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2010 Dec. カミサンのティータイム カラスウリ
Photo : Y. Tsukamoto

いいも悪いも  
ぱんぱんにつめこんで
ぶらり ぶらり
つりさがる

おっと
カラスにつつかれ
大爆破
バゴーン

最後にとびだしたのは
希望?後悔?

占ってみるかい
天国 地獄
君たちのあした

(塚本和江記)

2010 Dec. “ARCHIVES ”2006−2010年に思う
 BIRDER誌(文一総合出版)に2006年1月号から登場した”ARCHIVES”の連載が、この12月号で最終回を迎えました。カラー全盛の時代にあって、モノクロ写真のページづくりはどんなものかと思われましたが、誌面のほとんどの写真がカラーだけにモノクロのページがかえって異色の味を出して好評だった?ようです。

 グラビア連載として5年間よくぞ続いたものと、我ながら感心しています。これもひとえにモノクロ写真ファンあってのこと。バード・フォト・アーカイブスに得難い写真をご提供くださり連載を可能にしてくださった生態写真家の皆さまに、この場を借りて心から感謝申しあげます!
 連載に暖かいご指導ご鞭撻くださった同誌編集長志水謙祐さんやスタッフの皆さん、そして口うるさい私の意をくんで毎号素晴らしいレイアウトをしてくださったブリッツの國末孝弘さん、大変お世話になりました。心から有難うございます!
 長い間お付き合いくださった読者の皆さまにも、本当に嬉しい限りです!

 写真をご提供下さった方々のお名前をささやかな記録として以下に列記させていただきます。[敬称略:同じ年に複数回掲載の撮影者は(掲載回数)を記入]

2006

杉崎一雄(3)

藤村和男(2)

永井真人

岡田泰明

高野凱夫

中村正博

近辻宏帰

吉村信紀

塚本洋三

2007年 

佐藤照雄

塚本洋三

真柳 元

鄭 鍾烈

石川 勉

高野伸二(2)

望月英夫

周はじめ

西崎敏男

増田直也

高野凱夫

2008

松田道生(2)

百武 充

西崎敏男(2)

望月英夫(2)

廣居忠量

撮影者不詳

藪内正幸

引野 晃

真野 徹

2009

藤巻裕蔵(4)

塚本洋三(8)

藤村和男

藤村吉彦

高野伸二

中林光生

佐藤文男

岡田泰明

蒲谷鶴彦

川上和人

蓮尾嘉彪

河田謙二

松山資郎

R・レッサー

下村兼史

2010

蓮尾嘉彪(3)

塚本洋三(3)

下村兼史(4)

吉田 元

小笠原昭夫

廣居忠量

籾山徳太郎

佐藤文男

平岡 考

高野伸二(2)

待鳥暁子

1957撮影班?

藤巻裕蔵

 5年間という時の流れとその間に掲載された写真の数は、一つ一つの積み重ねの結果ではありますが、その積み重ねがページを構成してきた私にはまた別の意味を持ち、新たな感慨を産む感じがしています。このままではもったいない気がしてきました。そうだ、連載されたものをこのホームページに転載し、“ARCHIVES”を再現できないものだろうか?
 実現するとなれば、バーダーの連載誌面では書き切れなかった情報や裏話、撮影者の横顔や撮影時のことども、また関連の記事などを追加の写真とともに盛り込んだら、さらに巾のあるより興味深いものとなるのではないかなどと、つらつら思ったり。
 思ったりしてみてハタと気がついたのです。1月に1回ずつ、ホームページと同じ速度で更新していくと、当然なことですがモロ5年かかる! 隔月なら10年・・・ 待てよ、終わるまで私の目が黒いかどうか怪しいものではありませんか。
 バード・フォト・アーカイブスとして他にもやらねばならないことが山積しています。この世で私に残された年月は、指折るほどでしかありません。目が覚めた思い。このホームページでの“ARCHIVES”版は叶わぬ夢として泳がせておくしかありませんね。実現可能な夢ではありますが・・・。

 The Photo 「今月の1枚」のページには、引き続きバード・フォト・アーカイブスにご提供いただいた写真を順次掲載させていただきますので、ご期待ください。モノクロ写真のご提供、或いはモノクロを死蔵されている方への呼びかけなども、どうぞよろしくお願いいたします。(塚本洋三記)

BPA
BPA

目をつけられたなら
もう逃げられない
君の吐き出す邪悪の糸
われの心とからだをがんじがらめ

天ぷらかい?
かまあげかい?
のぞみの方法でくらってあげよう
清純なわれを見つけるまえに

  (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto

2010 Nov. 下村兼史のとそっくりなグラフレックスカメラ登場

 野鳥を主とした生態写真の日本の先駆者下村兼史 (1903-1967) が、撮影活動の初期に使っていたカメラにオートグラフレックスがある。その実物らしきを手にしたのは今から5年ほど前、山階鳥類研究所で「下村兼史資料」の整理保存をお手伝いし始めたときのことであった。
 段ボール箱に詰まった下村資料とともに出てきた古びた革ケース。この大きさ、もしやあのカメラ? 「おおっ、下村兼史が使っていたオートグラフレックスだ!」 私は一気に昂揚した。
 下村資料整理保存プロジェクトの私のボスHさんは、研究者である。冷静そのもの。「塚本さん、そのカメラを下村が使っていたという証拠はあるのですか?」「・・・」返事に窮した。
 しかし、である。下村の写真資料の中から出てきたカメラ。しかも、そうザラにあるカメラではない。下村ファンとしては、下村が使っていたカメラそのものであって欲しかった。
 ボスのごもっともなご指摘で学者魂の片りんにふれた思いの私。お陰で、正確には“下村が使っていたと思われる”と表現すべきカメラとの出会いが、一層忘れ難いものとなった。
 そのカメラ、ちょっとカビのはえたシャッター幕が半開きのままだし、レンズがない。当然、カメラとして機能してはいない。しかし、下村兼史が1920〜30年代に数々の傑作を撮ったのは、私が手に持ったそのオートグラフレックスではあるまいかと想像するだけで、十分に満足であった。
 下村が使っていたと思われるR.B. AUTO GRAFLEX の文字がシャッタースピード表に刻まれたそのカメラは、下村兼史資料の一部としてアルミ製のケースに納まって山階鳥類研究所に収蔵されている。
 忘れもしないあの瞬間。日本時間で去る11月11日午前9時4分30秒。私にネットオークションの経験がなかったばっかりに、140ドルで入札していた誰かに恐らく数10秒の差で私の150ドルの入札が間にあわなかったのだ。念願のオートグラフレックスを手に入れることは叶わなかった。
 人生初のしかも国際入札でブッツケ本番だったのだから無理もないが、なんとしても惜しい。「最初からムリをしないで。オークションは冷静に、冷静に! 終盤の入札で競り合って熱くなってはいけませんよ、塚本さん!」と、こぞってアドバイスしてくれたネット先輩のBさん、Mさん、Oさん。アメリカのネット市場には結構グラフレックスが出回るらしいから次ぎの機会には・・・、と慰めてくれた。
 そうは言われても、アメリカを代表する唯一ともいえる一眼レフ、グラフレックスは、1907年から56年間も作り続けられたと聞く。28種にものぼる機種があるそうなのだ。オートグラフレックスは、その1機種。3×4手札判やそれより大きな4×5判、さらに5×7判があり、それぞれに似て非なる型やシリーズものがあるらしい。私は、下村が使っていたような同じ型のオートグラフレックスはアメリカのネットオークションでもなかなか出ないのだよ〜と、内心ボヤクしかなかった。
 その日の夕方、諦めきれない私は、こんな型のカメラが日本でもアメリカでもいいからネットオークションにでていたら教えてくれと、カミさんに“こんな型”をコンピューターの画面上で示してみせようとした。競売品を追ってマウスでたまたまポイントした先の“こんなカメラ”・・・。私は我が目を疑った。それは、山階鳥研に収蔵されているカメラと限りなく   似ている型で、しかもその朝落札しそびれたものよりはるかに状態が良さそうだ。早いもの勝ちの一発即決即売ときた。競争相手はオレしかいない、と妙な錯覚にとらわれた。
 うお〜〜、タイヘン・・・。焦る気持ちをおさえてパソコンに向かう。まず「入札」、クリック。「ユーザーIDとパスワード」を(落ち着けっ、急げっ、落ち着いて!と自分に言い聞かせつつ)入力。即「OK」をクリック。数秒遅れで折り返しモニターに出た「入札確認」をクリック。一瞬が過ぎ、入札表示が「終了」に変わる・・・(ドキドキドキ)・・・ 落札したのはオレか?(神様、下村さま〜)。
 コンピューターの画面を睨みつつ祈るような気持ちの待ち時間が長かったのかそうでもなかったのか・・・。出たっ!「Mr. Y−塚、あなたが落札しました。CONGRATULATIONS!」のメッセージ。「やったぁ〜!!」 朝のオークション地獄から夕方には極楽へ、なんとラッキーな私。
 その晩寝ている間にカリフォルニアから請求書が届いていて、朝起き抜けに、送料込みで400ドルほどの支払い完了。件のイーストマン コダック社製 F4.5の7.5 inch(約190mm)のレンズをつけたR.B.オートグラフレックス1913 レフレックス 3×4判 カメラは、航空便であっという間に、実は待ち遠しい1週間の日々を耐えた私の手元に無事届いたのだった。

