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「フォトグラファーズ ティータイム」は 2015年Feb.から2018年Dec.まで休載です

●●2015 Dec.●●らくがき帖新年こそ!

カレンダーといえば、私は、古いのを年々繰り返し使っていて、“月日合わせ”を楽しんでいます。
  何のことかといいますと、1964年のカレンダーをいまだに使っているのです。アメリカ留学したときに手に入れたNational Wildlife Federationの葉書サイズのカレンダー。絶滅に瀕する鳥が1種ずつ描かれた12枚めくりです。

祝祭日は日本と異なるので当然無視しますが、今年今月が1964年のどの月と曜日とに一致するか、めくりながら探し出す楽しみがあり、それを実用に供していることで、実にささやかで密かな満足感が味わえるのです。そう、今月はさらに、たまたま半世紀ほど前の12月と曜日が一致するのが一興でした。
  月末の30日とか31日があわない場合には、現実と合わせて間違えないようにする気遣いが要るとはいうものの、1日違って多少まごつくのも楽しみの内、さして問題はないのです。
  半世紀も同じカレンダーを使い続けていると、12枚の絵の鳥は見慣れたものですが、それでも選んだ月の鳥と「ん、今月はキミかぁ」と1964 December のTrumpeter Swan(ナキハクチョウ)に挨拶することができるというもの。

  1964年のカレンダーに"資源の再使用"の精神をささやかに託し、ちと大げさではありますが、資源の大量消費時代を生きる己の生活でムダを省こうと戒める精神的な鏡にもしています。

  ところでカレンダーを見ると、師走も残すところ少なくなってきたなと、いやでも知らされます。2015年の新年となったとき、さあ一年!と張り切ってスタートしたハズなのに、この一年いくばくのことをやったのかと胸に問えば、時の過ぎる早さを理由に大晦日を迎えることになるのは、例年のこと。

  それでも2016年こそ! 皆さま佳い新年のスタートをきって一年を頑張っていきましょう!!

●●2015 Nov.●●らくがき帖ラグビーワールドカップ2019に想う

過日イングランドで開かれたラグビーワールドカップ 2015。迫力あふれる世界第一線の代表チームを相手に、JAPANの健闘ぶりは小気味のよいものがありましたね。
  RWCにわかファンとなった私ですが、それというのもカミさんの親友ご夫妻が根っこからのラグビーファンだからです。私の唯一の“ラグビー仲間”です。「明日のサモア戦も朝が早いから、私たちは今晩早く寝るわ」と、私も早起きて観るのが当然のような流れについ乗って、RWCを今回初めて観たのでした。
  夜更かしの私が寝る時間ではあり得ても決して起きることはない時間帯に、ムリして目覚めただけのことは充分にありました。1987年の第1回大会以来1勝しただけだった日本代表チームが、今大会で3勝をあげたのですから。一戦一戦が期待をこえる超興奮ものでした。
  残念だったのは、3勝しても8強入りを逃したこと。そんなチームはRWC史上初めてと開催地で同情されても、無念さはつのるばかり。それだけに次の大会こそはと、2019年が今から楽しみに待たれるというものです。

思い出のラグビー

かくいう私は、実は部活でラグビー部だったのです。60年以上も昔の小学生6年のデキゴトですが。そのころ小学校でラグビー部があったのは、確か青学の付属小学校と慶應義塾幼稚舎だけだったと記憶しています。

野鳥とか自然の写真は大切に扱っても、両親姉妹やカミさん、私自身の写真をアルバムに整理しておくといったことには、およそ頓着ない私。このブローニー判ベタ焼きの大昔のプリントがたまたまみつかったのが、不思議な感じさえしています。写っているのが、幼稚舎ラグビー部の虎縞のジャージーを着ている私です。胸のマークは、慶應のKにOは楕円形でラグビーボールをデザインしたものした。
  小学生のころは色白病弱でモヤシのような私が、ラグビー部に? 担任のタナセン(田中先生)がK組からラグビー部に2人選んだ1人が私だったのですから、当人以上に母の方が動顛したのを忘れることができません。その部活発表が1週間ほど病欠した直後だっただけに、余計に血相変えて学校へ駆けつけた母をタナセンがどう説得したのかは知れず終いでした。
  私は勉強派の穏和なK組からスポーツ派のやんちゃなO組の猛者が占めるチームに混じって、ラグビーというものをすることになったのでした。
  チームの皆が親父さんの古いネクタイを固いベルトの代わりに締めて、部活の中ではいつも一番遅くまで校庭ででっかいボールを追いかけたものです。ひ弱い私にはなかなかボールをまわしてもらえません。なにクソッとくっついていったのを、身にしみて覚えています。
  転機は、校舎のある天現寺から品川迄を往復する、ラグビー部員のみに果された試練のマラソンが終った時でした。全部員を前に、部長のクワセン(桑原先生)の叱咤のひとこと。帰り道の花屋の店先でホースから流れでている水を飲んだり歩いたりした部員がいたが、それはなんだっ。頑張って走り通した塚本を見習ってみろ、という展開。以来、チーム内の私に対する空気に変化が感じられ、やがて私はスクラムハーフのポジションを任されるまでになったのでした。

持つべきものは

そんな幼いころの思い出がRWCを観てから甦ったというわけです。タナセンが私をラグビー部にいれた英断のお陰で、私なりに心身が鍛えられ、幼稚舎を卒業後ほとんど病気知らずの生活と根性が私にいすわったことは確かだと思います。クワセンがモットーとした「ラガーマンシップで強く正しく」は私の心に刻まれ、私の気持ちの遠くでいつも生きていると感じています。
  学芸肌のK組担任タナセンも体育担当のクワセンも、そして山旅や山スキー合宿へ誘ってくれたO組の担任、山男のカワセン(川村先生)からも、私たち生徒に「もっと勉強しなさい」と話されたのはついぞ覚えがありません。「好きなこと、やりたいことに真っ直ぐに進みなさい」と言われたのは耳に残っています。都合の良いことだけが記憶にはっきりしているのかも知れませんが。
  長男の私が親父の家業を継がずに野鳥や自然保護の道に進むことを大学卒業して一人で決めた遠因が、今になって幼稚舎の教育方針にあったように思えてなりません。見守っていてくれた恩師と理解ある両親、皆さん故人となられた今にして、しみじみ有り難さがつのります。

  楽しみに待つRWC 2019の前の年、2018年開催の下村兼史写真展へ向けて、幼稚舎時代の思い出を胸に、明日も静かに GO STREIGHT FORWARD !

●●2015 Oct.●●らくがき帖身辺雑記

下村兼史の生誕115周年写真展開催まで3年を切り、準備作業が間に合うのだろうかと多少の懸念を感じ始めています。バードウオッチングへ出かけることがほとんどなくなったこの頃。つい、自然との距離を感じています。
  いささかやせ我慢でしょうが、な〜に、生きものならどこにでも見られるさと、狭き我が家にささやかな“自然”を見いだしては、息づくものたちに作業の疲れを癒されています。

翔ける1羽の鳥

両国国技館を川向こうに見る隅田川沿いの9階のアパートは、移り住んで四半世紀をこえます。その間、たった1回だけベランダからハヤブサを見ました。再会を待ち望んでもそうは問屋が卸すまいと思っていたら、2回目の幸運に恵まれました。去る8月25日のことです。
  たまたま大川を見下ろしていて、たまたま飛びすぎるハヤブサにでっくわす。偶然みたいなものですが、その偶然こそ! 視野を過ぎる1羽の鳥に、む?!と目をむいた一瞬のドキリ感は、バードウオッチングの醍醐味。
  ハヤブサの爽快な一直線の飛翔に、作業の疲れが吹っ飛びました。

珍客 1匹のクモ

9月に入ってこれも久々に、台所の小窓で1センチにも満たないハエトリグモが目にとまりました。我が家ではクモは猫のお使いと思われていて、見つけるとカミさんともども歓迎したものです。
  カミさんは、“連れ猫”「天」が逝って猫極楽からクモに姿を変えてカミさんの様子をみにきてくれたものと信じていました。ハエトリグモの可愛らしい仕草を眺め、つぶらな瞳を見つめては、ゆっくりしていきなよと話しかけたりしていたのです。
  数年経てカミさんもこの世に私を残し、逝ってしまいました。ふと、クモになって台所の窓にとっつき、私に会いにきてくれたものでしょうか♪
  3日間、ガラスに張り付くように歩きまわって、あれでなにか食べるものがみつかるのだろうかと思ったりしているうちに、どこかにいなくなりました。

忙中閑、コンピューターには、ハエトリグモの写真と、単なる台所風景でも「ハエトリグモの棲息環境」と題した写真が、デジタルで残りました。写真やや中央の網ガラスにある小さな黒点が、話題の主です! 久しくカメラを手にしていない私でしたが、シャッターの感触とシャッター音とが味わえた至福のひととき。ハエトリグモのお陰でした。

自然界になにが?

