できないとのこと。私は原稿の総ての「年月日」を再度出典と突き合わせねばならないことになったのでした。
  結果は、さらなる年表記ミスは私には見つからなかったのですが、なにか他にもミスにお気づきでしたら、どうぞお忘れなき内にご指摘いただければ助かります。


The Photo 2014 FEB.の付記

BPAでお世話になっている伴 義之さんから、周はじめ著「滅びゆく野鳥」(法政大学出版局 1957年)の「ツルをたずねて」p.42で、1952年 にタンチョウの写真が発表されているとご指摘いただきました。ありがとうございます。
  この記録は、雑誌の口絵写真ではないので言及しませんでしたが、The Photoで紹介した口絵写真の載った雑誌「鳥」の本文(p.10)で、同じ筆者が「北海道新聞釧路支社のカメラマンが1952年6月に西別原野でタンチョウ2羽の鳥影をキャッチして紹介したのが、同原野での 最初の発表である」と記述しています。
  この口絵写真より早期に撮られてどこかに発表されたタンチョウの写真は、他にもあるかも知れません。こうした新聞紙上発表などの古い年代のタンチョウ写真にお気づきの際には、ご一報いただければ幸いです。

2014 Feb. BPAフォトグラファーズ ティータイム杉崎一雄さん (U)

杉崎一雄さんは、海外へはいつも一人か恭子夫人と連れだって行く。登山の経験もない杉崎夫人がエベレストのベースキャンプ(標高5,300m)まで登ったときには、杉崎さんは酸素希薄な登山隊のキャンプまで登ることはないと同行しなかった。理由がふるっている。「そんな高いところで見たい鳥はいないよ」と。見たい鳥を見るのに苦労はいとわないが、たとえ鳥がいても“ムダなことをして見てはいけない”といった考えなのだ。“なるべく安上がりで見る”は、その考えの延長上にある。
  ケチって鳥を見損なうのも嫌いである。コスタリカでカザリキヌバネドリ(ケツァール)を探した時は、レンタカーを奮発して走り回り、2カ所で見つけることができたという。


ケツァールを撮ってはみたが・・・
撮影 ◆ 杉崎一雄
2006年2月
モンテベルデ、コスタリカ
  色彩美を誇るケツァールであるが 林の中にいると手前の葉にピントがあってしまい また長い尾のダンディな全身を美しく撮るのが思うにまかせない(カメラ術の問題だとは ご本人ウスウス気づいたらしい)
  ままよとデジスコで近くから狙ったら 「画面一杯過ぎて こんな“赤ふんどし”が撮れて ヤル気しなくなったよ」と ポツリ 


杉崎流の海外探鳥

海外での探鳥に熱をあげていった杉崎さんに私は同行する機会がなく、バードウオッチングでの彼我の距離はどんどん開いていった。私はもっぱら聞き役で楽しんでいる。
  聞いていると、都合の悪い現地情報を知っていても知らぬふりをして探鳥を敢行してしまったことも少なくない。見たい鳥見たさの思いがなせるとはいえ、“無事に帰れたからよかった”級の探鳥旅行をよくぞ体験してきたものである。いくつかを控え目にご紹介しておきたい。


パプアニューギニア

ポートモレスビーに着いてすぐ旅の打合せをしていて注意されたことは、女性はレイプされるし、男性は金や物を盗られるし、エイズやらで、僻地に鳥など見に行ってはいけない、だった・・・。タリの部落へ鳥を探しに行くと言ったら、「2人だけでとんでもない。部落間で戦争しているから、危険だから行くな。保険も出ないし。」と、どこかの添乗員にも止められた。
  タリの部族は、どうも遊びごとのように戦闘好きのようだ。杉崎夫婦がタリで滞在した晩に、ゴチャゴチャ会議しているようであった。言葉はもちろん分からないが雰囲気がどうもオカシイと思ったら、その時仕返しの戦争をしかける相談をしていたらしい。
  2つの部落の娘と男が、結婚のプロポーズにブタやニワトリなど貢ぎ物をしなければいけないところ、それをする前に仲良くなってしまって、そのあたりでイザコザがあってこちらの部落の1人が殺されてしまったらしい。真新しい土饅頭を見て納得した。
  厄介なことに、お目当てのゴクラクチョウがみられると聞いたその場所が、部落間の戦闘地区だったのだ。頼んだタクシーの運ちゃんは一方の部落に属していたので怖がってしまい、引き返すからと途中で車を降ろされてしまった。なんの合図か狼煙の上がっているのを見ながら、そこからは歩くしかなかった。そして、仕返しをするあたりの抗争の場で、部族の一団に遭遇してしまったのである。