 改めて憧れのカメラを手にしてみると、カメラには違いないが、“怪物”とでも呼びたいしろもの。これがカメラだと知ってはいても、まずこんなに重くてよいものなのか。“グラ”を目の前にして感無量の私であったが、これをフィールドへ持ち出す勇気が起きないほど、重い。事前に私の腰痛を気遣ってくれたBさんが、言わんこっちゃないでしょと笑っている姿が目に浮かぶ。
 体重計に載せたら、3.5kg。若き日の下村兼史はこれを背負って北千島から奄美大島まで踏破したのだ。カメラの他に、交換望遠レンズ、乾板ケース、シートフィルム、大型木製三脚、ブラインドなどの装備の重さが加わる。自家用車なんて無い。総てを担いで撮影地へ向かったのだから、昔の生態写真撮影は想像を絶するほど大変だったことが、“怪物”を両手で抱いただけで実感された。
 重量に加えて驚くのは、そのかさである。二段重ねの重箱ほどの大きさなのだ。結構デカイので、狭いわが家でしまっておく場所に困ることが分かった。
 たまたま居合わせたOさんも認めるほど、見た目、カメラの保存状態が良い。ロールフィルムが装着できる使えそうなフィルムケースもついている。それだけに、まさに前世紀の時代モノでもしや実際に鳥の写真が撮れたなら!との欲がでたものである。下村の原板第1号のようにカワセミを狙ったら?と、のぼせ上がるようなことをOさんがけしかけたので、余計にそんな気が・・・。
 いや、生憎、どうもシャッターが機能していない。そうと分かって、この無用のデカ物にやや後悔めいたものが脳裏を過ぎったのは一瞬で、そんなことをはるかに上回る満足感で私の心は満たされていた。それは、私が手にしているのと同じようなオートグラフレックスを持つフィールドでの下村兼史を想って感じる私の身勝手な一体感に過ぎないのだが。“怪物”が、下村と私との心理的な距離をこれまでになく縮めてくれたことは確かである。

 とても見つかるまい、万一見つかっても手が届くまいと諦めていた私は、恋人に出会ったかのように “グラ”を眺め、作動する部分を動かしてみたりボデーを撫でてみたり。今、すっかりゴキゲンなのである。さりとて、この物体、これからどうしてくれよう?!(塚本洋三記)
                                                                                         

2010 Nov. カミサンのティータイムじょろうぐも
BPA
BPA
BPA
2010 Oct. カミサンのティータイムオオカマキリ
センニンソウの ま白きガクで
身を飾らせておくれ
この大きなカマで
刈らせておくれ

ああ 巨大な♀よ
その大きなカマでこの
首を刈っておくれ 
早くこのみみっちい♂を
喰っておくれ

もっと雄大な虫になるために
おれを きまえよく 
共食いしておくれ

あたしゃ まっぴらごめんだね

(塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto

▲2010目次

2010 Oct.  地デジテレビで劣化する日本人の色彩感覚

 アナログから地デジへの切り替え日が迫って来る。
 便利ならなんでも飛びつく習性を身につけた近代人には、地デジ化は歓迎されるであろう。それはそれで結構である。アナログで充分と考えている人がアナログを選択できなくなるというのは、私たちの生活文化の多様性が失われること。そんな社会に生きたくない人にとっては迷惑なことだ。
 多様性には、今話題の生物多様性ばかりでなく、等しく大切な“文化の多様性”がある。それが、私たちの思いとは関わりなしに制限をうけたり失われてしまう時代とはなった。オソロシイことである。
 生憎というかタイムリーというか、わが家の古テレビが壊れ、デジタルテレビを購入した。高齢者の仲間入りをした私は懸命にデジタル化に適応しようと日々もがいているが、アナログへの郷愁にも似た気持ちが断ち切れないでいる。新調の地デジテレビながら、ギリギリまでアナログで見ていようという空しくもささやかな抵抗を諦めるつもりはない。

 確かに、ハイビジョンデジタルテレビの美しさには、見た最初は私も目を見張った。この世にこんな美しい映像があってよいものかと、驚きと羨望のまなざしで量販店の店頭で棒立ちになってテレビ画面を凝視したものだ。
 いくらも経たないうちに、その美しい画面に飽きてしまった。美し過ぎることと、その美しさに深みの感じられない色彩とが飽きた原因に思われた。美し過ぎて不自然なのである。科学技術によって造られた美しさとでもいおうか。それも美しい以上に美し過ぎる画像が、私の美意識に障ったのであろう。
 人の目に映る以上に美しく見せる必要はあるまい。それこそ目に毒である。生活のそこここが便利になって、まさに便利だと思っているうちに、便利すぎて不便を感じる時代になりつつある。この類の社会現象がまん延すると、私たちの生活はどうなるのであろうか? 
 誰にも答えの見いだせない内に“便利過ぎる不便さ”の是正対策すら講じることのできない社会を迎えたら、人はどこへ行くのだろう。そんな先のことは知り得ないので、人は現在の“進歩”をハッピーと受け止め、美し過ぎる色彩や便利過ぎるものを享受しているのであろうか。