ベランダのドアを開けっ放しでも、以前は悩まされた蚊がこの夏もついに1匹も入ってきませんでした。カナブンも、です。ニブイ人間さまには感知し得ない、よろしくない変化が自然界で起きているに違いありません。蚊に刺されなくてこの夏も良かったと今は喜べたにしても、長期的には飛んでもないことになる予兆かもとは、知らぬが仏。だから人間さまは平気で自然を荒らしたりできるのでしょう。
  今年は、ベランダのクチナシの鉢植えにとうとうオオスカシバが卵を産みませんでした。お前もか、です。お陰で幼虫に葉を喰いつくされることもなく、クチナシは緑々としていつになく元気なのですが・・・。

今年ダメなら来年に

春夏秋冬が自然の一つのサイクルです。今年の花が終わってしまったら、次ぎに咲くまで「じゃ、1年待つか。」
  自然を相手にする人は、机上で実験する化学物理系の人より結構ゆったりと構えているかと思います。自然のサイクルには逆らえませんし、サイクルを無視した実験なんかもできませんから、気持ちゆるりと1年の時間の経過の中で構えざるを得ないのでしょう。
  そう思って「じゃ、1年待つか」の気になってみると、忙しい今の世の中や身の回りが、少しゆったりみえてくるのではありませんか。今の私に必要なのは、自然の中で一息つけるよう「その気」になることかもしれません。
  いや、いや、油断してはなりませぬ。3年間がアッという間に過ぎて、写真展開催が間に合わなかったら、それこそタイヘンですから。

●●2015 Sept.●●らくがき帖ハプニングの続くシダ

シダの小さな一鉢が、我が家のベランダにあります。なにシダだか、名前は知りません。このシダを見ていると、生きることの不思議と生死の妙を感じずにはいられません。

気の知れないシダ

近所の花屋さんでシダを見つけたときには、こぶしぐらいのボール状に作られたミズゴケ(?)に、葉が3枚ついていました。3,4センチの葉が1枚と、5,6センチのが2枚。バランスよく3枚が三角形に開いて、こぢんまりとしゃれた佇まいでした。
  最初の冬がきても大事に室内で水をやっていました。しかし、成長しません。シダの葉は冬眠から覚めないのではないかと疑うばかり。春が過ぎ夏が過ぎても、生きて育つのだという気概がまるで感じられません。
  甘やかしてはいけないかと、秋口からベランダに出してみました。2年目の冬を越してまた春が巡ってきても、3枚の葉は伸びる気配がまったくなかったのです。「どうなっちゃってんだぁ?!」とシダに問いかけたのも、一度や二度ではありません。
  伸びないからといって枯れるわけでもなく、生きているのでしょうねぇ?

  たまりかねて、買った花屋さんへ。タダでもらってきた肥料を与え、それでも効果がありません。残された一手と聞かされた、ミズゴケ(?)のボールの底を破ってひろげ、そのまま鉢植えにしてみたのです。
  と、深〜い深い眠りから突然目覚めたとは、このシダのこと。2,3ヶ月の内に、あれよあれよと新しい葉がどんどん増えて伸び、ご覧の通り!   少なからぬ感動でした。晴れの姿を撮るので、ベランダから移して和ぐるみのテーブルが撮影の舞台となりました。

ほんとにシダの気持って、私には計り知れません。シダが熟眠している間も水を与え続け、しかし正直なところ、成長の証しがないのならおシャカにしてしまおうかと一度ならず思ったことがあったのです。シダの底知れない生命力を信じなければいけないと、しみじみ感じています。

シダに託す想い

この一件を、お礼がてら花屋の娘さんにご注進。その時、私にとってはシダどころではないことに・・・。
  実は、その娘さん、私のカミさんを生前から知っていて三回忌もとっくに過ぎた今でも覚えていてくれ、花を買いにいってはカミさんのことが話題にでるのでした。月に1,2回、ちょっと花屋の店先でしか会いませんし、お名前が「愛ちゃん」と知ったのは最近のこと。個性的な服装で話しが明るく、笑顔がステキな愛ちゃんです。
  その愛ちゃんがカミさんの仏壇用の花にキキョウの切り花を選らんでくれたそのときに、聞かされました。引越をするので8月一杯で花屋を辞めることになったと。辞めちゃうのが2日後では、もう会えない・・・。あまりに唐突なことでした。
  「塚本さん、(下村兼史の)写真展はいつでしたかしら?」
  「2018年の秋だけどぉ・・・」
  「もしかしたら、その時に会えるかもしれませんよね。」
  別れ際に愛ちゃんがそう言ってくれたので、私はそんな気になっています。

  ご近所では唯一人、カミさんのことで立ち話のできた心の友がいなくなりました。シダは、愛ちゃんがどこへ引越したのかは、知るよしもありません。あのときのキキョウはすでに枯れ、いまではシダの一鉢が、アノ世のカミさんとコノ世の愛ちゃんと私の心とを、見えない糸で繋いでくれています。

  シダは、ベランダで今日も元気いっぱい。みんな、どこかで生きています。

●●2015 Aug.●●らくがき帖「石の中の鳥」ニヤミスの記

下村兼史(1903−1967年)が製作した映画の作品リストを作成していると、思ってもみなかった悩ましき問題にぶち当たったりします。例えば、一つであるべき映画のタイトルが、文献によって違っている場合があることです。「山と“水”」と載っていたり、「山と“川”」(1945年 理研科学映画)だったり。「石の中の“鳥”」かと思えば「石の中の“卵”」(1947年 [文献によっては1948年と載っています] 理研) だったり・・・。
  「そんなの、映画を観れば一発じゃないの!」とは私でも思うのですが、これらの映画フィルムの存在は今のところまったく知られていないのです。どこに眠っているのかご存知の方は、必ず是非BPA宛てご一報いただきたいのです!

予期せず舞い込んだメール

2011年10月31日のことでした。見知らないTさんからバード・フォト・アーカイブスに下村映画作品の問い合わせがありました:
  「私の知人で映画『石の中の鳥』に出演したものがおり、その方がこの映画に関し、何らかの記録があるのであれば是非手に入れたいと言われ探しておりました。」
  えっ! 知人が!「石の中の鳥」に?!・・・ 出演された?・・・ まさかぁ〜! 頭がクラクラしました。アノ映画に出演した知人がおられる! ご高齢には違いないその知人の方がご記憶のタイトルは、“鳥”――“鳥”なんだっ! こみ上げてくる期待感。
  Tさんメールは続く:
  「貴社のHPにて下村兼史氏の記録をお持ちとのこと。残念ながら石の中の鳥に関しては、HP上その記録の有無に関し触れられておりませんでしたが、もし、何らかの情報をお持ちであればご一報いただけませんでしょうか?」

情報がないままに

せっかくのTさんの問い合わせに、お訊きしたいのは私の方だと内心ブツブツ思いながら、私には答える術がありませんでした。この映画の情報がいかに乏しいかとコボしたあげくに、それでも諦めずに捜しますので、と返事にならないメールを返すのがやっとでした。
  それから4年近くが経っています。なんらの情報もみつかっていません。

  去年(2014年)の7月に下村兼史のご長女、山本友乃さんからご提供いただいた古いプリントを、今ごろになって整理していて、「おっ、これはもしかして・・・?!」
  いかにも「石の中の鳥」或いは「ちどり」(1946年 東宝教育映画部)と想定される数枚のロケ現場での写真が目にとまったのです。

情報の手掛かりに? ロケ現場での記念撮影
写真提供:山本友乃/BPA
1940年代
映画「ちどり」なら 神奈川県酒匂川原

ご覧の河原での1枚の記念写真には、左に立つ下村兼史監督、右へカメラマンをはさんで 出演スタッフの皆さん。「ちどり」なら落合富子扮するトモ子、澤井一郎扮する少年が出演したハズ(16ミリ映画 1947. 1(3):12-17 日本16粍映画人協会, 東京)。「石の中の鳥」なら・・・相変わらず手元にはなんらの情報もないのですが・・・。

出演したTさんの知人では?!