交戦中の一方の部落の男たちと杉崎恭子夫人
撮影 ◆ 杉崎一雄
1993年8月
タリ、パプアニューギニア

写真だけ見れば、杉崎夫人の笑顔はラストスマイルになりかねなかった状況とは思えない。一緒の男たちは仕返しする部落に戦争をしかけている最中だというその場の話を聞かされて、私は写真を見つめ直した。当の杉崎夫妻が無事に私の前にいるのが不思議な気さえした。
  その時、手に手に弓矢や銃を持った部族の男たちが、フィールドスコープを覗いている杉崎夫妻の周りに集まってきたそうだ。ヤバイなんてものではない。そこからが、杉崎さんの普段からオトボケとも思える真面目で物怖じしない穏やかな性格と人徳がモノを言ったのだと思う。不安を顔に出す代わりに、男たちにていねいにフィールドスコープを覗かせてあげて、互いの気持ちを通わせていったようだ。
  「時間はかかったけど」と、その場その時を振り返って話をする杉崎さんのいつもと変わらない顔に、現地人との巧まざる交流術がうかがえた。わかってもらえれば、男たちは人殺しにいく最中とは思えない陽気な笑いを浮かべ、記念の写真を撮ってもよいことになった。
  一つ間違えれば何が起きても不思議はない僻地の争いの場で、かくして待望のオナガカマハシフウチョウの♂を見つけたのである。世界で39種の内、これまで見た28種のゴクラクチョウの中でも、もっとも感慨深い1種だと杉崎さんは述懐する。杉崎夫人の方は、どのゴクラクチョウであれ、やっと見つけたときの感激は、「暑い」「かゆい」「疲れる」といったシンドイ思いとの抱き合わせなのだが、想定外のハプニングが加わったタリでのアノ時の1種はそれはそれは忘れがたいとのこと。マラリアの予防薬で返って危ない目にあったのと併せて、生涯の体験を土産にしたのだった。


インドネシア

東南アジアへはよく足が向いたようだが、インドネシアのイリアンジャヤへ行くのには、パプアニューギニアではなんとかなった杉崎さんの自称“インチキ英語”が通じないらしかったので、まずインドネシア語を学んだ。行ってみたとこ勝負で行き着いた僻地での実力は、「こっちの言うことは分かってもらえるが、向こうが話すことはわからない」レベルだったそうな。(注:「こっちの言うことが分かってもらえたのか、分からない」と私が聞き違えたのか、書いている内に定かではない気がしてきた。)

  飛行機でハルマヘラ島へ着いて、さらに湾の対岸に行くには、海は風が危ないので朝一番に行けとは言われた。しかし、渡してくれる漁船がない。ホテルで連泊している内に、やっとみつかる。
  海を渡ったラビラビの部落でまず酋長に謁見し、タバコとか(ライターがよいと言われてたくさん用意したのは、空港で没収された)の貢ぎ物をした。そうしないとコトが先へ運ばない。島の人たちは食べるに不自由なく、ノビノビ暮らしているようだった。そこここに子供たちの多いのには、ビックリさせられた。
  2泊した宿は、といっても、フウチョウの見られそうな林の中に、島の男が木を切り払い、枝を組合せ、木の葉で屋根をふいて、あっと言う間に作ってくれた小屋だった。
そこで、夜明けだけにちょっと見られるチャンスのある固有種のシロハタフウチョウを首尾良くみつけたが、もう1種見たかったカラスフウチョウは失敗した。因みに、カラスフウチョウは杉崎流に表現すれば“見ておかなければいけない”ので、後の別のところへの旅で再度挑戦し目的を果たしてきている。

  イリアンジャヤの一番西のバタンタ島は、近接する小島ワイゲウ島とともに固有種のゴクラクチョウの1種が見られる世界唯一の場所。海峡を10kmほどチャーター船でわたって着いた島の宿は、遠目によさげな現地風だった。


泊まった宿の正面玄関で 小屋番の人と杉崎さん夫妻
撮影 ◆ シャッターを押したのは もう一人の現地人
1996年8月16日
バタンタ島、インドネシア

当てこんだ観光客やバードウオッチャーも来なくなって大きな掘っ立て小屋と化した宿は、杉崎夫妻の他には誰もいなかった。雨漏りがしてきたが、「中でテントを張って寝たので、問題はなかった」。
  「ここで私たちが消息をたっても、誰もわからないね」と話合ったその島で、お目当てのアカミノフウチョウを見つけ、無事日本に帰ってきたのである。


ペルー

絶対してはいけないといわれたのに車を降りて道を訊いているスキにパンクをしかけられ、見張っていたハズなのにカバンを1つ盗られてしまった。それでも鳥見たさ故に覚えたスペイン語を頼りに、ついにオウギワシ、コンドル、最もお目当てのオナガラケットハチドリなどを見つけた。
  NHK「ダーウインが来た」でテレビ画面に羽ばたくのを見るのと違い、やっと巡り会えたオナガラケットハチドリと同じ空気を吸って、目の前で超美しく舞う実物を見たときの感動は、話しを聞いただけでも想像に余りがあった。


なんとしても見たかったコンドルを求めて
ビデオ撮影 ◆ 杉崎一雄
2009年8月
ナスカ近郊、ペルー
  狙って最初に訪ねた岩山の 必ず見られると言われた崖を睨んで半日待った 見えたのは 崖に残された白い糞だけだった
  諦めきれなかったところ 海岸で見られるとの意外な情報をナスカで得て ジープで案内してもらう 道も草木もない殺伐とした平坦な台地が突然崖となって海に落ち込み 沖からの寒い風が吹き付けるあたり なるほど 崖の中腹に休んでいるコンドルの10羽ほどにであえた 