 憂うべきことは、日本人の鋭敏にして雅趣豊かな色彩感覚が地デジによって劣化していくのではなかろうかという点である。ハイビジョンデジタルの“美しい”画像に人は次第に見慣れていく。その感覚が世代の代わるころには、日本人に自然に培われていた色彩感覚が失われる崖っぷちにいたということにならなければよいが。
 年寄りの私でさえ忘れかけている色彩表現がある。茜(あかね)色、群青(ぐんじょう)色、鴇(とき)色、浅黄色、瑠璃色、琥珀色、枯れ草色、薔薇色、桜色、鉛色、桃色、水色、空色、小麦色、菫(すみれ)色、萌黄(もえぎ)色、藍色・・・。色の趣を表現する日本人の色彩感覚が人々の日々の生活や記憶から姿を消し、人造的な色彩に取って代わられつつあるように思える。
 微妙な色合いや色調を認知する私たちの感覚は、多くは自然と接することで自然に培われてきたということなれば、色彩感覚の喪失は身近な自然環境との関連も指摘されよう。そこに地デジが追い打ちをかける?
 色彩感覚は多分に個人的なものであるが、日本人が共有する伝統的に伝えられてきた感覚でもある。その素晴らしき感覚が、地デジテレビの画一的導入によって薄らいでいくとなれば、社会は悔やんでも悔やみきれない将来を選択したことになる。
 逆戻りはできない。唯一救える道は、美し過ぎるテレビ画像を、人の目と心に優しい伝統的な色彩表現にまで、業界が技術に技術を重ねて深化させることであろう。テレビにとどまらず、デジタルカメラのカラーの色調にもいえることである。デジカメを使う者としてことさら強調したい点である。関係業界は、日本人の色彩文化を劣化させない責任を感じて対処すべきではないか。
 一方で、私たち一人ひとりが、自然界の色の美しさや醜さに色彩感覚を研ぎ澄ませる努力を続けることだ。真っ赤に沈む夕日を惜しみ、空色から変化して茜色にそまりゆく西の空を眺めたのは、いつのことだったろう。(塚本洋三記) 

▲2010目次

BPA
BPA

2010 Sept.カミサンのティータイムとんがらし

Photo : Y. Tsukamoto

こんなに小さな身なりして
まったくすごいインパクト
いちど癖になったなら
君をさがし 求めて
われらの口もとはふらふら

ああ とどのつまり
われわれ人類は
とんがらしどもに
なめられて
いるのだ

  (塚本和江)

2010 Sept.  田中徳太郎の次は、堀内讃位

 モノクロ写真の“追っかけ”をしている私にとって、Mさんこと松田道生さんの存在は実に心強い。野鳥の研究、鳥声録音家。彼のブログを一読すれば、会わずしてお人柄がうかがい知れる。田中徳太郎のモノクロ写真の原板の所在をつきとめることができたのも、松田さんの情報が決め手だった。
 松田さんご自身のブログ、2010年8月26日の「田中徳太郎を捜せ」(http://syrinxmm.cocolog-nifty.com/syrinx/2010/08/post-4680.html)で、田中徳太郎の思い出にふれ、田中徳太郎の追跡が一件落着したら、「塚本さんの次の指示は“堀内讃位の遺族を探せ”」と結んでいる。
 ハテ、私は指示など出した覚えがない? 過日あるお通夜での立ち話で堀内讃位の写真探索を話題にし、私の意をくみとって堀内讃位の大捜索策戦にさっそく一役買ってでてくれたに違いない。私の意をくんでもらえるように話を進めた気もするが・・・。
 松田さんはやたらとお忙しい人。「たまたまお仕事の合間にどこかで堀内讃位の匂いがしたら、書きとめておいてくれれば有難いです。」とメールを送るのを忘れなかった。
 ところがである。さっそく「堀内讃位の『写真記録日本鳥類狩猟法』と『写真記録日本伝統狩猟法』をお送りしておきました。」とのメールが。
 「なにぃ! 送った?」松田さんのフットワークの軽さに目眩がしそうだった。わが家の狭い本棚に収蔵するスペースはない・・・。そんな事情にはお構いなしに、「後著は、重いです。腰を痛めそうですので、ご注意ください。」と。私が肝心の写真集を持っていないことを知ってのご親切に重ねて、腰痛まで気遣ってくれることを忘れなかった。いやはや、いいヤツ(失礼!)だ。

 メールが届いた翌日、えびすビールのケース箱に収まった件の本がドンと届いた。久々に手にする堀内讃位(ほりうち・さんみ 1903-1948)の『写真記録日本伝統狩猟法』(株式会社出版科学総合研究所 1984)。ケース入りの重量、4.3kg。 455ページの大著。
 内容が資料性に優れている点もさることながら、モノクロ写真の記録性や表現性に目を奪われるのだ。伝統狩猟法が写真をみただけでわかるような撮り方をしていて、それが格調高い作品にもなっている。よくぞ撮ったり。ダテに重いだけではない。内容がずっしりきて圧倒されるのだ。
 掲載された写真の原板やプリントは、どこかに無事に保管されているものであろうか。そうあって欲しい。それさえ確認できれば、余計なことながら私も安心できるのである。
 かくして、松田さんにハッパをかけられた形で、堀内讃位の追っかけがゆっくりじっくり始まった。バード・フォト・アーカイブスの使命として、野鳥、自然、人などを被写体としたモノクロ写真が消滅する前に、その存在を探り当て、後世にまでプリントや原板の保存管理継承が確実となるよう“追っかけ”ていくのだ。
 まるで雲を掴むような話ではあるが、堀内讃位に関してなんらかの情報をお持ちの方、心当たりのある方は是非ご連絡いただきたい。(塚本洋三記)

BPA
BPA
BPA
2010 Aug.カミサンのティータイムかぼちゃの花
じつのところ
日のあびかたで
夜の形がきまる
ああ かぼちゃ

時にシンデレラの馬車
時に前衛芸術の水玉だらけのモチーフ

けど 特別でないカボチャはどうする
冬至に
変身もせず
オババにパクリ
いやー やっぱり これがもっとも上等かっ

                (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto

2010 Aug.  田中徳太郎の原板は健在!!

 Mさんからのメールには、ウエブで探し当てたばかりという一つのサイト情報があった。それはJCII フォトサロンが2008年4-5月に開催した田中徳太郎作品展「白鷺」に関してだった。この写真展は私が気付かない内に終わっていたが、事後に同じサイトで知ってはいた。そのことをすっかり失念していた。
 ただ、Mさんからの改めての情報で、サイトに載った白鷺の写真のクレジットが私の目にとまったのだ。“c伊東きく代”と小さな活字が目に入って、ハッとした。即刻JCII [(財)カメラ財団]へ電話を入れる。「その伊東さんという方が、もしや『白鷺』写真展の田中徳太郎の妹さんでは?」「そうです。」当然のごとくの事務局員の冷静なその一声に、私は、内心飛び上がらんばかりだった。
 写真展の担当をされ、展示写真の選択をもすべて手がけられたJCIIの本橋正義さんに運良くお話が聞けたのは、7月26日のこと。きちんと整理されたネガも写真展のために伸ばされたプリントも、総て伊東さんにお返ししてあるとのこと。それは、よかった。原板総てが無事に“妹さん”である伊藤さんのお手元にある。少なくとも写真展の開かれた2年前までは。
 帰宅するや、伊東きく代さんに電話をいれた。88歳とは思えない明快で親身なお話が伺えた。見ず知らず同士の会話が弾んだ。
 田中徳太郎の原板(35mmと6×6版)そして一連番号でネガと照合できるベタ焼きの総てが、2009年6月に、データベース作成のための承諾書とともに、(財)日本写真家協会の日本写真保存センターを設立する委員会の手に渡っているとのこと。
 これで決まった。田中徳太郎の白鷺のネガは総て無事に公的機関によって次世代へと引き継がれていくことになる。ホッとした。正直、気も抜けた。バード・フォト・アーカイブスの役目は、めでたくあっけなく、終了したのだった。