写真を見てとっさに頭に浮かんだのが、2011年に受けたTさんのメールでした。 もしや「石の中の鳥」に出演されたというTさんの知人の若きお姿が、この写真に写ってはいまいか?! ご本人に見ていただければ・・・。
  2015年3月11日、さっそく写真を添付してTさんにメールしてみました。
  その知人に27日にお会いする段取りをとっているので、しばらく待って欲しいとのご返事。
  私は、もうこれはピンポ〜ン!と決めつけて、勝手にワクワクして待ったことは言うまでもありません。Tさんも、「部外者ながらドキドキします」と乗ってくださったのでした。なんとも嬉しかったのです。

  待望の27日は、丁度カミさんの命日でした。極楽?からカミさんが送ってくれているハズの念力をも味方にして、などとあらぬ理由で期待して鶴の首。ふと気がつけば、下村兼史の月命日でもありました。こりゃ、お導きの“金星の日”になるハズだっ。

  期待が大きかっただけに、失望もハンパではありませんでした。 3月30日の返信には:
  「残念な話ですが、ご本人に確認したところ、自分ではないとのことです。ご記憶にある写真は、監督とのツーショットだそうです。」

気のもめた再度のお願い

ここで諦めてはいけない。なにしろ他ではまったく期待できない情報源なのですから。
  二の矢に選らんだ写真はご期待の監督とのツーショットではなく、少女とカメラマンも写っているのですが、もう構ってはいられない私の心境。厚かましくも折り返しTさんに送って見ていただくことに決めました。祈りたい気持ちでした。今度こそ、ロケ現場の情報源がモノをいってくれますように!

無理を承知な期待を担った2枚目のロケ現場の写真
写真提供:山本友乃/BPA
1940年代

ところが、Tさんからの返事が届きません。待てど暮らせど届きません。どうしたんだろう? 2ヶ月半、耐えてひたすら待ったのです。待ちながら自問自答しました。ダメだったとのメールがこないのだから、ダメじゃないかも・・・
  大いなる期待感が、次第に心細い気休めに萎んでいくのを感じて・・・もう待てない。失礼でもなんでも、もう一度催促のメールを出してみよう。結構な決心をしたのでした。
  6月14日に送信したメールに、翌日、即返事がいただけたのです!

  TさんはTさんで、知らされてみれば、海外への出張続きの超ご多忙な身。加えて私がガッカリするといけないと、気重で返事を書く気持ちが遠のいておられたというのでした。
  そんなお忙しい方が私を思いはかってくださっていて、私はなんと身勝手だったかと身を縮めて読んだメールには:
  「結論から言いますと、先日の写真に写っているのは、どうやらご本人で無いようで、これ以上は、もういいとのことで、この話を持ち出せなくなってしまいました。」

  写真には写っていない。これ以上はもういい。直接の取材もできない・・・。 う〜む、ダメはダメだったか。仕方あるまい。私は行く着くところまで行けたので、悔いはありません。Tさんもやれることはやってくださったのです。見ず知らずのTさんには、痛いほどの感謝の気持ちで一杯でした。

  何回かのメールのやりとりでしたが、一件落着となって正直少なからぬ無念さは残りましたが、それを補って余りあるどこか爽やかなものを感じたのでした。

お互いの“最後のメール”

私から:
  「お陰さまで、2011年にメールをいただいて以来、『石の中の鳥』をめぐって折々に実にワクワクさせられる得難い経験を楽しむことができました。具体的な「成果」は残念ながら(今のところ)ありませんでしたが、今回を一区切りとして、また次ぎのなにか未知への挑戦ができたら楽しいことだと思っております。
  その意味で、なにかのハズミでまたメールを差し上げることになるかも知れません。どこか愉快な気分です。忙しい世の中で大切にしたい気分だと思っています。今後ともなにかの際にはお付き合いご指導のほど、改めてよろしくお願い申し上げます。」

  Tさんから:
  「私の方もワクワク感は同様で、何かに繋がったらと思いつつメールの更新をさせて頂いておりました。
  結果として、塚本様の研究には、貢献できませんでしたが、ワクワク感を共有できたこと、塚本洋三という人物を知り得たこと(少しですが・・・)、はるか昔のことを純粋に研究されている方がいるまたはそういう世界があることを知り得たことは、楽しい事であり、また、価値のある事と思います。
  友人に関しては、全く問題ありませんのでどうぞご心配なく。逆に、心を煩わせてしまいすみませんでした。
  同様、いつか、またこのワクワク感に出会える事を楽しみに中休みとさせていただきます。何かあれば、いつでもご連絡ください。」

そして 嬉しいことに

直接のインタビューが叶わなかったTさんの友人は、最後に私にこれ以上ないプレゼントをくださいました。80歳を超えてもまだお元気だそうで、なんと、2018年の下村兼史写真展には、会場へお運びくださると!

●●2015 July●●らくがき帖悩ましき下村兼史の映画リスト

下村兼史(1903−1967)は、野鳥を主とする生態写真の日本での先駆者だと、長い間そう思っていた私。最初の出合いが、1930−31年に出版された「鳥類生態写真集」第1−2輯(三省堂)だったからです。山階鳥類研究所に収蔵されている下村兼史写真資料のほとんどが生態写真に関連するもので、映画資料は極めて限られていることもあり、私の知見は下村の生態写真に限られていたのでした。
  ところが、日本の科学ドキュメンタリー映画史にはまず挙げられている「或日の干潟」(1940年 理研科学映画)などに先に接して“下村兼史監督”に巡り会った人は、「え? 下村監督は、鳥の生態写真も撮っていたのですか!」と、私とは逆の認識で驚くのです。カメラレンズを通したキャリアの後半、1939年から1967年まで、自然を舞台にドキュメンタリーを主とした映画の製作でも名声を馳せた下村兼史が、監督・演出家・脚本家として映画の世界にいたのです。
  遅まきながら、私は下村監督の映画作品をも探求し始めたのでした。

夢だった下村兼史の映画鑑賞

30年ほど前、確か国立フィルムセンター主催で「下村兼史映画祭」なるものがあって、一夕で5本立て続けに上映された時でした。日本野鳥の会のいつもの 超過勤務の時間を割いて会場に駆けつけたまではよかったのですが、上映開始前には居眠りを始めていたのでした。
  ふと目覚めて眺めるぼやけたスクリーンに、ああ、仮親のシーンか、きっと映画「慈悲心鳥」だなぁ・・・。鳴き声にふと眠りから覚めてみれば、ああ、タマシギがでてる、なら「こんこん鳥物語」かな・・・。その時「ちどり」もみたハズでした。女の子が出演していたような。人生で稀有なそのチャンスに居眠りしていては、問題外です。あとの2本は深い夢の中で、タイトルすら覚えていません。
  そんな苦い経験があって、まずは下村兼史の映画をできるだけ多くちゃんと観たいものと期待しています。しかし、下村映画5本立てのチャンスなんて、今世紀になってもまったくありません。

頼りにならない既存の“下村映画”作品リスト

2018年の下村兼史写真展の映画コーナーでは、なんとか下村兼史映画の数本は皆さんにご覧いただきたいと願ってはいます。それには、まず映画フィルムの存在を確かめDVDでの貸出が可能かどうかも調べておかなければ・・・。
  とは思い立ったものの、これが簡単ではないことが分かりました。フィルムの所在探索もさることながら、まずはそのベースとなる下村映画作品の全貌が見えてこないからです。
  文献やネットでそう多くはない下村映画の作品情報を片っ端から集めてみると、なんとしたことでしょう。「え? これが下村兼史の作品?」と首をかしげたくなる内容の映画が文献に載っていたり。そうかと思うと、同時代に映画を製作していた兼史ならぬ下村謙二監督の情報と混同していたり。いかにも間違えとしか考えられない情報がネットでヒットしたり・・・。
  加えて、映画のタイトル、製作年、監督演出、製作会社などの基本情報が文献によってまちまちな場合が多く、「一体どれが正解なの〜?」
  写真展が3年後に迫ってきているというのに、私はほとんど参ってしまっています。

  参ったといえば、現在山階鳥類研究所の下村兼史サイトに載っている「映画作品リスト」は、安易に既存の資料に頼って私が作成したもので、今となってはいかにも不完全であることがわかりました。勝手を申しますが、サイトのリストは引用しないで参考程度に眺めるだけにしておいていただければ、私は救われる気持ちです。

「下村兼史映画作品リスト」を作り直せ!