1羽いるだけで巨大な鳥
ビデオ撮影 ◆ 杉崎一雄
2009年8月
ナスカ近郊、ペルー
  崖に一緒にいた5−6羽のヒメコンドルが子供のように小さく見えた 動物園にいるのと違って 迫力満点 白の襟巻きがワンポイント 意外に洒落ている
  運ちゃんが構わず車を進めて飛ばれてしまったが この1羽が杉崎さんのビデオのモデルになってくれた 崖から 海岸のオタリア(南米特産のアシカ)の赤ちゃんや胎盤などを狙って主に啄んでいるとのことだった


真似のできない探鳥スタイル

もともと一人で鳥を覚え始めた杉崎さんの探鳥スタイルは、半世紀以上も過ぎた今でも一貫している。杉崎流は、まず見たい鳥を決め、アノ国へ探しに行くんだ!から始まる。
  最初にすることは、アノ国の言葉を覚えようとすること。ついでに鳥の名も。現地人に鳥を訊くのに大事な要素らしい。語学力のない私は、ここでいつも感心させられる。スペイン語などは会話のクラスに超美人がいたというのが卒業まで続けられた原動力だったとは聞いた。それは大変結構であるが、鳥を見にいくからという理由だけでは未知の外国語に挑戦する気力さえない私なのだ。杉崎さんに言わせれば、「鳥を見にいくだけだから、覚えようとするんだ。」
  会話を習得する傍ら、英文タイプと、時代が移って得意とは言えないコンピューターと格闘し、バードウオッチングや現地の情報を集める。外人さんのバードウオッチャーと現地で知り合いになって一緒に探鳥することはあっても、ガイド料が高くつくとなれば自力でなるべく鳥を探すことにしている。事前の情報収集は細大もらさず欠かせないのだ。
  得た情報を基に、探鳥と旅行のなるべく安上がりで楽しそうな計画を立てていく。当てもなく探し出せた人脈は大切に活用する。現地でバードウオッチングするまでに、数年単位の準備をするのも珍しくない。
  かくして現地入りし、目的の鳥に出会えれば、密かに満足する。期待される鳥総てを見つけ出すこともないと、見られなくても落胆はない。また来てみるときの楽しみを残しておけばよいと考える。
  海外探鳥を思い立ってから帰国するまでの、総てのプロセスが杉崎さんの探鳥旅行なのだ。探鳥三昧とは彼のことを指すのであろう。

  生きて帰るからいいものの、杉崎流のバードウオッチングスタイルは誰にでも勧められるものではない。誰にもできるというものでもない。添乗員・ガイドつきのラクで収穫がかなり見込める今日の海外探鳥ツアーとは、対極にある。そんな一匹狼のバードウオッチャーが絶滅せずに現存していると知るのは、けだし愉快なことではある。

●●2014 Feb.●●らくがき帖宇田川龍男の写真資料発見されるの記

バード・フォト・アーカイブス(BPA)の関心事の一つは、埋没している野鳥生態写真やその原板の所在をつきとめ記録に残すことです。
  そのような貴重な写真資料がどこに在るかの情報が周知されれば、BPAとしては、まずはそれでよいこと。それらをBPAでも活用できる道が拓けてくれば、尚よいのです。所有者に代わって保存管理・活用・継承の労を託されるということであれば、ご相談に応じる用意があるとも考えています。管理場所はBPAに限らず、研究所や公共機関などであってもよいのです。
  「お宝探し」のアンテナをはって些細な手掛かりをも頼りにし、時に想像力を逞しくして写真資料の所在を探り、新たな資料の発掘や撮影データの確認などを常に心がけています。
  因みに、これまで得られたささやかな成果は、田中徳太郎(2010Aug.)、堀内讃位(2011Dec.−2012Jan.)、山階鳥類研究所の下村兼史写真資料に在るトキの胃内容物のプリントの撮影者 (2013Apr.−Sept.)です。