 それにしても、伊東さんが、お若いころから田中徳太郎の写真材料店をお手伝いし、兄が撮りつづけたフィルムの現像から引き伸ばしまで一手に引き受けるほど写真術に長けていたこと、これ以上ないと思われるほどきちんと原板を整理保管されていたことなどは、まったく天が味方したという他にない。
 伊東さんは、餌となるウナギの頭をもらいに知り合いの鰻屋さんに毎日使い走りしながら、鷺山で孤児となった鷺の雛の面倒もいっさいみた、とも語ってくれた。
 その昔、田中徳太郎さんにお会いしたときには、いつも親しくお声をかけてくださったことが思い出される。日本野鳥の会が1957年に、当時は画期的だった野鳥生態写真展の開催にこぎつけられたのも田中さんのご尽力の賜だったし、高校生だった私も開催前日の夜遅くまで会場で手伝いさせてもらったことも、今は懐かしいばかり。

 日本のモノクロ写真時代のほとんどの野鳥生態写真家の原板やプリントは、それらの保管者すら探り当てるのが困難な状態にある現在、田中徳太郎が一件落着したのは、まさに例外中の例外である。兄の田中さんにして、あの妹さんあり。お二人の連携で、撮られた野田の鷺の写真の原板が文化遺産として後世に伝えられることが確実となった事実が、次なる原板追跡目標に向かって私に新たなエネルギーを注入してくるのだった。
 歴代の野鳥生態写真家の原板やプリントの所在を今の内に明らかにしておかないと、過去の貴重な写真資料が永久に失われてしまいかねない。誰に頼まれたわけでもないが、バード・フォト・アーカイブスの当てのないモノクロ写真追跡の旅は続く。
 原板やモノクロプリントの消息にたどりつくための多少のきっかけとなる点のような情報でもお持ちの方は、是非バード・フォト・アーカイブスまでご一報いただきたい。お願いいたします。点と点が繋がれば、そこから新たな展開が期待できるかもしれないのです。
 末筆となりますが、田中徳太郎の原板所在の追跡が急転直下に解決するまで、多年にわたり多くの方々にお世話いただいたことを、この場を借りて改めてお礼申しあげます。(塚本洋三記)

 先月このページで、埼玉県野田の鷺山で田中徳太郎が撮ったモノクロ写真の原板は、妹さんが持っているのを目撃した人がいるとのSさんの証言が最後だったと書いた。妹さんのお名前も消息も知れないままにそれ以上の手がかりもなく、さすがの私も追跡をあきらめかけていた。
 ところがアップした翌7月19日のことだった。Mさんからメールが入る。「いつ何時、ひょんなことで解明できるかもしれません。その日が来ることを祈っております。」と。なんと“その日”が早くも来ることになったとは。以下はその顛末である。
BPA
BPA

2010 July カミサンのティータイムびんぼうかずら
                      (ヤブガラシ)

Photo : Y. Tsukamoto

2010 July  浦和学院高校に田中徳太郎のサギの写真が実在している

 かつて特別天然記念物に指定されていた埼玉県野田の鷺山を舞台にサギを撮っていた生態写真家、田中徳太郎の作品は、今日では『しらさぎ』(1970年 講談社)などの写真集で見られるだけになってしまった。と思ってこの何十年か無念に過ごしてきた私だが、梅雨のあいまにムッとする暑さの七夕の日、田中徳太郎のオリジナル写真をついに拝見できる機会を得た。鷺山にほど近い浦和学院高校で。部外者が自由勝手に見ることは叶わないが、私は巡り巡って紹介された同校の理科主任倉成英昭先生に、構内の図書館へご案内していただいたのだった。

 入館して見上げる吹き抜けの壁面にかかっていたのが、私のもっとも好きな1枚――星の軌跡を背景に、モクレンが満開で咲くが如く月明かりに眠っているチュウダイサギ(今でいうダイサギ)の群れ――『月の光』と題されたその幻想的な1枚だった。まず度肝を抜かれた。2m×3mはあろうかと思われる立派な額に納まった超特大の傑作である。2階踊り場から同じ目線でためつすがめつ眺め、こんな“大物”の存在に、ため息さえもらした。
 螺旋階段の壁面と閲覧室には、30点ほどの半切以上のモノクロ写真が常設展示されていた。その内13点は超特大の額装である。1955年10月に『サギとカラスの写真展』が東京銀座の小西六ギャラリーで開かれた時以来の、オリジナル作品との対面。感激を新たにしたのであった。
 まさにお宝写真発見! といっても私が初めてなだけで、同校の関係者や生徒さんたちは当然このお宝の存在を承知していて、展示されている写真をいつでも見ることができる。それは、私にとっては実に羨ましいことに思えた。
 図書館の展示だけでもスゴイのに、図書館前のプレハブ収蔵庫の棚に、額装のまま無造作に積み上げられた恐らく田中徳太郎の写真が存在していたのである。収納場所が場所なだけにモノクロプリントの保存環境としては心配されたが、二、三の額を覗き見た限りでは、まずまずの保存状態のように見受けられた。ちょっと胸をなでおろしたのである。しかし、今後もこのままの保存状態が続くことには、正直いささかの危惧を禁じえなかった。
 オリジナルプリントは20数年前に同校が買い取ったそうで、額にはナンバー入りのラベルがついていた。たまたま私の目に入った額のラベルは“no.152”と読めた。蝶の剥製箱も混在したりしているが、もしや、150点を超える田中徳太郎のモノクロ写真が現に残されているかも?という勝手な期待をしてしまいたくなる数字ではあった。
 まずは田中徳太郎のこれほどの質量のモノクロ写真が浦和学院高校に無事に存在していることを、この目で確かめることができた。田中作品を長年追っかけてきた私には、それだけでも実に嬉しいことであった。
 問題はこのお宝の今後である。他人様のお宝に口をはさむのは憚られるが、バード・フォト・アーカイブスとしては、やはり一言いわせていただきたい。
 没後20年以上も経ち、ネガが存在しているかどうかも確認されていない今日、田中徳太郎作品をネガから再現しようにも不可能なのである。従って、日本のどこかに私の知らない田中作品が現存しているとしても、浦和学院高校が所有するものは第一級のオリジナルコレクションとみてよかろう。
 そこで、保存管理と活用を視野に入れ、まず写真の在庫状況を把握してデータベース化し、次に作品の複製活用のためにも高画質デジタル化を実現したいもの。並行して、プリントの劣化を食い止める保存作業が完了すれば、お宝を眠らせておく手はない。その活用である。
 実は、野球の他にも浦和学院高校には華がある。その華こそ、他所では例をみないサギの写真コレクションである。そのことを世に知らしめることは、シラサギが校章に描かれている浦和学院高校として改めての活力源となるのではないか。
 サギの魅力の再認識、野田の鷺山の歴史と鷺山消滅のエコロジカルな検証、野田から地球へと環境問題の情報発信、問題解決へ向けてのアクションと、若き高校生の部活として不足はない課題に取り組むのに、お膝元のサギのモノクロ写真が起爆剤となることを密かに願っている。
 そんな大それたアイディアを、学習指導部主幹などをも併任されているお忙しい倉成先生お一人に托そうとしては、バチが当たってしまう。私だけが浦和学院高校のサギのお宝写真の価値をこうして書いても、踊る人はでてこない?・・・ いや、きっと目ざといマスコミが目をつけたりするものだ。その前に先手必勝、売り込もう。そんなところから、夢のような話をたぐり寄せるのである。
 さらなる資金調達に頭を痛めることになる浦和学院高校の経営者の皆さん、溢れるエネルギーで部活に生きる生徒さんたちよ、皆で新たな“サギの夢”を持とうではないか。(塚本洋三記)