そんな状況下、急がば回れ、こりゃ私が調べてリストを作り直し納得する他あるまいと、下村映画の作品情報を徹底的に追っかけはじめたのです。虱潰しに文献をあたりました。東京国立近代美術館フィルムセンター図書館の方々の情報探索の豊富な知識経験と懇切丁寧なサポートにも、とっても助けられています。いくつかの異なる情報があって確定できない場合は、後の検証のために総て集めてその旨備考欄に記録しています。
  ポチポチやっていたら、改訂作業を始めてからすでに1年半以上が経っています。出典を明らかにしつつ、ようやく私なりに作品リストの改訂版が次第にみえてきました。
  纏まりつつある下村作品の全貌をベースにして、これからとりかかるのが、不確実な情報を少しでも確定させる厄介な作業です。いや、確定できそうならば厄介でもやれば答えが得られるのでしょうが、どこかにあるのかないのか雲を掴むような45年以上も昔の情報を嗅ぎだして検証するのが、ここで言う厄介な作業なのです。
  恐らくどこかで諦めないと、下村サイトの映画作品リストの改訂版は実現しないことになりかねないと、己の尻を叩きながらも諦めどころを探っているこの頃です。
  グチっぽい現状を書きました。

「鳥」が正解か 「卵」なのか

ま、グチついでにお聞きください。映画のタイトルすら確定できない下村兼史作品があるのです。例えば、「石の中の“○”」 [1947年 (文献によっては1948年とあるが・・・) 理研] 。
  私は文献調査でその映画があることは知っていたのですが、さらに調べた文献によって「石の中の“鳥”」だったり「石の中の“卵”」だったり。「え、なんでぇ〜!」とボヤきたくもなります。答えは一つのハズなのに、二つあるって「なんでやねん?!」と私に迫られても困るのです。

  「石の中の“鳥”」となっている文献は:
安部 彰 1994. 下村兼史論――内に情熱を秘めた「案山子」――大阪大学人間科学部紀要20:1-22,資料1(p.3)
映画教室 1948.2(1):23 日本映画教育協会

  「石の中の“卵”」を挙げている文献は:
飯田心美 1967.「下村兼史の残したもの」(パンフ)第22回芸術祭記録映画鑑 賞会――記録・動画映画部門
日本映画監督全集 1976.(キネマ旬報増刊 12・24号 no.698) キネマ旬報社. p.210.
  多数決で決めてみては?!と思いたくもなる私の心境をお察しください。

  一人で思い悩むこと、しばし。同じ年の制作で、別の映画なのかとまで疑ってみたり。タイトルから想像を逞しくして、前年(1946年)に制作された「ちどり」と河原のロケ環境(登場する鳥の棲息環境)が似ているのではと想像し、「鳥」と「卵」と「ちどり」になんらかの関連があるものなるやと、藁をも掴みたい気持ちで愚にもなく想像を遊ばせてみたり・・・。
  考えても始まらない、とはこのことです。

  この映画フィルムが今どこに存在するものか、まったく知られていません。国立フィルムセンターの所蔵データベース(未発表)にも載っていないのです。映画が観られれば、タイトルなんて一目瞭然なのですがっ。
  どなたかご存知でしたら、是非必ずご一報お願いいたします。

予期せず舞い込んだメール

2011年10月31日のことでした。見知らないTさんからバード・フォト・アーカイブスに下村映画作品の問い合わせがあったのです。メールは、「卵」か「鳥」かに係わる、私にはドッキリ、ワクワクな内容だったのでした。(続く)

●●2015 June●●らくがき帖ランの如くしたたかに

小壺に植えられた我が家のラン。名前は知りません。4年ほど前、妹がカミさんの見舞いに持ってきてくれたものです。
  「咲ききっているのでお買い得だったの。花が終わったら捨てちゃっていいわよ。」いまでもその声が耳に残っています。

  せっかく見舞いに連れてこられたのです。「カミさんが逝くより先に捨てられちゃ・・・。」ランの気持ちを察したかどうか、私は花が散った後でベッドサイドから台所の窓辺に移し、世話をしてみる気になりました。

  手入れのやり方を知ろうともしない私ですが、湿り気がなくてはマズイだろうと、底に穴のない小壺をドップリ水に浸してはすぐ水を流し出すという同じ世話を、3−4日おきにかたくなに繰り返したのです。
  いつ見ても何ヶ月経っても枯れないでいるから生きているのだろうくらいで、見た目に変化がありませんでした。ランて変な植物だなと思ったのです。
  水やりを繰り返すこと1年。気がつくと、1枚葉が伸びてきました。新鮮な驚きでした。その後に花を見事に咲かせたではありませんか。「捨てなくてよかった!」

毎年のことながら、感心してしまうのです。それは、ランの生きる力。
  土の代わりにいれてあったコルク状の小片は、たび毎の水に洗い流されていました。2年ほどたった頃にランを持ち上げてみたら、小壺一杯分の根っこの塊だけが出てきたのです。見てはいけないものを見てしまったような気がしました。今では根は小壺の外に伸びてきています。
  水苔でマフラーしてあげればとか、なにか栄養をあげた方がよいのかと思ったりはするのです。ただ、私が余計なことをしては、これまでのランの生きるリズムを壊してしまわないかと思案しています。
  今のところ結局水以外になにもしないままですが、例年のように今年も1枚葉が増えて、入れ代わって古い葉が枯れるのかと思えば枯れないで、自らも育ちながら一段上にでた新しい葉を支えています。そして、今年は、4つもの花を咲かせました。なんとしたたかな!

  一つ目の花が開いてから、もう1ヶ月以上になります。枯れることを知らないかのように、造花と思い込んでいるのかと怪しむほど。写真の通りです。花はそれほど美しいとも思えないのですが、あくどいまでの力強さは私にないものだけに、どこか惹かれています。気持ちを通わせることのできるいいヤツです。

  とっくに捨てられてもよかったそのランが、水だけで生きて花を咲かしつづけてくれていることに、心から、
  [ ありがとう!] そして、
  [ う〜ん、あの生きざまと容姿にはグッとくるものがあるなぁ・・・]
  どこかでカミさんを想い出させてくれます。

●●2015 May●●らくがき帖85年のタイムスリップ! 下村兼史の撮影現場は?

まさに思わないことが起きたのです。
  [ 私の長文を嘆く方へ:最初にお断りするまでもなく心ならずも長文ですが、せめて写真くらいはご覧ください。]

  日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史が撮った一連のコウノトリの写真が、1930年に出版された日本で初の本格的な野鳥写真集、「鳥類生態写真集」第1輯(三省堂)に載っています。今回の主役は「第五十三圖 カフノトリ(其一)」(PL.53)です。私がとても気に入っている1枚。撮られた場所は、「兵庫県出石鶴山」(イズシツルヤマ)と記載されているのです。

   

茅葺き屋根の家は 今?

ことの発端は、写真の背景に写し込まれた田んぼの中の格式ある佇まいの茅葺き屋根の家。右奥にはさらに大きな屋根の一部らしきものが写っています。その家に関心を抱いたのが、兵庫県立こうのとりの郷公園の山岸 哲園長(山階鳥類研究所名誉所長・理事/下村兼史生誕115周年・写真展実行委員会委員長)でした。
  「出石でこれほど大きな家なら、現在80歳代後半か90歳代前半のお年寄りで、この家をご存知の方が御存命なのではあるまいか?」
  この家の情報がわからないのかと、山岸園長が下村ファンの私にわざわざメールで訊いてきてくださった。
  「そりゃ判れば私だって知りたいもんです!」答えにならない私。
  「それでは地元で調べてみましょう。」と山岸園長。
  そいつは有り難い。恐らく85年以上も昔のこと。東京で思案していても話にならない。しかしだ、いくら地元でもムリなんじゃないのかなぁ。でもアノ家のことだからなぁ。私は疑い半分、期待半分でした。

豊岡のコウノトリの郷へ

それから1年ほど経って、なにげないお誘いが山岸園長から届いたのです。下村兼史のコウノトリ撮影現場を地元の研究者たちと視察することになったから5月19日豊岡へ来ないか、と。
  下村兼史の写真展が3年後に迫って、下村関連の情報は少しでも集めておきたいところ。たいした収穫も見込めないだろうが、この機に絶滅したコウノトリが再び舞う、日本では前例のない野外生物自然復帰の成功した豊岡の現場を見ておくのも悪くはあるまい。久々に東京を離れて西へ向かったのでした。
  豊岡では、山岸園長から件の家の探索を依頼されていた郷土資料収集家、中村英夫さんが案内役でした。中村さんが収集された膨大な量の貴重なコウノトリ関連資料の駆け足講義の後で向かったのが、かつてコウノトリが巣をかけて全国にその名を馳せた出石鶴山。昭和の初めころ、下村兼史が撮影に訪れたところです。