大量のモノクロ原板がネットオークションに

今回の報告は、原板類が思わない展開でその所在がわかった経緯です。なんと、ネットオークションでアーカイブス級の原板が一括落札されたのでした。これは、私が想定すらしていなかったことです。
  発見された原板の一部がさっそくあるブログに紹介され、その存在が世に知られていたのです。私は複数の方から、古いモノクロ写真がブログに掲載されているとのメールを受けて初めて知り、仰天そして歓喜したのは言うまでもありません。
  そのブログとは、野鳥歴半世紀ほどの kochanが主宰する野鳥写真満載の「花鳥茶屋@BLOG」http://katyotyaya.blog18.fc2.com/ です。
  トップページのイントロ数行を一読して、驚かされました。私には所在の手がかりすらも得られていなかった1930−40年代と思われる原板が、しかも10冊のネガアルバムに1,000枚というからハンパではないのです。世紀の大発見!と言えるのではないかと思ったのでした。
  誰がどんな経緯でネットオークションに?ということがすぐに頭を過ぎりましたが、それは二の次で、目の前のモノクロ画像に釘付けとなりました。
  サンプル的に原板をスキャニングして掲載されたモノクロ画像は、私の見たこともない写真ばかり。撮影者の判別やらで少しは落札者kochanのお役に立てるかな、などとの当初の思いが一瞬で吹き飛ばされたのでした。明確に判別できた撮影者は、1936年10月4日にブンチョウを撮影した宇田川育男の1点だけだったのです。正直、ちょっと出鼻をくじかれた思いがしたのでした。
  多くの原板の撮影者が他に誰なのかは不明ながら、なんでもスゴイ発見に違いありません。現物が確保されたからには、原板が劣化しないようかつ安全な場所に保存管理され、さらに撮影データがつきとめられれば、野鳥生態写真史上極めて貴重な資料となること請け合いです。凄いことが起きたものです。


kochanこと新井浩一さんとの出合い

私にブログの一件を知らせてくださったお一人が、松田道生さん。野鳥研究・鳥声録音家で、私のネガ・乾板類や撮影者の追っかけをこれまでなにかと支援してくださっている方です。運が良かったことに、松田さんのブログ http://syrinxmm.cocolog-nifty.com/syrinx/ http://www.birdcafe.net/index/syrinx-index.htm がご縁で、落札された方とメールのやりとりがあるとのこと。一も二もなくご紹介の労をお願いしたのでした。

  2013年11月4日のこと、鶴の首で待った新井浩一さんという方からメールが届きました。その後の3日間は、新発見の原板をめぐって新井さんと松田さんと私の間で、仕事そっちのけで熱い想いのメールが飛びかったのでした。

  新井さんがさっそく原板の調査に取りかかっていることが分かりました。ネガアルバムの1袋ごとにナンバーが付され、001〜1000まで一連であるのは、整理する立ち場から言えばまず大変ラッキーなこと。そのナンバーにピンクの二重線が引かれているのは、写真使用のために乾板が一時抜き出されたものらしく、戻ってきていないのもあること。番号順に配列されたネガの前後にある被写体から、抜き出された乾板に写された鳥種までも突き止められていたのです。いちいちの情報にワクワクさせられたのでした。


原板の撮影者は?

松田さんは、ブロクに紹介されたハクセキレイの写真が宇田川育男著『原色野鳥ハンドブック』(誠文堂新光社 1957年)の大扉に載っていることを思い出され、それをスキャンしてメールに添付。
  それを見た私は、どっかで見た覚えがあるハクセキレイだなと『野鳥』誌の総目次第1-10巻(1934-1943年)をチェックし、1938年の同誌5(1):66-67に掲載されているその写真を見つけ出して、報告のメールを返す。

ハクセキレイの写真説明には「写真は一昨年の11月17日、越ヶ谷の鴨場の裏を流れる江戸川の支流の川岸で・・・撮影せるものである」とあり、撮影データまで揃ったのでした。1枚とはいえ、これだけ古い写真の撮影データがスンナリと判明するというのも、ラッキーなこと。

  さらに、ブログ掲載のコアジサシやシロチドリの営巣写真が私の記憶していたものと似ていたので、記憶の写真を『野鳥』誌から探し出して新井さんの原板に写っているものと比較検討していただいたのです。
  鳥のポーズや巣の周辺の石ころなどを新井さんが照合したところ、まったく同じ巣の写真であることが判明しました。その事実から、コアジサシとシロチドリの原板は、やはり宇田川育男撮影と確定できたのです。(同じブラインドに2人の撮影者が入って、ほぼ同じ瞬間に撮られた写真の場合、区別し難いほど酷似していても撮影者が異なる例がありますが、それは極めて希有な例とみています。)

  さらに1937年11月27日に埼玉県越ヶ谷で撮られたヒシクイに混じるハクガン成長1羽の原板が見つかったとの報告が、新井さんからメールされてきました。これは、BPAのデータベースに登録したいものと私がずっと目をつけていたモノクロ写真。車窓からハクガンを見つけた宇田川さんは次の駅で飛び降りてハクガンを追いかけ撮影したくだりは、何10年も昔にこれも『野鳥』誌で私は読んでいたのです。その原板が発見された!
  新井さんは、ネガナンバーを追って原板を読みつつ、宇田川さんがハクガンに近づいて飛び去るまでどのようなシャッターを押したか、フィールドでの宇田川さんの撮影振りが目に浮かぶような展開を知らしてくださったのです。   こんな75年以上も昔の情報は、そうは分かることではない。原板発見にプラスした得難い興奮を味わったのでした。

  こうして個々の発見が結びついていく内に、不明だった今回の大量原板の撮影者は、どうやら宇田川育男のものが主流ではないのだろうかということになった。

  宇田川先生(1917−2006)は、鳥類学者で麻布大学名誉教授でした。野鳥生態写真家とみなされるほど多くの写真は発表されていないと思うのですが、野鳥を被写体とする数少ない撮影者として日本の野鳥生態写真史の初期に列せられるべきお一人と考えています。これだけ膨大な数を撮っていたと今回初めて知って、発表されたのはその極く一部というのは何故だろうと思案する私。