白や赤
エロチィクな花など
どこにもないけれど
それはそれ
なんて貧乏そうな
美しい雑草たち

ああ
次元の違う美意識たちよ
sexyには アッカンベーせよ

(塚本和江記)

BPA
BPA

2010 June カミサンのティータイムうめの実

ぱんぱんな梅の実が
TV CMのなかから
画面の外へ流し眼
うー 青い

あの頃 
うめの実を食べた 酔った
ひたひたと続く感覚

塩分 8% すこーし優しそうに
塩分 20% うんと しょっぱそうに
いろいろと

おお写しの梅が
こっちをみて
に にっと わらった

  (塚本和江記)

2010 June  写真“写偽”・BPA・ラファエロ

 写真とは文字通り“真を写すもの”と思われた時代があった。そのころは、撮影時に露出不足と感知すれば(露出計内蔵カメラなどなかったころの話)勘を頼りに現像時間を“押して”不足を補ったり、引き伸ばしの際に光源からの光を手のひらで遮ってプリントの焼き上がりを加減したり、プリントのキズを極細筆で丹念にスポッティングしたり、などなどの原始的手法での、今でいう加工処理とはいえないほどの、写真術はあった。出来上がったプリントは、“見えた通りに写っている”というのが当たり前というか、“見えたものと違って写っている”などとは疑うことすらなかった。写真とはそんなものだった。

今日、コンピューターが一般に行きわたり、デジタルカメラがフィルムカメラに取って代わった。デジカメ撮影が誰にでも簡単容易にできるようになった。一方で、どこかがおかしくなってきた。原因は、デジタル画像は画像ソフトを使ってコンピューター上で簡単に加工処理が可能となるからだ。
 フィルムカメラ時代には夢だったような目を見張る画像が氾濫するようになって、すごい、すごいと感嘆し、ある時ふと気がついてみると、「ほんとかねぇ」と疑いたくなるような画像が登場したりする。加工された写真では?と疑心暗鬼のまま、素直に鑑賞できないもどかしさ。デジタル技術をマジメに駆使して傑作をモノしている向きには申し訳ない言い草ではあるが、疑心を抱かせられる画像はデジタル加工氷山の一角ではあっても、その一角は現に存在するではないか。
 芽も吹いていない桜の木に加工が施され、現代の花咲爺さんよろしく、満開の桜の画像に化ける・・・。停まって撮れた車が“走って”見えたりする画像処理は、朝飯前・・・。加工の技術が優れていると、真偽のほどが判定できないほど。あからさまに加工された画像までが、まかり通ったりする。
 私の写友が言った。「そりゃ、写真でなくて“写偽”の世界だよな。」
 “写偽”の技術をそれと意識し表現の手段として活用して楽しむのは勝手である。コマーシャル写真などは加工技術なしには成り立たないと思うが、こと野鳥生態写真や資料写真のジャンルでは、許されまい。真を写すべき科学写真では、加工は控えねばならない。写されたものの“真価”の基準がブレてしまうことになり、科学写真も疑いの目で見られ、信用ならないとレッテルを貼られたらお終いだからである。

 かくいう私も、画像ソフトを使う。“写偽のスケール”の一端に厳密にはひっかかりそうな加工を、してよいものか否かで苦慮することもある。もうちょっと、もう少しならいいだろ、という加工への誘惑と自己へのアマエは、常に感じる。画像処理ソフトに一度手をそめると、加工技術に汚染されていく己を意識する。麻薬のようなものに違いないと感じている。それだけに、自制心と自信が必要だ。
 私としては、常に、フィルム技術と比較してどこまでの加工ならデジタルで許されるか、この加工は“真を写す許容内”に納まっているか、1枚の写真作品を創り出す上で譲れない加工の限界はどこで線を引くか、などと自問自答し続ける。加工水準を確認し、自己の倫理観と葛藤しつつ、出来るだけささやかな加工作業を心掛けている。
 加工に関するクレームを想定しての私の自衛策は、加工処理をしていないオリジナル0番画像を永久保存版として管理することだ。バード・フォト・アーカイブス (BPA) の発表作品に加工処理で疑念がもたれることが起きたとしたら、0番画像との比較で加工度を第三者がチェックして適否が判断できることになろう。
 世の中にわずかの心無い写偽が存在するばっかりに素直に傑作画像が楽しめないとは、フィルムからデジタル時代へと生き延びている私の、悲しき現実。

 先日、ラファエロの傑作「大公の聖母」が新聞ネタになった。画の背景の黒色は後年別人によって加筆されたことが、赤外線分析や断層撮影の科学調査で判明したという。背景にはもともとラファエロによる建築物や山河らしき風景が描かれているというのだ。名画とは? 名画の質をどう捉えるのか? 原画の復元を試みるべきか? 科学の力は、分からなかったものを明らかにする一方で、頭の痛い課題を現代に投げかける。
 ふと思った。科学の力で写偽を簡単に見破れないものだろうか? ラファエロの背景画を科学調査が見透かしたように、デジタル画像の加工がほどこされた位置とその程度を、コンピューター上で色分けされて示される“画像ソフト”が開発されないものだろうか? もっと簡単に、懐中電灯のような光を画像に照射すると、“写偽度”がデジタル表示される、な〜んて。いや、私がPC音痴なだけで、すでに存在しているのかも?
 いくら発端はラファエロの名画とはいえ、写偽発見機みたいなことを書いておいて自分で気分が悪くなってきた。“写偽”とともに生きていくしかないのか。“写偽不感症症候群”の蔓延は、デジカメ画像の将来に暗雲とならなければよいが。なんとも居心地の悪い世の中になってきた。
 進化し続けるデジカメ画像よ、どこへ行く。懐かしのモノクロフィルム写真よ、言いたいことは言っておあげ。(塚本洋三記)