見晴らし台での異聞

丘には「出石鶴山史跡の散歩道」が整備されていました。見晴らし台は、明治時代なら茶屋がかかって遠くは京阪から松上の鶴ならぬコウノトリの見物客で賑わったところ。酒好きの下村兼史もここらで一杯やりながら?シャッターを切っていたのかと、85年の昔に思いを馳せたのでした。
  眼下はるかの田んぼに2羽のコウノトリがいると教えられて、コウノトリの郷にいる我が身を実感できました。
  そんな時でした。見晴らし台から北に2kmほど、田んぼにせり出すように低い丘が見えるでしょうと、中村さん。その昔、あの丘にも点々とコウノトリの巣があったそうだ。今からその丘の突端にある同じ豊岡市出石町の鳥居というところにあるお寺に向かうという。お寺に?・・・。
  なんでもそのお寺こそが、下村の撮った写真に写っている茅葺き屋根の家だと判明した!と、謎の家を先刻突き止めておられた中村さんご自身から聞かされた。どうもピンとこない。あり得ない情報が頭を過ぎったような、そうなんだろうか?と、内心疑わしくさえ感じたのでした。その時、私は下村の写真集に明記されているまさに「出石鶴山」にいたのですから。
  あっちで撮ったのですよと言われても・・・。

善立寺での納得

「浄土真宗本願寺派 白鶴山善立寺(ハッカクサンゼンリュウジ)」の石柱の立つ山門をくぐって――その時私たちは、実は下村の写真で茅葺き屋根の左奥に写っていた同じ山門をくぐっていたのだ!・・・ え? 信じて良いのかという思いが、まさかの現実に信じざるを得まい。それでも、ここは鳥居で、出石鶴山ではない。下村は「出石鶴山」で撮ったハズ・・・と、山門をくぐってもまだ心の中で繰り返していた私でした。

  鴻の巣饅頭とお茶のもてなしを受けて待つ内に、宮本公朗住職が持って現れた額装の写真、紛れもなく下村のアノ写真でした。
  「背景のこの茅葺き屋根は、ぱっと見ましたら、コレうちですよ」と静かな口調でご住職。
  「それが、“うち”ですかぁ!!」興奮して声高の私。
  そこに生まれ育ったご住職がそう言われるのですから、もうそうに違いない。私は目がくらみそうでした。
  「山門が同じ位置で写っています。この時は茅葺きですが。」
  「む〜。写ってる三角のこれ、山門ですか。ほんとだぁ」
  庫裏だけは別の場所に新築されましたが、それまで写真ではしかと識別できなかった山門と下村の同じ巣での別の乾板でよりはっきりと確認できる本堂は、屋根が瓦で葺き替えられただけで、写真と同じ昔のままの位置だったのです。

  山岸園長のメールから、今回はコウノトリがかつて繁殖した現場の単なる視察かと深読みもしないでいた私でしたが、今日の一行でコトの成り行きを知らされていなかったのは、東京からの私だけ? いや、豊岡市内からの道々それとなく茅葺き屋根の家が判ったとは中村さんから聞かされ、うすうすはへえ〜とは感じていたのでしたが、撮影地の新事実に結びつくとまで理解する余地が私にはなかったのでした。

  そうと思い込んでいる事柄を納得して覆すのは、特に年寄りの私には容易なことでないのです。しかし、今回の一件は、単純で屁理屈をこねる余地もなく、スッキリ決まったのでした。写真の茅葺き屋根は、善立寺の昔の庫裏。下村兼史が85年ほど昔に撮ったコウノトリの巣は、確かに善立寺の裏山にあった。撮影地は出石町鳥居。善立寺へ案内していただいて、私はやっとそう確信を深めたのでした。感無量というか、ある種の虚脱感が漂う満足感をも覚えたのでした。
  「地元の力」を発揮された中村さん、宮本住職、そもそもの関心を持ち続けたからこその山岸園長のお陰でした。

ナゾ解きに係わった面々

善立寺の下村撮影現場に居合わせて85年余の時空間を実感した一行のボルテージが改めて一気に沸騰したのは、言うまでもありません。納得してやや興奮が納まってきたあたりで、記念写真となりました。
  前列右から2番目が今回の立役者の中村英夫さん。持っている写真が、善立寺に飾られている例の写真です。額装写真の下方には「尾崎村(現鳥居区)のコウノトリの親子(昭和の初期 背景の家は善立寺の庫裏)」と明記されていました。さすが地元の“土地勘”と長年の“歴史資料勘”、中村さんは最初に立ち寄ったお寺で茅葺き屋根の家に巡り会ったということです。
  中村さんの左が、中村さんの高校時代の恩師、善立寺の宮本公朗住職。左端の山岸 哲園長が手にしている写真には「善立寺全景 庫裏(昭和30年代 茅葺き屋根)」のラベル。1955年代までは、庫裏がまだ茅葺きだったことが解ります。前列右端の私が持つのは、M. Yamanakaのサインのあるご住職の大叔母が画いた往時を偲ぶ油絵のお寺の全景です。
  後列左は、兵庫県立大学大学院地域資源マネジメント研究科の山室敦嗣准教授、その右が同研究科の中井淳史教授。写っていなくて今回お世話になった兵庫県立こうのとりの郷公園の方々がおられますが、皆さんにこの場を借りて心からお礼申し上げます。

興奮覚めてみて

一行に誰からかの質問がありました。「撮影場所の新発見にどんな意義があるのですか?」私は少なからず面食らって答えに窮し、山岸園長がなにやら答えている間に、内心で呟いていました。
  「意義とかよりも、ロマンですよっ、ロマン!」

  山岸園長が今回得たという教訓があります:「どうせ解らないだろう、と諦めて黙っていてはいけない。」ロマン派と違って、さすが学究的に捉えています。その教訓ですが、今回のことと関連して、私の胸に響いたのです。
  実は、下村兼史自身とその写真・映像作品に関しては、「どうせ解らないだろう」レベルのことが、枚挙にいとまがないのです。「諦めてだまっている」つもりはまったくないのですが、3年後に迫った下村兼史生誕115周年写真展までに、果たして新データ発掘にいかほどまでのエネルギーが割けるものだろうか・・・。
  かなり心しても、豊岡の経験をまつまでもなく一々の結果を出すのは相当キツイ話。身が引き締まる、いや、身が縮む思いではあります。とあれ、山岸園長の教訓を私も活かし続けねば!

プリントは2018年写真展で

そんな私に、断言できることが一つあります。話題のコウノトリの写真は、2018年東京での下村兼史写真展で間違いなく展示されるということ。下村兼史自身が引き伸ばしたと思われる恐らく日本で1枚しか残されていない四つ切のそのプリントが、実はバード・フォト・アーカイブスに保管されているのです。
  「カフノトリ」の一家ばかりでなく、茅葺き屋根の善立寺も、そして写真全体が醸し出すコウノトリの郷の味のある雰囲気をも、実物プリントの展示で是非お楽しみいただきたいと思います。

第53図の撮影データの確定と訂正

さて、ますます長くなるのは承知の上で、最後に下村兼史の「鳥類生態写真集」第1輯に載っているコウノトリ、第53図の撮影データについて纏めておきます。

  撮影場所は「兵庫県出石鶴山」ではなく、同じ出石町の現「兵庫県豊岡市出石町鳥居」ということが今回判明した点は、述べた通りです。
  蛇足ながら、撮影者の下村兼史が撮影地を誤って(?)記載した点を推察し下村に代わって弁明を試みたいと思います。
  地元では「鶴」が巣を構えているところはどこも「鶴山」だそうで、出石の“元祖鶴山”から2kmほどしか離れていない鳥居にコウノトリの巣があれば、鳥居も鶴山。森井にあれば、森井も鶴山。狭い地域のあちこちが鶴山と呼ばれていたそうであれば、下村が訪ねてコウノトリのいる出石一帯を総称的に“出石鶴山”として表現しても致し方ないのでは。撮影したローカルな地名が鳥居と承知しつつも、全国に有名な“出石鶴山”と写真集で記述した方が「通りがよい」と判断したのかもしれません。そんなことをも今回の現地視察で感じたのでした。

  撮影年月に関しては、私はこれまで山階芳麿著「日本の鳥類と其の生態」第2巻(岩波書店 1942年)の第31図版第1図(下村兼二撮影の「コウノトリの巣を取り巻いて営巣せるアオサギ」の写真)のキャプションから推察して「1928年7月」が有力かと考え、そうホームページに発表もしていたのです。ですが、その後キャプションに記載された1928年の根拠を再確認したくとも、今のところは不詳のままなのです。
  確かめたいだけで疑っているのではなく、キャプションのままを受け止めたいのですが、「著名な鳥学者の書著だからといって、引用事項は必ずしも鵜呑みにしてはいけない」との教訓を今回得て、ひとまず私の推察だけで判断した1928年説を取り下げさせていただきます。私が第53図の写真を1928年7月の撮影としたのは、どうか抹消し忘れ去ってください。
  ついでですが、同じ巣の別の写真が日本鳥学会から1935年に出版された「日本鳥類生態写真図集」(巣林書房)のp.27に載っていて、キャプションには撮影年はなく、「兵庫県出石鶴山にて7月中旬撮影」となっています。