宇田川育男・竜男・龍男

そうこうやりとりしている内に、宇田川育男は生まれてからの名前で、宇田川竜男からさらに龍男に名前を変えた同一人物であることが発覚し、撮影者を調査する際これは注意しなければいけない、ということになった。確か当時農林省鳥獣調査室の同僚で姓名判断に凝っていた石澤慈鳥の勧めで、1930年代に改名していたのだと聞いている。松田さんは、宇田川博士は鳥仲間の間で「ウダタツ」の愛称だったと述懐する。
  さらに松田さんは、こんなこともあったと、晩年の宇田川博士とのツーショットを添付してくるし、私は私で、宇田川先生の原板プリントなどの追っかけ話を思い出して、メールを送り返したり。
  次から次へと心躍らされる展開は、データがあまり残されていない昔のモノクロ写真ならではのこと。めったにない機会に、3人で至福のひとときをメールで分かち合ったのでした。


私の宇田川龍男追っかけの記

実は、私は、通称『清棲大図鑑』U(大日本雄辯会講談社 1952年)に載っている例のハクガンの写真のコピーを持って、2004年に日野市の宇田川先生宅を突撃訪問したことがあったのです。先生はその前年に病に倒れておられたようで、お目にかかれずに終わったのでした。
  その後、人づてに紹介いただいたご長女を通じて次女の渋川朝子さんと連絡がとれたのです。この方が3人の娘さんの中ではお一人だけ野鳥畑で、東邦大学野鳥の会で活躍され、松田さんは同窓の仲でご存じであると知ったのは、今回のメールのやりとりの最中でした。
  渋川さんは、栃木から週末看病に来られるので、先生のお身体の調子をみて、ネガは資料として渋川様が預かるかたちで、また昔の写真やカメラの話も私の代わりに聞き取りしておいてくださるようなところまで、有り難く話しが進んだのでした。
  ところが、先生と一緒に住んでおられ介護の面倒を一番みておられた末の娘さんが今度は病に倒れられたのです。そんな状況下で私がモノクロ写真ごとしでそれ以上ご家族にご迷惑をお掛けしてはいけないだろうと、私の方から遠慮申し上げ、追っかけ話はそれまでになってしまっていたのでした。


新井さん お宝原板の保存管理をよろしく

私が追っかけ始めて10年近くが過ぎた頃、忘れかけていた宇田川龍男の原板群がオークションに出品され、新井さんによって落札され、松田さんのお陰で私に驚きをもたらしてくれたという巡り合わせは、多くのご縁のお陰でした。私はほとんど諦めていた追っかけの結果を確認できる幸運に恵まれ、また、貴重な宇田川龍男の原板資料が新井さんによって保存管理されるに至ったのは、ほんとに喜ばしいことです。
  新発見のモノクロ写真に興味のある方は、新井さんのブログを是非訪ねてご覧ください。現在は、「花鳥茶屋@BLOG」のトップページの膨大な目次を繰っていって「カテゴリー」欄リストの最後となる「昔の写真」http://katyotyaya.blog18.fc2.com/blog-category-260.html に収蔵されています。

  貴重なお宝写真資料を私蔵せずに、公開して多くの人の目を楽しませてくれるおおらかなご配慮の新井さんに、改めて感謝です。原板類の保存管理をどうぞよろしくお願いいたします。
  そして、お世話になった宇田川龍男先生のご家族の皆さんに、今ごろではありますが、この場を借りてご報告かたがた心からお礼申し上げます。
  これにて、私は一安心!

「花鳥茶屋@BLOG」の“本家”にあたるサイト「花鳥茶屋」
http://katyotyaya.web.fc2.com/ があります。こちらかもブロ
グに入れますが、野鳥画像の他にさえずりも楽しめますし、
充実した野鳥画像関連のリンクが参考になります。


2014 Jan. BPAフォトグラファーズ ティータイム杉崎一雄さん (I)

昨年11月からのこのページは菅野雄義さん、望月英夫さんと続いて、今月は同じく東京水産大学(現 東京海洋大学)で専攻科目と併せて主に海鳥を見ていた杉崎一雄さんにご登場いただく。水産大卒の三人衆は、バードウオッチングで知り合っていて、そのままバード・フォト・アーカイブスでもお世話になっている。皆さん、一癖あるところが、なんとも頼もしいのである。


出会いは 学生時代

杉崎さんは大学時代に神奈川県小田原市の酒匂川の近くにお住まいで、探鳥会には参加せずに一人で鳥を覚えていたようだ。見ず知らずの私にハガキをくれ、酒匂川でのバードウオッチングに誘ってくれたのが確かお付き合いの始まりだった。
  「背中がヌメッとして脚の黄っぽい小型のシギはオジロトウネンじゃないかと思います。声もトウネンとは違っているし。ご案内できます。」とか「初列風切が淡い大型カモメがいて、どうもワシカモメみたいなんで、来てみませんか?」とか。当時、どちらも野外で見られるとも思っていなかった種類だったし、誰も教えてくれる先輩バードウオッチャーもいない。川原で二人して未知の鳥を識別する喜びにひたり、「いるもんだよね」と大いに興奮したのだった。