Photo : Y. Tsukamoto
BPA
BPA
2010 May  カミサンのティータイムおおでまり
ふりむいたら 5つ
手毬唄でコロンと遊ぶ

あたり一面 おおでまり
くるり でんぐりがえり

ぬりかえられる思い出は
私だけのもの

タイムマシーンの花よ
未来はどこへ連れてってくれるの

  (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto

2010 May 星野直子講演会「星野道夫と見た風景」

 連休明けに、小人数でスライドを観ながらのぜいたくな講演会に参加することができた。幸運だったとしか言いようがない。写真集で親しんだ星野道夫さんの写真が次々とスクリーンに映し出され、撮影にまつわる逸話が星野直子夫人の静かな語り口で披露されたのである。
 楚々とした直子夫人は、お宅の庭にヘラジカが出没するようなアラスカの自然の中で日常生活を送られた方とは、どうみても思えません。都会派の容姿端麗、そして気負ったところがちっとも感じられないお人柄。やや逞しきフィールドレディかとの予想は、嬉しくも(?) 的外れであった。
 ヘラジカは私もアメリカで見たことはある。遠くにいたが、いかにデカイ動物であるかは見て取れた。ましてや星野家の庭先にでもいれば(!) とても大きいどころではない。それなのに、直子夫人は涼やかなお声で「お庭に出て来るのですが、ヘラジカはとても大きくて・・・」などと、普通のことのようにお話される。
 スライドトークが始まるやいなや、夫人の語る星野道夫ワールドについつい引き込まれていった。

 アラスカの野生を、胸に迫る写真と精緻な筆で表現し続けた自然写真家文筆家、星野道夫との出会いは、『Alaska風のような物語』(小学館 1991年)だった。背表紙のタイトルに惹かれるように本屋の棚から取り出してパラパラッとページをめくり、即決で買ってしまったその本。アラスカを語る文章は、1-2行のキャプションでさえも説得力があった。撮られた野生動物の姿には、人の心に訴える“なにか”が感じられた。
 “なにか”がなんであるのかはその時は理解し得なかったが、写真に滲む“なにか”こそが、余人には真似すらできない星野道夫の写真の魅力では? その“なにか”が、星野道夫という人間の度量の深さと、星野が宇宙や自然に対する哲学をもって自然に接していることに拠るものだというあたりが、私にはようやく少しずつ分かりかけてきたように思う。

 星野道夫の写真の中でも、桁外れに広漠たる原始アラスカを舞台に、ヒグマだっ、カリブーだっ、クロクマだっ、ヘラジカだっ、ホッキョクグマだっ、鯨だっ、アザラシだっ、なにか動物が画面のどこかにポツンと構図されている写真に逢うたびに、特に私はシビレルのだ。
 その一方で、アップの野生動物の写真をみていつも思うのは、“星野はどこにいて撮影してるのだ?”である。星野は、野生動物たちのもろ自然な表情とその日常を捉えている。間近で撮られている動物たちには、撮っている星野の存在を気づいていないハズはない。気づいていながら星野の存在が気にならなかったに違いない。それを可能にしたのは、“自然にとけ込んでいる”とか“自然と一体化した”とかいう表現が当て外れなほどに、フィールドでの星野の存在自体が“自然そのもの”だったからではなかろうか。

 普段は銃を持ち歩かなかったという。大型の野生動物にでっくわす機会の多いフィールドに丸腰でただ一人、そりゃタイヘンなことなのだと想像しつつも、ライフルを持った人間を動物たちが警戒してシャッターチャンスを逃すからだと、凡人は思う。星野の考えは、銃を持ってしまうと自身が安心してしまって、畏怖の念や五感を働かせる意識が薄れるから、だ。凡人は、自身と星野との隔たり、自然に対する認識のなんたる違いかを思い知らされる。

 「どうしてヒグマにあんなに近づいて撮れるのだ?」とアラスカの友人に聞かれて、星野は「ヒグマと一緒に呼吸することだよ」と語っていたという。
 直子夫人は、「写真の撮れる瞬間を待っている間も、夫は動物たちと呼吸を合わせていたのかなぁ」と思ってはみても、生前にその点を確かめなかったそうだ。
 想像するに、星野は常に“自然と共に在た”のである。そこに棲む動物たちといつも“呼吸をあわせていた”のだ、きっと。まさしく自然体。星野は“呼吸する”意味を自然そのものから会得し、それが体現できた希有なフィールドマンだったのだ、と思う。
 そうであるからこそ、例えばあの子グマといるヒグマの母がみせた優しく微笑ましい姿が撮れたのも、頷けるのである。

 アラスカの大自然とそこに棲む野生動物たちの写真を撮るのに、「夫は場所を選び、時間をかける。待つ。待ち続ける。ず〜っとひたすら待つ時間が、ほとんど。写真を撮るのはほんのわずか」だったそうである。
 一口に待つといっても、都会育ちの私の感覚では数時間待つとか一日中待ったとかがせいぜいである。星野道夫は違う。例えば、マッキンレー山を背景にオーロラを撮りたいと決めたら、一人では危険過ぎるからと飛行を了承できないブッシュパイロットをまず根気よく説き伏せ、時々生存の確認にセスナで出向くことを条件に、厳寒の雪原でたった一人キャンプしながら、1ヶ月待った。生死をもかけて。
 その1ヶ月でたった1晩だけ、それまで見たこともないようなオーロラを撮るチャンスに恵まれたそうだ。思わずため息をもらす。1枚の写真を撮るために、そんなにまでして・・・。
 直子夫人のスライドトークを通じて、写真から窺える以上の現場での“時に過酷な、時に優しい自然”が感じられてくる。そうして見直す写真に、また新たな感動が増幅するのであった。

 写真集でお馴染みのヒグマとサケの写真がスクリーンに映る。清流に踏み込んでサケを狙っている若いヒグマのまさに鼻っ先に、サケがジャンプした瞬間のシャッター。
 空中に踊り出た当のサケがいきなり視界にみたのは、ヒグマの鼻。「そんなぁ・・・」と魚が目をむいている。ヒグマはヒグマで、獲物の方からの予期せぬ急接近に、「うへっ」と一瞬腰がひけたよう。生と死が対峙したその瞬間を、たくまぬユーモアで捉えた1枚である。
 因みに、その1枚は、デジカメで連写した中から選ばれた1枚ではない。星野の写真は、みなデジカメ以前の時代に撮られたものなのである。1回のシャッターで決めたのだ。
 さて、そのヒグマとサケ、食うか食われるかの生命のドラマの次なる展開は? 私は知りたかった。恐らく会場の誰もが。
 まるで察知したかのように、「この写真の後がどうなったのかですが、それは夫に聞きませんでした。」直子夫人のタイムリーで率直なコメントに、やられたぁ・・・。そして、妙に納得させられた。

 写真がどれであれ、“その後どうなったか”はもう二度と星野さんに問うことは叶わない。あの事実を受け入れねばならないのだ。星野道夫は、1996年、カムチャツカで取材中にヒグマに襲われて急逝された。
 「なんで星野道夫が?・・・。」動揺した私の疑問に、カミさんがポツリと言った。「もともと星野さんの魂はきっとクマだったんだ。クマの国に戻っていったんだよ。」