  一方、下村写真集の第53図が「1920年代後半」の撮影――この表現なら妥当だと考えています。その写真集は印刷が1930年(昭和5年)2月ですから、少なくとも写真は1929年の繁殖期以前に撮られたものと言えるからです。それは、善立寺にある額装の写真に(昭和の初期 背景の家は善立寺の庫裏)と明記されていて、ご住職の証言とも矛盾しないのです。
  撮影データについてご意見、新知見をお持ちの方は、ご一報いただければ幸です。

●山階鳥類研究所の下村兼史サイトの誤ったコウノトリ撮影情報は、この間のご迷惑を心からお詫びしつつ、代表的昨品:コウノトリ及び足跡と原板はすでに訂正されています。

PS:タイムスリップの旅に気をとられ、ほとんど忘れていました。出石鶴山からの移動の途中で、コウノトリのいる同じ視野の田んぼに、この冬を過ごして渡らずにまだ居残っているというソデグロヅルが見られたのです!
  ソデグロヅルにはいろいろと思い入れがあります。恐らく下村兼史は見たことのない珍鳥だと思われますので、天国の下村兼史へのご報告として最後に書き残しておきます。

●●2015 Apr.●●らくがき帖中空を"飛ぶ"爽快さ

いつもは地上を歩く私だが、鳥のように空を飛びたいとは言わないまでも、我が身を中空において下界を見下ろす気分を味わいたいと、時に思う。 耳元を切る風、ひょっとしたら落下するかもしれない一抹の不安とスリル、地上に戻ったときの安堵感とちょっと「やったぁ!」な気分。悪くない。
  旅客機のような閉鎖空間ではなく、風が直に感じられる空を“飛べる”機会は、人生にそうはない。ないだけに記憶は新鮮である。いくつかが甦る。

   

沖縄の海上にて

モーターボートでロープに曳かれたパラシュートのブランコに乗って、中空に浮かび上がった時。
  おお! 見渡す限りの空と眼下に広がる海。単純にして迫力の絶景だ。吹き抜ける心地よい風。普段と異なる空間にいるのだと、いやでも感じる実体験の凄さ。想像をはるかに越える別世界だった。
  呼吸器系の疾患で普段から厄介になっていた酸素ボンベをその時だけ外さねばならないという二重の冒険となったカミさんであるが、しばしすっかりご機嫌。私は私で吊り綱をしっかり握っていたハズの両手が、気づいたときにはバンザ〜イ!していたほど。
  逆光の太陽で輝く水平線に向かって大きく急カーブを切ったボートの後を追うように一つ遅れて弧を描いて飛んだ時、二人同時に歓声をあげていた。

神奈川の遊園地では

人生初のジェットコースターに乗った時。もう40歳を過ぎてからのこと。いいトシしてそれまでの無経験と気力体力を気遣ってくれたカミさんを尻目に、先頭から2番目の席に内心いささかの不安を覚えながら陣取った。
  本番一発、年甲斐もなく大興奮。そして心身に満足感。
  世の中に日常を忘れるこんなステキな体験ができるものがあったとは! 下りてきて躊躇せずに次ぎの列に並んだものだ。
  乗り込む順番の区切れ目が巡ってきて、私たちのすぐ前にいる若いカップルが先頭になると分かった。ビビッテいそうなので、すかさず話に割り込んだ。「一番前はコワイですよ〜 席を代わってあげてもいいですけど・・・。」
  まんまと最前席をせしめた。したり顔の私。少しでも速い乗りものを好むカミさんだが、私が初モノにビビルかと思いきや、歓喜していることにアテが外れて半ば呆れ顔。いや、私自身、己のスピードを楽しむセンスに感心したのだった。

オーストラリアでは

カカデュ国立公園でヘリコプターに便乗した時。日豪渡り鳥保護条約の締約国会議で日本野鳥の会を代表して環境庁職員に随行し、会議後のエクスカーションに空からの国立公園視察と相成ったのだ。
  おもちゃと見紛う公園管理用の小さなヘリ。運ちゃんと後席がやっと3人分しかない。ウイリスジープのように取り外しのできるカンバス製のドアをはずすかと訊くパイロットに、一も二もなく賛成した私。
  一人が先に乗り込んだ次ぎが勝負だった。「環境庁の課長さんにここで万一のことがあったらエライことになりますから、安全第一、真ん中の席へどうぞ、どうぞ。」思って期待したとおりに、私は窓のない窓側の席に陣取った。
  外が丸見えのまま、すーっと浮かび上がったヘリ。異様な興奮が走った。腰のシートベルト1本だけがまさに命綱なのだ。万一ベルトがはずれでもしたら、とは正直頭を過ぎったあたりで、すでに理性を失っていた。水平飛行になる前に、もう左足を出して外側のパイプに乗せ、半身を乗り出しながら夢中でカメラを構えていた。
  なんという爽快さ。風の中にいる私。
  眼下一望の緑の森。乾期とて、大湿原の水位が落ちて沼のようになった水溜まりに集結するカササギガンの群れ。私たちのためにホバリングしてちょっと下降するヘリに驚いて、逃げることも叶わず攻撃をしかけるように見上げる浅瀬の水牛。
  残念だったのが一点だけ、愛用のキャップが吹き飛ばされたのだ。
  けだし忘れようにも忘れられない風切るヘリでの飛行体験だった。

夢はハワイ上空へ

ヘルメットにゴーグル必着。天蓋をはずした双翼二人乗り軽飛行機での遊覧飛行!
  この夢を果たさずして、カミさんが待つアノ世へ飛び立てようか・・・。

●●2015 Mar.●●らくがき帖味気のない話

櫻霞の静かな春の彼岸。カミさんが旅立ってもうすぐ3年が経つ。遠い昔のことのような、ついこの前のような。人の感覚とは不可思議なもの。

  一人台所に立って、ふと別の不思議さに気づく。サラダにでもしようかと野菜をまな板に乗せたときである。トマト、キュウリ、ピーマン、ニンジン、玉ネギ、クレソン・・・ 「どうなってんだ、どれもこれも水っぽくて味がしないじゃん! どうしてぇ〜?」

美味い野菜を育てる土壌が 不味くなった?

昔の野菜はこんなじゃなかったのだ。ほら、始まった、爺さんのボヤキ。ま、聞いてください。実は、よっく考えると、ひとつ野菜の問題に限らず私たちの生活の豊かさにかかわるオソロシイ話なのです。

昔のトマトにはトマトの味、昔のピーマンにはピーマンの味、昔のニンジンはニンジンの・・・。それぞれの野菜に味があったのだ。個性ある味だった。
  今私の目の前にあるのは、見た目にはトマトなのにトマトの味のしない、それでいて今でもトマトと呼ばれる野菜の一種。見た目にはキュウリなのにキュウリの味のしない・・・。 そんな食材で作る野菜サラダが期待にそう味であるわけがない。寂しいというか、どうしてこうなったのか不思議な感じにさえなるではありませんか。

夏ミカンは 顔をしかめるほど酸っぱいから夏ミカンなのだ!

田舎暮らしをした少年の頃のある朝、ゲタをつっかけ庭先の畑に出て、朝露に濡れるトマトをもぐ。色っぽいばかりの薄桃を帯びた赤色の1個を口に運んでがぶりつく。その味! 匂い! ヘタのあたりのまだうっすらと緑がかったところはちょっと固くて緑臭く、ヘタごとポイッと捨てる。子供心に忘れがたいその食感。新鮮なトマト味が口に残る。それがトマトだった。
  生のニンジンなんて、たいていの子供たちから敬遠されたほど、個性豊かな味があった。匂いも当然。それがニンジンだった。玉ネギなんかは、オフクロのそばにいようものなら、包丁をいれただけの玉ネギで涙が出でくるのだった。それが玉ネギ。
  姿形はまったく昔と同じなのに、水っぽいばかりで味のない私の野菜。生協やスーパーのビニール袋から出てくる個性を失った野菜で済ませている私は、ブツブツ言ってはいけないのでしょうか。
  一般消費者も軟弱になって、夏ミカンは酸っぱすぎて、甘夏だと! それはそれでよいのですが、砂糖をかけなければさすがに食べられないほど酸っぱいアノ夏ミカンが、市場から消えてしまった・・・。

知らぬが仏どころではありません

ましてや、野菜本来の味を味わったこともなく、美味しい野菜を教わる機会もなく、ビニール袋の野菜の味が本来の野菜の味と思って疑わない若い世代には、私自身以上にお気の毒です。
  気の毒がっている内に、見かけだけ美味しそうなだけの野菜のサラダを美味しいと思い込むようなことが生活のあちこちで起こり、そんなようなことがどんどん日常になっていって、私たちの生活がじんわりと貧しくなっていく。そうとも気づかずにいる。便利で豊かになっているハズの生活水準が、見えないところでレベルダウンしていくのが現実ではないのでしょうか。

  モンクの矛先を向けようにも、カミさんはいない。アノ世で美味しい野菜は調達できているのであろうか。なんでもいいや。野菜らしい美味い野菜が現に食いた〜い!!