学生時代の杉崎一雄さん
撮影 ◆ 柏木 浩
1957年3月末
神奈川県酒匂川
  ホームグラウンドの酒匂川岸での なにやら性格まで窺えるような杉崎さんらしい1枚なので選らんでみた

当時これも珍鳥だったツバメチドリが酒匂川原に何羽もいるという連絡にいたっては、まさに半信半疑。識別の神様高野伸二さんにお話したら「信用できるのかなぁ。とにかく行ってみようか」と、やや浮かぬ顔で2人して出かけたのである。杉崎さんの報告通りであったのが忘れようにも忘れられない証拠として、高野さん撮影の川原のツバメチドリ幼鳥と私の撮った飛翔中の成長の写真が、清棲幸保著「原色日本野鳥生態図鑑」VOL.U(保育社 1959年)p.69にペアで載っている。1958年のこと。杉崎さんのお陰でよき思い出となっている。

  1960年前後の大学時代には、学割を利用してよく一緒に北海道へ長期探鳥の旅にでかけた。フィールドガイドや鳥関連の書籍、食料、キャンプ用具など共用のものは分担し、野外生活と探鳥に必要ないっさいがっさいを大型キスリングザックに詰め込んで背負う。行く先々の土地の人たちとなるべく仲良くなって食事や寝床のお世話になり、安上がりの旅を心がけた。杉崎さんにハッパをかけられなかったら、とても私一人になせる内容の探鳥行ではなかった。

  そうこうして杉崎さんから受けた影響は大きかった。彼一流の特異な思考回路から言葉になって出てくる表現の妙、大変そうに思えて私などは尻込みしそうな状況でも、“自らを面白がらせて”やってみてなんとかしてしまう行動力。いずれも私にはないもので、それらが魅力に感じられた。


杉崎さんとカメラ

お返しできたものといえば、日本で恐らく最初の大型一眼レフカメラを杉崎さんに薦めたことくらいであろうか。カメラを手にしたからといって、特段よい写真を撮ろうとかの表立っての意欲を前面に出すことは、ついぞない。だからムリはしない。鳥にも最少の迷惑で済ませている。
  近年、デジスコだ、ビデオカメラだと私に機材の質問をしたりして探鳥旅行に先立って一騒ぎし、人並みに鳥を画像に記録する意識はあるようである。その割には、撮った写真を人に見せるでもなく、撮りためて眺めている様子もなさそうなのだ。涼しそうな顔をしているのが、かえってなにかいいのを撮って隠し持っているのではないかと気になる由縁である。


写真を撮っている塚本と杉崎さん(右)
撮影 ◆ 志水清孝
1959年夏
北海道網走原生花園
  杉崎さんは標準レンズで、塚本は手製の蛇腹でテッサー210mm望遠レンズをカメラとつなぎ 2人とも同じ国産の大型一眼レフ リトレックを構えている 杉崎さんは胸に双眼鏡 塚本は単眼鏡を愛用していた
  当時はタチの悪い放牧馬に気をつけさえすれば シマアオジ オオジュリン シマセンニュウなどがあちこちで囀る広い原生花園のどこでも 気ままに歩き回れた この写真を撮った鷲鷹ファンの志水清孝さんが翔るチゴハヤブサを見つけて興奮したのも、写真後方に見えるここ濤沸湖畔である
  原生花園を拠点に4-5日歩き回ってもバードウオッチャーに出会うこともなく 3人で独占できた北国の探鳥パラダイスは 今では夢でしか訪れることができない

社会人となってからは

その杉崎さんが愚妹と連れになり、誰も志望しないのを幸いに伊豆諸島は三宅島の生物の先生として喜んで赴任したのは、私がアメリカにいる間のできごとであった。ずっと会わないでいるうちに、日本人学校の先生としてオーストラリアに何年か住んだりしていた。
  大学卒業後の私は私の道を行き、杉崎さんと海外でのバードウオッチングを共にしたことはない。僅かに海外の一点で結ばれたのは、杉崎さんがエベレストの麓でニジキジを探した時に、物々交換で手に入れたという荷運び人夫の杖である。私が欲しくなってもらい受けた。ギックリ腰の時、東北大震災の我が家での後片付け、文字通りの用心棒などに役立った。今だに“現役”で大事にしている次第である。


杉崎さんが撮った写真とご自身が写っている写真

カツオ漁船での海鳥や三宅島のアカコッコに関する報告文を日本鳥学会の「鳥」第18巻85号に立て続けに4本掲載したことはあるが、バードウオッチングの報告はどこにも載せていない。信じ難い経験で探鳥していながら、他人にそれを語ることには興味のない、しょうがないヤツなのだ。見聞した鳥の記録はワープロ打ちでマメに残しているのであるから、いずれ杉崎流探鳥記を書き残しておくように頼んではある。
  ここでは、私の中学生からの親友志水清孝さんも交えた大学時代の懐かしき北海道探鳥旅行の写真をご紹介したい。