 星野道夫の写真も文筆も、アノ時までに残されているもの以上に増えることはない。しかし、充分過ぎるものを遺して逝った。改めて星野道夫の人間と作品の大きさを思う。その星野道夫ワールドを、星野直子夫人は後進にまっすぐに伝え広める活動を続けている。心からのエールを送りたい。(塚本洋三記)

BPA
BPA

2010 Apr. カミさんのティータイムさくら

大きいような 小さいような
さくらのはなびらの丘が
ふるふる 揺れる

フロントガラスに張り付いた一枚が
どんどん よんで 
まるごと くるまごと 一台のさくら

桜の花は
いいも悪いも 隠す
スーハー呼吸するピンク玉

  (塚本和江記)
Photo : Y. Tsukamoto

2010 Apr. 山階鳥類研究所所蔵 下村兼史資料の報告文

 下村兼史(1903−1967)は、日本で野鳥を主とした生態写真の草分けである。野鳥の写真や映画を撮ってそれを生涯の仕事にしようなどと誰も考えなかった時代に、そのフロンティアを自ら拓いて歩み通した男。
 下村の不屈の生き様には驚かされる。下村を支えたのは、野鳥や自然への愛情や情熱であり、レンズを通して野生を乾板やフィルムに記録するという一徹な姿勢にあったのではなかろうか。
 カメラセンスは抜群。今日発達した高精度のカメラにくらべればおよそプリミティブな機材で、過酷とも思える撮影条件のなか、味のある作品を数多く残している。

 下村兼史が生涯撮り続けた乾板、ネガ、プリントなど写真資料のほとんどが、下村の没後ご遺族から財団法人山階鳥類研究所へ寄贈された。2005年になって、世界に2つとないお宝資料の整理保存作業が進められることになった。現場責任者は私がさせていただくことになり、ほぼ4年をかけて1万点を越える写真および文字資料の整理保存作業が完了した。
 これは私にとって生涯忘れ得ない貴重な経験となった。これほどのオリジナル資料のすべてに目を通すことができた人は、恐らく、映像作家で私を下村資料へと導いてくださった故吉田 元さんと私のみではないだろうか。得難い機会を与えてくださった同研究所の山岸 哲所長(現名誉所長)に、心から感謝いたしたい。

 この度、下村兼史資料11,304点の整理保存に関する報告文が掲載された「山階鳥類学雑誌」第41巻2号が発刊された。下村プロジェクトチーム5人(現場で私と二人三脚で的確に作業を進めた廣田美枝、私の直属のボスで同研究所広報主任の平岡 考、画像保存で日本のトップランナーの東京工芸大学芸術学部写真学科吉田 成教授、同研究所自然誌研究室の室長鶴見みや古の皆さんと、下村作業を担当するために与えられた客員研究員の肩書きの私の5人)の共著であるが、作業開始から報告文の掲載まで、ほんとうに多くの方々のご指導に支えられて完了することができた。謝辞に述べられているが、この場をもお借りして心からのお礼を申しあげたい。
 別刷りがほんの僅かばかり残っている。早い者順となるが、特に興味のある方は、バード・フォト・アーカイブスにご連絡されてはいかがでしょうか。

 掲載誌の性格上、報告文はカターイ内容表現となっているが、下村作品を含めた一般向けの資料紹介は、山階鳥類研究所のウエブサイトに下村兼史のサイトがあるので、こちらをお楽しみいただきたいと思う。同サイトは、下村チームメンバーからの口やかましい注文を受け一手に制作を担当した当時同研究所広報室の原田亮子さんの力作である。併せてお礼申しあげたい。

 なお、こと下村兼史資料の利用についてのご質問・お問い合せは、同研究所の下村資料提供窓口となっている(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
 報告文が掲載されたのを機に、山階鳥類研究所所蔵の下村兼史資料が世に知らされ、下村兼史の輪がさらに着実にひろがっていくことを期待したい。(塚本洋三記)

BPA
BPA

2010 Mar.カミさんのティータイム

 体調をかなり悪くして、お休みを
いただきます。
 季節の変わり目、皆さま くれぐれも
ご自愛ください。

(塚本和江記)

2010 Mar 便利さを求めて、失うもの

 締め切りが目前に迫ってくるまで、雑誌などの原稿書きや写真データの準備に手がつかない私。原稿などの郵送にかかる日時が気になるし、いよいよ時間がなくなると編集部へ車を飛ばして届けることになる。その時間が実にもったいない。しかも、運転には危険がともなう。深夜だから人はいないとタカをくくって飛ばすと、深夜だから車はこないと決めつける人が道路を悠然と横切っていて、愕然とさせられる。そんなにまでしなくたって、締め切りに早め早めに対処すればよいとは分かっているが、そうはいかないのが人間である。
 ところが、この数年ほど、コンピューターのお陰でそのあたりが楽で便利になった。以前は、メールで送られないような“重い”データは、リムーバブルディスクにいれて編集部へ持ち込んだ。そんな大容量ファイルをネットを通じてしかもタダで送れることがわかった。以前は紙焼きで送られてきた校正もPDFなるものでメールされるようになって、仕方なく私もソフトを購入し、PDF上で修正して送り返す。
実に便利になったものだ。原稿さえ書き終えれば、即編集子宛て送信し、イッチョ上がりである。なにもかも、座っているだけで総ての作業が片付いてしまう。さっすがぁ、コンピューター様々である。
Photo : Y. Tsukamoto

 こうして便利な数ヶ月、1年が経ってみて、ふと、なにか足らんぞと思いつく。なんだろ? 以前は当たり前だったことが、脱落してしまっていたのだ。編集子に面と向かうことがない。挨拶がわりの最近の情報交換がない。立ち話での言い訳やら、ちょっとしたムダ話がない。じゃ今日はちょっと一杯やりましょうかの、貴重な打ち合わせ時間となるお酒タイムまでが消えていた。
 なんのことはない、便利さを追うばかり、肝心の人間の気持ちの交流が抜けてしまっていた。“潤滑油”がなくなって味気なくなっていた。似たようなことは、今の世の中、普通に身の回りで起きているに違いない。気がつけば、まだなんとかなるのかも知れない。利便性に走って、気がつかない方が多くなっているのではないのか? なんとも恐ろしいことではある。
 もっと恐ろしいことに、ひとたび便利さに溺れると、なんとかしようとしても修正しにくいのである。たまには編集子と一杯やりたく思っても、これほど強いインセンティブは他にないのに、最早時間をかけてわざわざ原稿を届けることがない私である。

 便利さは、便利な反面、なにか大切なものを私たちから奪ってしまう。現代社会生活の悪魔。意識してうまく悪魔とつきあわないと、気がつけば取り返しのつかない人間不在の社会生活を送るハメになる。それはイヤだっ。(塚本洋三記)