●●2015 Feb.●●らくがき帖茨城県稲波干拓地で越冬するオオヒシクイの保護

茨城県の稲波(いなみ)干拓地にオオヒシクイが越冬しています。1985年に34羽が初めてこの地で観察されて以来、関東では唯一のこの亜種の定期的な越冬地として貴重な存在であることは、言うまでもありません。オオヒシクイをこの地で未来に残そうと地元の江戸崎雁の郷友の会が保護活動を進めています。
  去る16日、オオヒシクイの保護にも腐心しておられる土浦市大聖寺のご住職、小林隆成さん(公益財団法人山階鳥類研究所理事)のお誘いを受けて、5年ぶりに稲波干拓を訪れる機会がありました。
  土手の上から眺めると、何もいないかと思われる冬枯れ田んぼに、同じ色で見分けにくいオオヒシクイの群れが寝たり採餌したりしていました。さっそく強力なフィールドスコープを覗かせていただくと、94羽は数えられました。私にとっては久しぶりのフィールドでのバードウオッチング、何年振りかで見る雁の群れ。よそ者には、まさに命の洗濯のような1日でした。

ラムサール条約の登録湿地へ

地元の保護関係者はガンの保護に難題を抱え、気楽なよそ者などに構っているどころではないのがよく分かりました。オオヒシクイを保護するのに、江戸崎の越冬地をラムサール条約湿地に登録されることが、江戸崎雁の郷友の会の差し当たっての願の一つなのです。登録されるには、現在9つあるラムサール条約基準の少なくとも一つを満たす必要があり、さらに日本政府の方針である法的な担保と地域合意の2条件が必須となります。
  稲波がラムサール基準の一つをクリアーする最短距離は、日本に渡来するこの亜種オオヒシクイの個体群の1%にあたる60羽を稲波で記録することでした。年々わずかずつ増えて越冬する総てのオオヒシクイが友の会の皆さんによって数えられ、発見されてから20年後の2005年には、“あと1羽”の59羽に。すでに60羽をはるかに越えている現在、ラムサールへの登録基準を満たしているのです! この冬は124羽というこれまでの最高数となり、関係者の喜ぶお気持ちが察しられたのでした。

もう一つの朗報は、県知事指定の江戸崎鳥獣保護区1468haの内の稲波干拓区域218haが、昨年11月から特別保護地区に指定されたことです。これで、ラムサール登録への日本政府の2つの方針の内の一つがクリアーされたことになります。友の会のフィールド活動拠点である保護観察小屋のすぐ前に、赤地に白字の「鳥獣保護区 特別保護地区 茨城県」の真新しい看板が建っていて、どこか心強く感じられました。
  ラムサール登録には、もう一つの日本政府の方針、“地域の合意”を得ること。これは、ガン自身の問題というより、ガンを保護する側と江戸崎地域住民との問題ですので、お察しの通り一筋縄ではいきません。まさに友の会や保護関係者が力量を発揮すべき正念場となります。

  土手から眺める稲波干拓地は、私には数年前と一見変わっていないように思えました。一望の干拓地のどこでガンが採餌していてもよいようですが、説明を聞いている内に、さしもの干拓地も狭くみえてきてしまったのです。例えば農道が1本できたら、その両側100mはガンが警戒して利用しなくなるそうです。その農道と平行して200m先に新たな農道ができたとしたら、新旧農道の間とそれらの道の反対側100mは、ガンが下りて餌を採るようなことをしなくなります。目の前に拡がる田んぼには農道の新設や拡幅が懸念されており、オオヒシクイが利用できる湿地がどんどん狭められていく心配があるというのです。
  さらに、採餌可能な田んぼに代わって水を張った蓮根畑がポツポツと干拓地に増えてくる傾向があり、それがまたガンの越冬適地を狭め、防鳥網にかかる鳥の被害とともに、保護側にはアタマの痛い問題。ガンの採餌場となる草つきの田んぼを早めに起こしてしまう農作業、なんとかなりそうに思えてもこれも難しい問題。オオヒシクイが安全に採餌でき冬を越せる田んぼが将来にわたってどれほど確保できるものか、手をこまねいてはいられないのです。
  越冬中に稲波干拓地を一時的に飛び出したオオヒシクイの群れが、どのあたりの近隣地区でひとときをどう過ごしているのか、ピンポイントで分かっていないのが現状。飛行経路を年々少しずつでも追跡してガンのおりる田んぼを捜す越冬期の広域調査も、保護していくのに欠かせません。

写真の右側に土手と平行して斜めに走る車道のその右の三角形に写っている干拓地の一部に、これらの問題が実は見え隠れしているのです。土手から見えるオオヒシクイも、この日はこの三角の左奥に保護上の課題と隣合わせに過ごしていたのです。
  こうした状況下で、生活がかかる農業者とのガン保護の合意をとりつけるには?

助っ人 呉地正行会長のアドバイスを胸に

ラムサール登録へ向けて先達の知恵をお借りしようと、江戸崎雁の郷友の会では、その日、日本雁を保護する会の呉地正行会長をお招きしたのでした。写真でオレンジのフィールドジャケットを着ている方です。呉地さんは、日本の雁の保護調査の父、ご本人に言わせれば“雁の下部”。雁が渡り鳥であるため国際的な活動も欠かせず、国内外で雁一筋の保護調査活動を“ソ連時代”から長年続けておられます。日本で越冬する雁たちに言わせれば、恐らく“感謝してもしきれない人”ということになるでしょう。
  稲波干拓地でのオオヒシクイをめぐって保護側と農家側との互いに譲れないように思える、しかし共存の道を拓かねばならないラムサール登録への最後の難関、“地域の合意”。そのあたりの修羅場を宮城県伊豆沼で蕪栗沼でくぐり損ねくぐり抜けて、地元の人々や行政の立ち場と雁の保護を両立し成功させてきた積年の経験を基に、呉地さんは室内での友の会との会合で静かな口調で力強くお話されたのでした。

  ガンを保護したいからといって、こちらの主張を地域住民におしつけていては、ガンの保護などできません。まずは地元農家の人たちとの話合いがスタートで、その内容も地域の発展をみこした農業とガン保護が共存できる提案をすることが欠かせないのです。農業の改善にはどうしたらよいかなどを含めたそんな話合いから次第に理解がうまれ、雁のためにもなる農業を考えていこうかという機運も見いだせてくると思います。
  オオヒシクイ保護のために、ではなく、農業の発展ひいては地域の将来を考える一つのフォーカスポイントとしてオオヒシクイをとりあげ、地域活動全体の中で保護に結びつけていくのが友の会の選ぶ方向であろう、と。
  「まあ、こっちの言うことも聞いてくれ」といった農業者の声がでてくるまでには時間と根気が必要ですが、それなくして雁の保護はありません。行政との話合いも必要不可欠です。得られた地域住民特に農業者の声を背景にすれば、ガンの保護にさらなる行政の理解と協力も期待されます。問題が起きる前に行政担当者から内々で相談を受けるようになるまでには、これまた地道な根気強い努力が要りますが、その段階へもっていければ保護活動が軌道に乗るのです。
  ラムサール登録は雁を守る目標ではなく、一つの重要な通過点ではあります。登録が実現して喜んでも、保護を進めるのは実はそこからです(!)