天塩川河口へ出て海を見る
撮影 ◆ 杉崎一雄
1959年夏
北海道天塩川河口
  5万分の1地図を頼りの杉崎さんの1人旅 目的地の利尻島は利尻富士(写真左上)が かなたの水平線上に浮かんでいた
  同じく天塩川河口付近で杉崎さん撮影の 2013 NOV.「The Photo」に載った「案山子になったクマゲラ」もご覧ください



ハシブトガラスが見ている風景
撮影 ◆ 杉崎一雄
1959年夏
北海道利尻島鴛泊
  稚内から利礼航路で利尻島に渡った鴛泊で 釣りや泳いで遊ぶ子供たちを見ているようなハシブトガラスを撮った
  ここで東京から後発の志水清孝さんと合流し2人して探鳥を続けたのだ



番屋の漁師さんたちと
撮影 ◆塚本洋三
1959年夏
北海道知床半島ウトロ
  丸太組みの橋の下で寝ていたら雨が漏ってきて 近くの番屋に逃げ込んだ その時お世話になった漁師さんと共に 右端が 地元の人になりきっている実は杉崎さん
  塚本が網走原生花園あたりで合流して3人旅であったが 志水さんが写っていないところをみると この撮影時 彼一流のマイペースで近くで鳥をみていたに違いない
  今思えば 携帯もない時代に 広い北海道で東京からの3人がよくも首尾良くあちこちで合流できたものだ 三人三様の性格でも なんとかなるだろうと誰もが深く疑わなかったあたりが会えた要因であったようだ



順番で子供たちに双眼鏡をみせる杉崎さん
撮影 ◆塚本洋三
1960年夏
北海道昆布盛
  この時は杉崎さんと塚本の2人旅。3月にあてもなく訪ねた時の昆布盛部落の人たちのご親切が忘れられず 夏に手土産をもって再会を果たした
  写真から察せられるように 地元の人たちに優しく対応し 自らも楽しむ杉崎さんの自然な振る舞いは 海外の奥地で原住民に接するときも変わりはないと思われた それが危険な奥地を探鳥して生き延びる彼一流の持ち味であるということは、次回(海外探鳥編)のこのページで知ることになる。



海鳥繁殖地 天売島の赤岩
撮影 ◆ 杉崎一雄
1959年7月末-8月初
北海道天売島
  学生は夏休みを利用して探鳥旅行したので 繁殖の最盛期には間に合わない 当時まだ数千羽いたハズの天売島の赤岩のウミガラスも 杉崎さんが訪ねた繁殖後期には そのほんの一部しか残っていなかった
  そのさらに昔は岸壁を埋めた数万羽のウミガラスの喧噪が聞かれたそうだが 一声もない今日から思えば 写真下方の白っぽい斜めの岩棚だけでも50羽ほどのウミガラスが数えらたのは運が良かった そんな赤岩を見上げるだけで 実感として数万のウミガラスが彷彿とされ 満足できたのだった



釧路港で下船してすぐのバードウオッチング
撮影 ◆塚本洋三
1960年3月28日
北海道釧路港
  東京日の出K桟橋を3月25日夕方に出航した貨客船十勝山丸が釧路港に接岸したのは 28日朝9時 船中3泊であった
  湾内は穏やかで その日コオリガモを初めて見る杉崎さんと船の両方を入れて撮ってみた もっとさがって撮れば こんな窮屈な構図にならなくて済んだと思うのだが・・・
  4月3日までの旅で携行した食料は 米(1.5升) パン(50円のフランスパン2本) 乾パン バター チーズ 味噌 花がつお わかめ 塩 コショウ 味の素 砂糖 マヨネーズ 梅酒 紅茶 スープ(ポタージュ)の素 カレールー お茶漬け海苔 飴菓子類 コンビーフ ベーコン 缶詰類 非常食 下船して調達したのがハム ジャガイモ キャベツ タマネギ
  大型キスリングザック(杉崎さんのが すぐ右に写っている)に旅と探鳥の必需品を詰めこんで背負って歩く 重い荷をいちいち下ろさないと ゆっくりバードウオッチングは楽しめない カメラを引っ張り出して写真を撮るのは なかなか億劫な作業だった
  あれこれを予想しながら工夫して計画・準備を重ね 見知らぬ土地で”勝負”してきた探鳥の旅には ダントツに濃い思い出が残る
  当時は当たり前と思っていたが 今思えば 我ながら そんなバードウオッチングの旅を よくやっていたものだ これも杉崎さんのお陰と思う 実に感謝している