BPA
BPA

2010 Feb.カミさんのティータイム

なんだか笑っちゃうほどの

あおぞらに

黄色の花が踊る


“格調” と “お色気”の

混じり合った美味なる香り

宙にただよう


ぷっ ぷっ ぷっ

天にむかって たれよ 放てよ

神様の お・な・ら

         (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto
2010 Feb. 紅梅、バレンタイン、そして生命
 紅梅が、今年は早くも1月22日に一輪咲いた。翌日三輪となった。2月に入って満開。母が遺していった盆栽だが、ベランダで水だけあげてほったらかしておいても、毎年よく咲いてくれる。芳香が空気を和ます。
 紅梅の咲くころは、なにかと生命が絡む。

 3年前のバレンタインデーにはカミさんが脳出血で倒れて生死をさまよった。鳥仲間と一杯やってゴキゲンな帰宅途中のできごとで、いささか気まずかった思いは今もこころの片隅に残っている。それはそうなのだ。顔と言えば顔がムンクのように左下に流れて崩れ、右半身は不随。なにか訴えているらしいが言葉にならない唸り声と涎がでるばかり。これが愛するカミさんかと、ベッドにいた“異人さん”を一見し恐怖の念さえ覚えたのだった。
 幸いというか、脳外科医に言わせると“奇跡の部類”で、これ以上望んでは罰があたるくらいまで回復したのは、なによりであった。

 今年の“鬼門バレンタインデー”はちょっと早目にやってきた。仏壇の前に持ち込んだ紅梅の香が室内に漂う3日の朝、姉の緊急手術の連絡が入った。体調の落ちていたカミさんの面倒みるどころではなくなった。駆けつけた病院の担当外科医との手術直前の会話は、真剣なものだった。
 執刀医の口調は重く、術後の結果予測は厳しいもの。5分後に迫っていた緊急手術をするか取り止めるかと問われ、医者の話を信じて判断するしかなく、迷わず手術はしないでくれと即答した。辛い思いが一瞬よぎったが、悔いが残ろうが残るまいが選択肢はそれしか私の頭になかった。
 そのときはそうとは知らなかった著名な外科部長の先生には、予期せぬ私の答にやや動揺のご様子がうかがえた。医者の立場で僅かでも可能性が残されている限り、総合的に判断して手術することを・・・。
 私は言葉を返した。「外科医のお立場でそうおっしゃるのは当然だと思います。でも“総合的に”の意味が、どの範囲を読んで総合的というかが、恐らく私とは違っていると思います。私は、姉の高校以来の病歴、度重なる手術歴、今回ここまで至っての先生の外科の見地からの術後のご説明、手術しなかった場合の、数日と推測される命、入院時に苦しみを長引かせることはしないでといった姉の気持ち、それら総てをにらみその時点から姉の命果てるまでのスパンを今回の手術の範疇より広く“総合的に”判断したのです。」
 夫に先立たれ子供もいない孤独の姉を代弁する私の気持ちは、先生に伝わったことと感じた。命を救うのが医者の使命は、厳然として不動だった。社会倫理の壁があるのは私とて承知である。人殺しのそしりを免れないようなお願いは、それ以上控えざるを得なかった。
 姉より不幸な状態で命と戦っている患者が世の中に大勢いるのに勝手な考えをする後ろめたさ、なにより、他人の命の見限りをつける怖ろしいまでの厳粛な感覚を意識しつつ、それでも廊下でスタンバイのストレッチャーで結論を待つ姉は、私や妹の考えに内々うなずいていることを疑わなかったのだが。
 手術をする結論がでた以上、外科部長に心から姉の命を託した。姉の耳元で、良くなるんだから気楽にいってこいや、と声をかけた。半開きのうつろな目は、反応しているようには思えず、胸が痛んだ。ここまでです、と看護士にさえぎられ、姉は手術室のドアに消えていった。
 緊急手術は、それまでの緊張感がフニャッとするほど覚悟の予定時間よりはるかに短く無事終了したのだった。私たち弟妹は、あやうく姉の命を縮めるところだった。

 常々考えている生命という命題に、姉の緊急手術で思わぬ応用問題を突きつけられた形であった。手術は成功したが、命の尊厳とは? 人の幸せとは?の答えは、神のみぞ知る。現実の選択に運命を感じた。
 思えば、手術をお願いしておいて失敗したら医者を訴えるような社会のルール違反をする人がいる世の中。うっかりミスをする医者がでるご時世。命をあずかる医者を守る、あるいは不徳な医者を閉め出す法的な後ろ盾と、生命に対する新たな社会倫理の構築がないと、医者も患者家族も本音の話し合いから最善と思われる選択肢をさぐることはかなり困難に思われた。所詮、人間、話し合いにはウソや思惑が潜みかねない。そこらを、脳科学の進歩で見破ることが可能となり、患者の救いとなるより的確な“総合的判断”のできる社会になってほしいものである。
 紅梅。バレンタインデー。それらとは直接に関係ないけれど、私にはどちらも生命に思いを致すきっかけなのである。(塚本洋三記)

ろうばい
BPA
BPA
2010 Jan. カミさんのティータイム まつ
あっち こっちに
伸びる 松葉よ
今年はいい運?
悪い運?
こよりを何千枚とかけて
占ってみよう

うえ した 右斜め45度
おおいに 気にはなるけれど
やっぱり落ちつくところが一番いい

初日の出に
願かけよう
太陽がすけて
未来が呼んでる

   (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto

2010 Jan.  新年明けまして

 虎年年頭に気になるのは、トラぬタヌキのジャンボ宝くじ。クジ運のまったくない私とカミさんのコンビでは、抽選結果を気にしたところで知れている。だが、手元資金だけではとても足りない金の要る仕事をなんとか近年中に実現したいので、見えている結果でも気になるのが人情というもの・・・。

 まじめに気になるのが日本経済の雲行き。鳩山内閣、景気よく名目3%の国内総生産成長率を旧年末にぶち上げた。2020年までの目標というが、バブル崩壊後の1994年の4%に次ぐ高率。「新たな政権の実行力が試される時だ。何としてもやりきるという思いだ」と、鳩山首相は記者会見で述べられたそうだ。やりきってもらうしかあるまい。
 試される実行力は現にいくつも抱えている。それらも新成長戦略と並行して実績をつまないと、せっかくの新政権への期待もさらにしぼみかねない。
 私たちの生活を惨めにする権利は政府に無い。誰かさんと違って億という金には宝くじの皮算用しか縁のない小市民ながら、私だって払う税金は払う。実を伴わない優しいお言葉は、旧年で聞き飽きた。心機一転、新年から頼みますよ、鳩山さん。
 というのも、経済が上向いて社会に余裕がでてこないと、どうも自然保護活動へまわる資金も湿ってしまう。エコエコといわれる割には、企業の財布の紐は健全な環境づくりへの活動支援要請に対して、不況下で貝の口。されば、自然との共存を目指す諸団体は、かなり当面しぶとくじっくり自己資金でそれなりの活動展開を迫られるからだ。
 新年から渋い話になってしまった。ここは一つ、一匹の猛虎百鬼をも恐れずの心構えで、本年もいっちょ踏ん張ってより良い自然環境を目指しましょう!
 皆さんのご支援ご指導を重ねてどうぞよろしく。(塚本洋三記)

おめでとうございます。
本年もバード・フォト・アーカイブスの活動を旧年にも増して
どうぞよろしくお願い申しあげます。
BPA
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