  その日、記憶にないほど久々に呉地さんと旧交を温めることができたのは、私にとってなによりのことでした。積年の保護調査活動のご苦労や失敗などが積み重ねられての保護実績の重みと経験に基づくオオヒシクイ保護のアドバイスには、説得力に加えて迫力があり、我が身を振り返って感動を越えたある種の心の痛みさえ覚えたほど。お話のニュアンスまでここに書き残しえませんが、雁の呉地さんは最高でした。
  友の会の役員会員の皆さんも、組織の若返りも含めてこれからの会の保護活動に力強いエネルギーを呉地さんからいただいたに違いないと感じたのでした。
  江戸崎雁の郷友の会では、オオヒシクイの保護にご賛同いただける会員を広く募集しています。私からもご協力をお願いする次第です。

  稲波干拓地のオオヒシクイたちよ、友の会の皆さんの熱い思いを感じていてくれてるだろうなぁ。

●●2015 Jan.●●らくがき帖2018年下村兼史写真展へ ご寄附のお願い

「写真展を開くのにそんなにお金がかかるのですか、塚本さん?」
  「700万とか1,000万とか言ってるらしいけど、それでほんと足りるのですか?」
  実行委員会の新米事務局長の私に、いろいろな驚きやご配慮のお声をかけてくださり恐縮です。実は、開催資金の目標達成をご心配くださった後者の方の反応が現実だと、覚悟をしています。
  ただ単に下村兼史の野鳥生態写真を壁にならべるだけなら私の小遣いでも間に合うかも?ですが、皆さまにご満足いただけるであろう実行委員会の意気込みを実現させるには、多額の資金が必要となります。覚悟しただけではお金は集まりません。勝手ながら、皆さまからのご協力をいただけたらと願っております。暖かいご支援を是非よろしくお願い申し上げます。
  すでにご寄附をくださった方々には、心からお礼申し上げます。お陰さまで幸先良いスタートを切っています!

  「公益財団法人」に認定されている山階鳥類研究所へのご寄附には、税制上の優遇措置が適用されます。詳しくは同研究所の「税法上の特典」のページ をご覧ください。山階鳥類研究所の公益事業として「下村兼史写真展指定寄附」と明記してご送金くだされば、領収書が山階鳥類研究所から皆さんに届き、寄附金は実行委員会の口座に振替えられます。

郵便振込をされる方

  • 口座番号 00140−0−411064
  • 口座名義 (公財)山階鳥類研究所
  • ご寄附の際は、郵便振替用紙の通信欄に「下村兼史写真展指定寄附」と必ず明記してください。
  • 振替手数料ご負担のない郵便振替用紙をご希望の方は、下記の写真展実行委員会事務局へご連絡ください。

銀行振込をご希望の方

  • 下記の写真展実行委員会事務局へご連絡ください。
  •  
  • 下村兼史生誕115周年・写真展実行委員会事務局
  • 〒111-0052 東京都台東区柳橋 2-1-9-901
  • (有)バード・フォト・アーカイブス内
  • Tel & Fax: 03-3866-6763
  • e-mail: info@bird-photo.co.jp
●この際私からもお願いいたしたいのですが、山階鳥類研究所では写真展以外でも一般的なご寄附、ご遺贈、および賛助会員を随時募集しています。詳細・お問合せは、同研究所の「ご支援のお願い」ページをご参照いただければ有り難いです。


BPAへのご寄附のお礼とご報告

バード・フォト・アーカイブス(BPA)では、2006年以来独自に自然保護積立金口座を設け、有志の方々からのご寄附とBPAの自然保護活動のための資金積立の誠にささやかな努力を続けてきました。お陰さまで、2006年11月9日から2014年10月9日までに21人の方々から約204万円、BPAとして約45万円、受取利息を含めて合計2,502,316円となりました。
  これも一重に平素からのBPA活動へのご支援の賜と感謝申し上げます。この場を借りて、ご寄附やつもり貯金をしてくださった方々のお名前を以下に挙げ、心からのお礼に代えさせていただきます(通帳の記帳順)。

  故 筒井 修 浅香富士太 日光野鳥研究会 松澤寿子
  宮下昌子 故 西崎敏男 鈴木恵美子 平岡 考
  故 蒲谷鶴彦 蒲谷久代 蒲谷剛彦 岡田泰明
  廣居忠量 笹川昭雄 百武 充 故 藤村和男
  岐部裕子 故 塚本和江 塚本洋三 西崎敦子
  金子かよ子      

積立金の使途に関しましては、公益財団法人山階鳥類研究所が主催する2018年の下村兼史写真展開催をBPAとしても全面的に支援させていただきたいと考え、積立てた全額を写真展費用の一部に充てさせていただく判断をいたしました。公益活動をサポートすることで、皆さんのご厚意が活かされます。事後ながらご了承のほどお願い申し上げ、ご報告といたします。

  下村兼史写真展もBPAも前進します。何卒よろしくお願い致します!

2015 Jan. BPAフォトグラファーズ ティータイム藤波理一郎さん(最終回の続き)

最終回に「続き」があるとは、人生初経験である。人間いくつになっても何が起きるか分からない。愉快なり。
  重ねてご案内しておきたい。藤波さんのアメリカ野生画像をさらに多くご覧になりたい方は、「藤波Reporthttp://fujinamireport.com を是非ご覧ください。
  藤波さん、長い間の連載、実に有り難うございました! 次は、数年後にアリゾナの藤波さんご夫妻を私が訪ね、満月に浮かぶソノラ砂漠の自然やマデラ渓谷への再訪などをレポートしたいものです。夢の実現を今から楽しみにしていますからね。


アリゾナでの隠居生活 Part 2の続き

藤波理一郎

庭にやって来るハチドリたち

ハチドリは、南アリゾナで暮らす私たちにとっては大変身近な鳥である。 庭花を飛び回って蜜を舐めたり、窓に掛かってるフィーダーに来たり、 庭木に巣を作って子育てをしたり、とにかく一年中深い付き合いのある「生きもの」である。

冬枯れの庭木で日に当たるコスタハチドリ ( Costa's Hummingbird ) ♂ ハチドリは冬の寒い夜には体温を低くして半冬眠状態となり エネルギーの消耗を防ぐので 朝はまず太陽に当たって体を温めなくではならない
撮影 ◆ 藤波理一郎
2012年1月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


極寒の朝 手に持つフィーダーの砂糖水を舐めるコスタハチドリの♂♀ 1月末の大寒の頃は 砂漠でも早朝は零下になることがある そんな朝にはグラウンドに落ちてバタバタしてるハチドリを見つけることがあり すぐ拾い上げて暖かい所でフィーダーにのせてやらなくてはならず 忙しい思いをさせられる
撮影 ◆ 藤波理一郎
2013年1月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


フィーダーで砂糖水を舐めるアンナハチドリ ( Anna's Hummingbird ) ♂ もともとカリフォルニアの海岸沿いにしか生息していなかったが 近年南アリゾナでも数多く見られるようになった
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年1月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


毎年庭木で子育てして可愛い雛を見せてくれるアンナハチドリ 手のひらにスポッと入ってしまうほど小さい巣で 雛は小指の大きさである
撮影 ◆ 藤波理一郎
2012年5月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


10センチぐらいしかない小さなハチドリはえさ場(花やフィーダーがある所)の取り合いが激しく 常にまわりの高い枝で見張りよそ者が近づくと猛烈な勢いで戦い空高く追いかけて飛んで行く 今年は 庭に陣取るコスタハチドリ(左)とアンナハチドリ(右)のすごいバトルをたびたび見ることが出来た
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年7月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


北米では南アリゾナの砂漠でしか見られないメキシコ種のアカハシハチドリ ( Broad-billed Hummingbird ) ♂ 冬は中南米へ下りてしまうので、夏の間だけ庭のサルビアの花に毎日のようにやって来る
撮影 ◆ 藤波理一郎
2011年6月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


アカフトオハチドリ ( Rufous Hummingbird ) ♀ たった10センチしかない体で 冬を過ごす南米からアラスカまで5600キロの信じられない長旅をするのもいるようだ 毎夏 渡りの途中 庭に寄って花の蜜をたっぷり舐めて栄養補給をし 再び北へ旅立って行く姿を見ていると 思わず「頑張れよ」と声をかけてしまう
撮影 ◆ 藤波理一郎
2014年8月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


まさにソノラ砂漠の風景

日常のことなのですが、庭での「ブランチ」はサボテンや鳥たちと共に、 そして「ハッピーアワー」の親しい友人夫婦との夕食は、自然や音楽、映画、 スポーツなどの話で楽しく盛り上がる。 赤白ワインをたっぷり飲んだ後は、砂漠の中を酔っぱらい運転で無事帰って来たりするのです。 ワイルドライフを保護するために街灯がなく、 色々な動物が出て来る夜道の運転はやはり少々怖いですね。
  アリゾナの生活は最高です!

真っ青な空とさんさんとふりそそぐ太陽の下で 大サボテン ( Saguaro ) の花とハチドリを眺めながら「ブランチ」をとるアリゾナならではの“ライフスタイル”は 実にクールである
撮影 ◆ 藤波理一郎
2014年5月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ


ワインを飲みながら友と語り合う贅沢な“ハッピーアワー”で見る 砂漠の夕焼け空
撮影 ◆ 藤波理一郎
2014年11月
アリゾナ州マラナ市 アメリカ
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