●●2014 Jan.●●らくがき帖自然保護 百年の計と写真集「再生の原風景」

日本人誰しも忘れてならないものがある。一つに、足尾銅山鉱毒事件。栃木県の日本最大の銅山で19世紀末ころ発生はじめた公害問題である。鉱山から流出した鉱毒が農地や河川を汚染した。稲が枯れた。魚が死んだ。精錬所からの亜硫酸ガスが山林を枯らした。山も谷すじもそっくり滅んだ。自らの健康を害されながら、被害者の農民らが政府や帝国議会に鉱毒流出反対、銅山の操業停止請求の、当時は「押出し」と呼ばれた請願大衆行動を起こした。政府の弾圧にあって、最後まで抗戦の拠点だった谷中村も廃村とされ、鉱毒を沈殿させ無害化することを目的の遊水池が渡良瀬川下流域に作られたのである。

  公害問題の原点とみなされるこの事件は、同時に自然保護のそれでもある。地元民への、そして野生生物やその棲みかである自然環境への公害の影響は、計り知れないのだ。
  忘れてならないといわれても、若い世代には覚えもない遠い昔の話。自然が甦り、2012年にラムサール条約に登録された渡良瀬遊水地へバードウオッチャーやアウトドア指向の多くの人が足を運んでいる。幾ばくの人の意識に「足尾」が存在し、遊水地の背後にある公害の歴史に思いを致しているのであろうか。
  「えっ、なんのこと?」という向きに、イントロとなり得る格好の書がある。



観て読む 奥の深い写真集

昨2013年10月に東京新聞出版部から刊行された一冊の本、「再生の原風景 渡良瀬遊水地と足尾」。同社写真部の堀内洋助さんの写真集。必見である。
  堀内さんが1991年から20年以上も通い詰めた渡良瀬遊水地の、“鎮魂と再生への祈りを込めて撮影した”写真の集大成なのだ。初版4000部だったが、あっと言う間に二刷りが視野に入るほどの好評と聞く。

  特異な写真集である。一見して野鳥の写真集かと思う。いや、四季折々の渡良瀬らしい景観や生きものも多く登場する。渡良瀬の自然と係わる人間が被写体となっているのも、単なる自然写真集ではない。
  私がガツンと一撃喰らったような写真を見逃して欲しくはない。例えば、なんで、このサルたち、足尾精練所跡の錆びた鉄柵によりかかって毛繕いしてて・・・。誰がこんな生活に追い込んだのだ。怒りを超えて悲しくさえなる現実がそこにある。
  あそこが谷中村跡かとその歴史を思って遊水地全域の空撮に息を呑む。そして公害にやられた茶褐色の山肌にバケツリレーで土を運んで植林に汗を出す人々。やっと緑が甦りつつある自然再生の気の遠くなるような努力を伝える写真。10年余の時を隔てた同じアングルの2枚の写真を比較して、違いを一目で示している。自然を破壊するに易く、失われた自然の再生には、膨大なエネルギー、金、時間が要ることを改めて知らされる。
  今なお凄惨な松木渓谷の写真から、自然環境を無視した人間のなし得るスゴサが伝わってくる。雪をかぶった銅像のおじいさんは? 足尾公害闘争の歴史をひもとけば、いやでも分かるアノ人、田中正造。

  写真集は、丁度田中正造の没後100年での出版であった。誇張することなく本書を静かに特色づけるこれらガツンとくる写真は、とかく忘れがちなこの100年以上に影響している足尾銅山事件を、改めて今に呼び起こさせる。無言にしてビジュアルな迫力と説得力とを備えているのだ。自然の写真集に姿を借りた自然環境保全への警世の書ともとれる内容である。私が必見の写真集とする由縁である。

  なにかを訴えているかのような表紙のコミミズクの目が、見終わった後で妙に印象に残る。


現在に影を落とす足尾の鉱毒

恐ろしいのは足尾の、目にはしかと見えない現実である。源五郎沢堆積場が、詳細は不明だが東北大震災が原因と思われ決壊し、鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下した。下流で基準値を超える鉛が検出されたという。足尾銅山の公害と思われる影響が現在にまで及び、1世紀余を経てなお解決していないのだ。
  ニホンザルたちが廃鉱の鉄柵に寄りかかる代わりに緑の森で過ごせる日は、松木渓谷が本来の渓谷らしい姿となる日は、いつになったら訪れるのであろうか。


へこたれず したたかに 未来へ

この写真集の見方、読み方は人それぞれであろうが、まさに百年が単位の自然再生の、私たちに課せられた未来への課題を共有する向きは少なくないであろう。そう願っている。足尾鉱山事件と福島原発事故とを重ねてみるとよい。その規模と深刻さはアノ足尾鉱山事件が小さく思えるほどに、福島原発事故のそれはケタはずれに大きい。人間社会や自然環境に与える原発事故の影響は、私たちが今深刻に感じている以上に途方もなく深刻な現在と未来への大問題であることがわかる。
  私たちは大変な社会に生きているのだ。そんな思いまで引き出してくれる写真集「再生の原風景 渡良瀬遊水池と足尾」を、改めて最初からページをめくってみたい。足尾の教訓を写真から読みとらねばならない。私たちも棲みかとする自然環境を、日本経済の立て直しと同じくらいリキを入れて保全すべきと考える人が、特に政治家や世のリーダーシップをとる人の中に、一人でも多く増えるように、である。

  自然なくして、私たち人間の未来はない。

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